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「シン仮面ライダー」の謎を紐解く=映画作家が抱える十字架。長い記事だぞ。 [映画感想]

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「シン・仮面ライダー」個人的には面白くなかったが、非常に興味深い作品だった。それを解説するためには「ライダー」だけ見ても分かり辛い。全ては「シン・ゴジラ」から始まっている。もっと言えば「エヴァンゲリオン」なのだが、とりあえず「シン・ゴジラ」だ。

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あれは実によくできていた。「ゴジラ」シリーズ数ある中でリアルゴジラとして描いている。SFにならないように、社会派ドラマのような設定。現代の反映がある。1作目のゴジラが原爆、戦争をダブらせた。東京を破壊するゴジラは東京に原爆が落ちた!あるいは戦争により東京が再び崩壊したという表現。そのことで原爆や戦争の恐ろしさを伝えた。

対して「シン」制作サイド、あるいは庵野秀明監督は考えた。「あの時代は原爆、戦争。では今は?」その種のテーマを無くしたその後の「ゴジラ」シリーズは力をなくし、単なる怪獣ものに成り果てて行く。その種のテーマは大事。それが「原発事故」=福島の原発事故が東京で起きたというイメージなのだ。

つまり「動く原発事故」=ゴジラ。そのことで東京がメチャメチャになる。そこには20年を超える不況も、イメージされているかもしれない。メチャメチャになった日本。海外からの圧力。しかし、お役所の縦割りではなく、垣根を越えて優秀な人材を集めて対処すれば、日本は立ち直る!それが「シン・ゴジラ」のメッセージなのだ。

また、この映画のベースとなるストーリーは庵野監督が大好きな「帰ってきたウルトラマン」の1エピソード「決戦!怪獣対MAT」である。ウルトラマンでも倒せない怪獣を処理するために、小型原爆スパイナーを使おうとする上層部。対立するMAT隊員たちという物語。これが「シンゴジラ」のベース。

庵野監督はこれと同じストーリーで、学生時代に8みり映画も作ったほど。思い入れのあるエピソード。そんなふうに映画というのは監督の強い思い。現代性。テーマがとても大事。そのことで観客を感動させる。

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ところが2作目の「シン・ウルトラマン」では、それらが全く見えない。テーマは何だったのか? 監督の思いはどこにあったのか? 現代性は? 現代性に関しては科特隊をビートルに乗って戦う団体ではなく、科学的な発想で怪獣に対応するチームとして描いた。「シン・ゴジラ」路線を踏襲している。

が、「ゴジラ」では登場しないウルトラマンという存在。これをどう現代性を持たせるか? そして宇宙からの侵略が当時のテレビシリーズそのままで、宇宙人が怪獣を使って攻撃してくる。ここに現代性を持ち込めた。中国による日本の土地買収。韓国経済に敗れた日本。海外企業による水道事業買取。堤未果さんの「日本が買われる」を読めば、その種の話は事欠かない。

なのに、その種の現実が物語に持ち込まれていない。「シンゴジ」では原発事故、不況という現代の反映があったのに「シンウル」ではない。それどころか、登場するメフィラス星人。オリジナル「禁じられた言葉」では少年の心に挑戦する哲学的な話であり、暴力で侵略しないという設定なのだが、映画版ではザラブ星人と変わらぬ侵略者として描かれている。(私の好きな言葉ですーはウケたが)

どちらも知能犯の宇宙人であることも、物語を盛り下げている。多種多様な敵が出て来るから面白いのに、なぜ、似たようなキャラを出したのか? そしてクライマックスの敵はゾフィーが操るゼットン。当時の初期設定にあった話らしい。が、これも盛り上がらない。地球絶対の危機を救うウルトラマンという流れではあるが、何だか他人事に思えた。

そこに現代社会が反映されていないからだ。「シン・ゴジ」では不況の中に生きる私たち。原発事故で知った政府や東電の阿漕さ。それを反映したゴジラを倒すことで、日頃の不満が解消される。が、「シン・ウル」にはその種の反映はない。侵略者に中国やアメリカはダブらない。最後のゼットンに至っては何?という感じ。

ここからは同業者としての推理だが、庵野監督が「シン・ウル」に熱い思いがなかったのではないか? 前作は「あのゴジラを俺が撮れる!すげー」ということで、あれこれオリジナル版と比較して何を作るべきか?考えている。その前後に「エヴァ」の完結編。そこで彼も作家として完結。

次が「ウルトラマン」リメイク。もちろん、子供の頃から見ている大好きなシリーズ。でも、「今、それをリメイクする意味は何か?」彼はそれを見出せなかった。また、一番好きなのは「帰ってきたウルトラマン」その最愛のエピソードは「シンゴジ」で使ってしまった。

また、映画作家、特に特撮系の人に言えることだが、社会に対する関心が薄い。前作では原発事故を持ち込んでいるが、それほど詳しく勉強したわけではないだろう。ただ、ゴジラ=戦争=原発事故はうまくマッチした。今回も侵略ということで言えば、先に紹介した国際情勢をマッチさせられるのだが、庵野さん。その辺に興味はないように思える。

往々にして特撮監督は、特撮ものには詳しいが社会に興味がなく、学生時代も部屋でビデオを見ていたタイプが多い。他人(人間)に対する興味も低い。自分のことしか考えていないことが多い。だから、特撮アニメには詳しいが世間知らず。人付き合いも悪い。映画ファンにもそれが言える。というのも僕自身もそうだったから。映画のことしか知らない。興味がなかった。その種の作家が「ウルトラマン」をリメイク。困っただろう。

熱い思い入れがある訳ではない。おまけに「エヴァ」完結編で作家としても完結している(この話は後でも出て来るので覚えておいてほしい)社会を反映させるにも世間を知らない。そんな時、特撮マニアが考えること。「実現しなかったオリジナルの企画を映像化すると面白いかも?」それがゾフィが操るゼットン。

マニアな観客が見れば「おーそう来たか!庵野、よく勉強してるなあ」となるが、単なる旧作ファンから見ると「ゼットン。ちゃんと人型になり戦ってよ〜」と不満。一般客から見ると社会の反映がないので、他人事。おまけに人型でないので戦闘場面もない。だが、特撮マニア監督が思いつくのは、それしかなかったのだろう。

結果、「シン・ゴジ」のリアル社会設定を引き継ぎながら、宇宙人ヒーローものなので、それも途中で崩壊。現代社会を反映させることもできず。マニアな発想でオリジナル設定を復活させるしかできなかった。つまり、庵野監督は「シン・ウル」に乗っていない。やりたくなかったのだろう。あるいは、客を楽しませるためではなく「幻のオリジナル設定を映像化するとどうなるか?」それを確かめたかっただけかもしれない。

そのため、ファン、マニアな観客は喜んでも、一般の客は楽しめなかった。「シンゴジラ」のようにはならなかった。ネームバリューと前作の評判で大ヒットしたが、庵野監督の熱い思いはどこからも感じられなかった。いや、一つだけ。彼は主演の長澤まさみには思いがあったと思える。これもマニアックな背景があり、詳しく説明するのは憚れる。特撮ファンにありがちなヒロインに対するサディステックな思い。そこは楽しみでいたように思える。

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さて、その次が「シン仮面ライダー」。この流れで来ると庵野監督はこの企画もさほど乗ってないことが予想される。だが、彼は徹底した作家で「適当にやっちゃおう〜」とは考えない。自分なりに真剣に考えた。結果、どうしたか? 前2作の現代の反映を持ち込む路線をあえて止めた。ショッカーをイスラム国やオウム真理教のような設定にして、リアリティを持たせていない。

だからと言って新しい趣向があるわけではなかったろう。敵の最初の怪人・クモ男(劇中の名前は違うが)が丁寧語で喋る。途中で「私の好きな言葉です」と言い出すのではないか?と思えたほど。繰り返すが、「シン・ウル」の前に庵野のライフワークである「エヴァ」は20年ほどかけて完結している。彼の人生を叩きつけた作品。その後の「シン仮面」。

つまり、手持ちカードは使い果たし、新たな興味も見つからない。大好きな「帰ってきたウルトラマン」を持ち込んだ大好きな「ゴジラ」シリーズも作った。「エヴァ」も完結。作家としても完結。だから、過去カードを使うしかない。それをクモ男のセリフでまず感じた。

この作品。ショッカーによる市民攻撃はほぼない(1箇所だけ大量の人間を消去するが通常の破壊工作とは違う)政府や企業も攻撃しない。これも特撮マニアのサガ。社会に興味がないことの反映。コウモリ男のエピソードで「人類削減計画」という話が出てくるが、これも聞き齧ったことで取り入れただけの設定。展開はしない。ただ、今回は社会を描かない理由がある。

監督は「今回はどうしようか?」と考えた。前二作のノリではできない。また、それではやる気が起きない。それでなくても「やる気」はなかっただろう。そこで先のクモ男と同じ。以前に使ったカードを持ち込む。「エヴァ」である。あれはどういう話だったか?思い出してほしい。簡単にいうと碇シンジの「本当の自分探し」の物語。アイデンティティの確認がテーマなのだ。

それをSF設定のロボットものに投入した。正義や平和がテーマではない。そこが斬新であり、自分を感じられない若い人たちの共感を得た。その意味で現代が持ち込まれていた。シンジは庵野監督自身であり、周りにいる美女たちアスカ、綾波、ミサトらに支えられて、父・ゲンドウとの葛藤を乗り越え、アイデンティティを見つけるという話。

要は傷ついた心の回復の物語。実際、庵野秀明にも実の父との葛藤があり、それを彼は物語を作ることで答えを探したのだ。つまり、純文学。だからこそ、単なるロボットアニメではない感動や感銘があり20年もヒットを続けた。絵空ごとではない。ただ、そのテーマは完結している。と言って「シン・ウル」のような絵空事だけの作品をもう一度、やる訳にはいかない。作家として自分を許せない。

そこで決心したこと。「シン仮面ライダー」に「エヴァ」を持ち込んだのだ。本郷猛がシンジ。緑川ルリ子が綾波。ショッカーとの戦いの中、本郷はルリ子によって励まされ、教えられ、成長していく。「エヴァ」と同じ構図。そしてショッカーは敵ではない。本郷、ルリ子を含んだ家族なのだ。その葛藤を描いたのが今回の映画。

だから、市民を犠牲にしたり、企業や政府を攻撃する話は必要ない。家族の中で誤解があり、争いになり、血のつながった同志が傷つけ合う。これは「エヴァ」におけるシンジX父・ゲンドウの構図なのだ。愛されたいのになぜ、お父さんは分かってくれない!その思いを再び描いたのだ。

家族に犠牲が出て、愚かな争いだと気づく。だが、すでに遅い。その希望を託したのが、弟とも言える存在。一文字隼人。これは仮面ライダーの形を借りた家族の悲しい物語。だから、「仮面ライダー」を期待した人には???と思えるだろうし、一般の客にはもっとよくわからない作品に見えるはず。

持ちカードを全て使い尽くした作家が、あえてもう一度、自分が抱えていた血のカードを使った作品なのだ。作家が抱える痛みこそが一番、観客に伝わる。でも、逆に言えばそのカードを再度使わねばならないほど、手持ちのカード。つまり、描きたいことがないということ。その全ては「エヴァ」完結編で完結した。その後の「シンウルトラマン」「シン仮面ライダー」の企画にさほど乗れないながら、新しさを求めて苦闘する作家。そのの姿を感じる2作となった。他人事ではない。全ての映画作家が抱える悲しい十字架である。


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