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なぜ、人は他人の痛みが分からないのか? 他人事で済んでしまうのか? [【再掲載】]

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学生時代にT君という友達がいた。彼は非常に陽気で面白い奴だが、少々問題があった。僕が友人に貸した金がなかなか返って来ず、イライラしていると「せこーい!1万2万の金いいじゃねーかー」と笑う。が、当時、僕は月10万円で生活していた。貯金はない。貸した2万円が返って来ないと、その月の生活がヤバくなる。

ある日、T君自身が貸した5千円が返って来なくて、彼がイライラしていると逆に「せこーい。5千円くらいいじゃねーかー」というと、感情的になり「何言ってんだ。5千円は大金だぞ! バカなこというんじゃない!」と激怒した。

彼はそんな性格で他人の痛みは笑って過ごすが、自分のことはすぐ感情的になり怒り出す。日頃は陽気で面白い存在だが、それが仇となり、多くの友達が去って行った。彼は極端だが、多かれ少なかれ人は彼と近い部分があるのではないか? 人の不幸を聞いても「ふーん。大変だね」で終わり。でも、自分が被害に遭うと慌てふためく。

僕は原発事故後の福島に行き、被災者の方に話を聞き、それを痛感した。事前に勉強はしていたが、彼らの苦しみを理解できていなかった。理屈では分かっていたが、放射線で立ち入り禁止となった仕事場、畑、家を見て、彼らの話を聞いて何もいえなくなった。僕もT君と同じなのだ。他人の痛みを想像し、自分のことのように感じることが出きていなかったのだ。

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でも、新聞やテレビのニュースを見ても地元の人たちの苦しみは伝わりにくい。その痛みをどうすれば伝えられるか?を実践したのが「朝日のあたる家」だ。が、現実の中では、言葉や活字だけで人の悲しみを知るのは本当にむずかしい。この間まで「福島、大変!」と言っていた人が「次の選挙は景気回復を望む」と言う。

ある製作会社に監督料の支払いを拒否されたことがある。何ヶ月も働いて、ノーギャラ。抗議しても「金はない」という。そこでスポンサーに直談判した。その人は業界の人ではないが映画作りに投資している。こう言われた。「監督は映画愛のある人だと思っていたのに、結構、金に細かいんだね? あなた、金のために映画をやってるの? 失望したよ」

驚いた。そんなことを言われるとは思わなかった。が、彼は僕の働きを見ていて「よくがんばるなあ。映画愛のある人なんだ。お金のためにやってる訳じゃないんだ」と評価していたようだ。でも、その僕がギャラの支払いを要求したので「失望した」と言うのだ。ただ、その前に、何ヶ月も働いて監督料がもらえないと生活ができない。家賃も払えないということは想像しない。

監督料といってもサラリーマンの月給と大差ない額。いや、それより少ないだろう。それ以外の収入がないことも分かっているはず。生活が破綻する。でも、考えない。学生時代のT君。決して特別ではなかったのかも?と思えた。

しかし、僕も勉強してはいたが、福島の人たちの苦しみを想像仕切れなかった。その意味では同じかもしれない。人はなぜ、他人の痛みを想像できないのか? 他人ごとで済ませることができるのか? そのくせ、自分が被害に遭うと、怒りを爆発。「何で、この苦しみを皆、理解しない!」と思ってしまう。

「朝日のあたる家」神戸で上映してほしいという熱いリクエストがあった。聞くとこう言われた。「我々も震災でもの凄く大変だった。だから、福島の人たちの気持ちがもの凄く分かる。だから、映画を見て、自分たちができることを考えたいです」

胸が熱くなった。が、神戸の映画館は全て上映拒否だった。自主上映が解禁になったとき、一番に依頼が来たのは神戸だった。有志の方々が自主上映会を開いてくれた。劇場は超満員。皆、涙、涙で映画を見てくれた。そのことを思い出す。




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