朝日のあたる家ーLAでの反響をもう一度! [ロサンゼルスの映画祭]
朝日のあたる家ー海外上映の記事。
多くの反響を頂いた。
外国の人はあの映画をどう見るのかな?という意見も届く。
ご存知の方も多いが実は、”朝日”完成後の最初の上映はロサンゼルスの映画祭だった。
ジャパン フィルム フェスティバル LA。
そこからご招待頂き上映した。
LAは僕が大学時代を過ごした想い出の町。
感動ではあったが、心配もあった。
というのは、この町はハリウッドを抱える地区。映画に関しては娯楽映画志向。
ニューヨークのように社会派映画はあまり受けない。
なのに”朝日”は原発事故に巻き込まれた家族の悲劇を見つめる物語。
ヒーローが悪い奴をやっつけるというエンタテイメントではない。
観客はどう感じるのか?
会場にはアメリカ人。といっても様々な人たち。
白人。黒人。日系人。そして在住の日本人。
そんな観客を前に上映がスタート。
不安が渦巻きながら、僕は壁際に立ち、客の反応を観ていた。
上映後半。何人かが涙を拭い始める。
クライマックス。観客のほとんどが号泣。
エンディング クレジットが流れ、俳優名が終わるあたりで拍手が起こる。
それも15秒ほど続く長い拍手。
さらに、クレジットが完全に終わった段階でまた拍手。
この映画祭でもかつてない反応だった。
終了後の舞台挨拶。ステージに立つと観客から、もの凄く暖い目で見つめられた。
そして誰もが”分かる。その通りだい”という表情だった。
あとでこう言ってくれた人がいた。
”この映画を観て911を思い出した。
何の罪もない市民がいっぱい犠牲になった。
でも、政府は何もしてくれない。だから家族は自分で守るしかない。
福島も同じだ。涙が止まらなかった”
そう、彼等の多くは911を重ねていたのだ。
だから他人事ではない。
娯楽映画ではなく、自分たちの問題として観てくれたのだ。
だから、2度も拍手が起こった。
”面白かったぜ!”
という意味ではなく。”本当にその通りだ。私もそう思う!”
という賛同の拍手だったのである。
ある人が言った。
”ロスでこれだけ絶賛なら、社会派映画を好むニューヨークやヨーロッパで上映すれば、もっと高い評価を受けるだろう!”
果たしてどうか?
その日を楽しみにしている。
間もなく日本・・・。 [ロサンゼルスの映画祭]
LAからの飛行機の中で(4)深夜ドラマの監督をするが、 [ロサンゼルスの映画祭]
ようやく、テレビの深夜ドラマの監督依頼!
1997年。これが僕の監督デビュー作になる。
「風の娘たち」。
帰国して7年目のことだった・・。
だが、それも1クールで終わり。
その後は業界最低と言われている製作会社で、c級ホラービデオ。
信じられない製作費でドラマを撮った。
ごまかし、ウソ、搾取、欺瞞、
ありとあらゆる汚さで溢れるその製作会社。
そこから抜け出さないと、このまま終わってしまう、、、、、、
嫌な作品を我慢して監督するくらいなら、本当にしたい仕事をしよう。
本当に撮りたいものを撮ろう。
同じ辛いのなら、その方がいい。
そう考えてスタートしたのが「ストロベリーフィールズ」。
5年かかって製作費を集め、映画化した。
その作品が今回、LAで上映された。
感慨深いものがあった。
ストロベリーフィールズについては=>http://t-ota.blog.so-net.ne.jp/archive/c45401758-1
前回の、2年前の映画祭でも、もの凄く感じるものがあって、
ひとつの時代が終わったこと。感じたけど。
LAから帰国して、バイトして、シナリオライターになって、、、、
という長い長い物語が完結したけど。
今回もまた、何かの終わりと始まるを感じる。
多分、新しい物語の第1章が終わり、第2章がスタートするのだろう。
まだ、「朝日のあたる家」の公開はこれからだが
第2章では何を作るのか?
何を作るべきなのか?
そんなこと。LAからの機内で考えていた・・・。
LAからの飛行機の中で(3)帰国して映画監督を目指すが、 [ロサンゼルスの映画祭]
23歳で渡米。6年間のLA生活。
29歳まで。
そう、日本に帰る前はまだ30歳になってなかった。
今は50歳と思うと、信じられないけど、
なんか、気持ちはあの頃と全然変ってない、、、、、、
あれから22年、、。
日本に帰ったら、映画監督になれるのかな?
いや、どうやればなれるのだろう?
帰国時の飛行機の中、そんな不安でいっぱいだった。
映画会社に行き「USCで勉強してきました」といっても、
「だから何?」と言われるだけ。
帰国して居酒屋とレンタルビデオでアルバイトをしながら、
シナリオを書き始めた。
30歳になった頃だ。
それから何年もバイトしながら、シナリオを書き続け。
映画会社やプロデュサーに読んでもらった。
でも、ことごとく駄目。
5年目にしてチャンスを掴み、シナリオライターデビュー。
もう、35歳だった。
でも、2本書いたらストップ。依頼がなくなる。
今度はメイキングを頼まれて、メイキング監督デビュー。
モーニング娘。とかを撮っていた。
これが好評でメイキングの仕事が続く。
が、ドラマの依頼はない。
「太田はメイキング専門の監督だしな・・」
気づかぬ間に、そんなレッテルを貼られていた。
(つづく)
LAからの飛行機の中で(2)ルーカスに憧れてUSCの映画科に [ロサンゼルスの映画祭]
LAからの飛行機の中で(1) [ロサンゼルスの映画祭]
ロサンゼルス国際空港を出発。
日本に向かうシンガポールエアの機内。
1人。思いにふける。
今回も、LAの映画祭は印象的だった。
いろんなことを感じた。その辺を綴ってみたい。
6年間のLA生活。人生で最も苦しかった時代かも
いや、高校時代の方が暗黒の時代だったよなあ~
LAは大変だったけど、楽しいこともあったから。
それでも英語で苦労し、生活で苦労し、日本人で苦労し
悪戦苦闘の連続だった。
そんな日々を送ったときに住んでいたアパート。
今回も車で前を通ったけど、あの頃と全く同じ形で残っていた。
22年前か....
表の扉を開けて建物に入り、自分の部屋のドアを開けると
今もあの頃のまま、のような気さえする。
テレビが置かれ、脇に映画のビデオ。VHS。壁には映画のポスター。
日本の歌が当時は手に入りくくて、
もちろん、リトル東京に行けばCDは買えたけど、
高いし、レンタルCDが出来たのもかなりあと。
友人が送ってくれたカセットテープ(!)を繰り返し聴いていた。
小比類巻かほる、渡辺美里、矢沢永吉、本田美奈子、中森明菜、
小泉今日子、尾崎豊、斉藤由貴。
そんな歌を帰りの飛行機で聴いていた。
もう、25年前の歌。
でも、それらを聴くと懐かしさを超えた複雑な思いがこみ上げ、涙が溢れる。
当時の空気に取り巻かれ、あのLAの日々が鮮明に蘇る。
辛かったこと。悲しかったこと。嬉しかったこと。
まるで映画の1シーンのように交差。
声を上げて泣きそうになった・・・。
(つづく)