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Facebookのコメント欄。ブログのように承認制にできないものだろうか?  [FB問題]

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Facebookのコメント欄。ブログのように承認制にできないものだろうか? 

このところ、いろんな方々がコメントをくれる。そのこと自体はありがたい。以前のように記事を読まず、タイトルだけ見て「私は賛同しません!」とか「そんな人の本は読みません」とか無責任なコメントをする人はいなくなった。

が、このところ多いのは、勘違いや思い込みであれこれコメントする人。この夏、過労でダウンして自宅入院生活を送っていた。今はもう起きてどこへでも行ける。それを振り返る記事を書いたら「今、寝込んでいる」かのように思い込み、治療法や薬のオススメを書いてくる。以前に書いたが、文章を理解する力が弱い人が多いため。教育がその種の訓練をしないからだ。

その勘違いコメントを見て、別の人が健康について書き込む。もう、元気なのに?「お大事に!」とか書かれる。「ありがとうございます」と答えるべきか? 「もう元気ですよ」と返事するべきなのか?その人は記事を読まずに他の人のコメントだけを読み「監督、病気なんだ! 大変だな」というやさしい気持ちで書いてくれたのだと思うのだが....。

そんな風に記事をしっかり読まずにコメントすると、別の人がそのコメントだけ読んで、間違った認識を持ってしまう。負の連鎖。ただ、間違ったコメントを削除するのも躊躇する。悪意はない。記事を読んではいる。過去の記述を現在だと勘違い「監督は寝込んでいる」と間違った認識を持っただけ。でも、間違いがあるたびに「それは過去の話ですよ」と注意するのも、どうなのか?ブログのようにコメントが承認制ならこの種のことは起こらないのだが、Facebookではそれができない。

他にも悪意はないが、明らかに間違った主張を延々と書き込む人がいる。何より僕の記事とは関係しない、別の話を論じている。飛躍や勘違いが多い。それを「友達」が読む。反論を書き込む。議論になる。無意味な連鎖。どう対処するべきか? ま、そもそもはFacebookの機能に問題があるということなのだが...。



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料理の写真をアップしなくなった理由。仮想空間であることを忘れて現実を持ち込む人たち? [FB問題]

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料理の写真をアップしなくなった理由。仮想空間であることを忘れて現実を持ち込む人たち?

昔々、その日食べた料理を写真に撮り、掲載していた。多くの人がよくやっていることだが、旅行先で地元の名物を食べた時だけでなく、日頃の食べる料理の写真を上げることで生活や仕事振りも伝わる。ファーストフードが続けば「仕事が忙しいんだな」とか、どんぶり物が多いければ「この人は丼物が好きなんだ」とか、文章ではなく、キャラや趣味も分かる。

ところが、それらの写真を見て「野菜が足りませんよ」と親のようなことを言い出す人たちがいた。心配してくれているのだろうが、大きなお世話だ。1日3食の食事全てをアップしている訳ではない。ランチでハンバーガーを食べても、夜はサラダバーの店かもしれない。なのに、その写真だけを見て「野菜が足りませんよ!」とコメントしてくる。次第に同じコメントをする人が増える。そこでこう書いた。

「その日の1枚の写真だけ見て、野菜が足りないとかいうご指摘は要りません。それは僕自身が一番理解しています。今は多忙で野菜サラダを食べる機会がないだけです」

と説明すると、逆ギレしたコメントが来た。

「あんな写真(ハンバーガー)を見せられれば誰だって心配になるのは当然でしょう!」

たった1枚に写真だけを見て「野菜不足ですよ!」と、会ったこともない相手にあれこれ指導、苦言コメントを書き連ねる。そんな人が多いことを指摘しているのに逆ギレして反論してくる。非常に思い込みが強く、自分は正しいという思いを感じる。

また、面白がって何を書いても「野菜が足りませんよー」とコメントする人たちまで出てきた。どんどん増えて10人20人となる。なので「野菜が足りませんーとコメントは要りません。いい加減うんざりです。その際は友達削除させてもらいます」と告知。(今でもその種のコメントがあれば削除します!)

もう10年ほど前の話。コメント主に悪意はない。が、面白がっている。親しみを持ってくれている。クラスの友達のような感覚だろう。しかし、僕はその人たちと会ったことはない。顔さえ知らない。何者かも知らない。彼ら彼女はギャグのつもりだったりするが、こちらからすると見ず知らずの人が毎日、意味もなく「野菜が足りません」とコメントしてくるのは、不気味であり、やはり大きなお世話。

そこにFacebookの問題点がある。

会ったこともない相手を現実の友達のように感じて、自分のことを相手は知らないのに、親密なコミニュケーションをしてしまう。覆面を被った人が近寄ってきてジョークを言うみたいなもの。それは不気味なだけで笑えない。議論をふっかけてくる人も同じ。互いのバックグランドを知ってこそ議論は成立する。相手の年齢も、知識も、背景も分からないと例題を出すこともできない。なのに、覆面のまま、あれこれ言ってくる。

それ以来、料理の写真は上げていない。食事というのは人の距離を縮める。だから、デートは食事なのだ。大統領が来日すれば美味しいものを振る舞う。料理の写真を上げることで「友達」はより親しくなったと思ってしまったのだ。今は料理の写真は基本あげない。が、また一つ新たな問題も感じ始めている。それはいずれ。


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「現役映画監督が映画界の闇を告発」とネットで書かれたことも。週刊誌とネットを混同した悪意なき「友達」? [FB問題]

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「現役映画監督が映画界の闇を告発」とネットで書かれたことも。週刊誌とネットを混同した悪意なき「友達」?

Facebookのことを書いていて思い出した。ある時、映画会社の問題点を記事にした。将来、映画関係の仕事をする人たちに夢ばかりではなく、現実も伝えておこうと考えた。そうしたら、それをシェアした人がいた。そしてタイトルに「現役映画監督が映画界の闇を告発! これが映画会社の実態だ」と3流週刊誌のような見出しでアップした。これはアウト。Facebookには「シェア」機能はあるが、こんな見出しをつけて他人の記事を拡散するべきではない。

何よりも告発とかではなく、映画会社の厳しい現実を書いただけ。書いたのはfacebook友達であり、名前とそれなりのプロフィールは知っている。過去に何度も「いいね」をくれた人だ。が、そのシェア記事を見た人は

「あの監督。告発したんだ!すごいね?」

と興味本位で読むだろう。読みもせずに「告発だって?」と騒ぐ人もいるだろう。シェアした彼はそこまで考えていない。連絡して問いただしたら、

「悪意はなかった。週刊誌風の見出しが浮かんだのでつけてみた。いい記事なので多くの人に読んで欲しかった」

と返事が来た。悪意がないのは分かる。が、「お前は週刊誌の記者か!」と言いたい。三流週刊誌は中身のない記事でもセンセーショナルなタイトルをつけて売る。商売だ。それを理解せず真似してつける。愚かとしか言えない。

だが、業界外の人でその種の勘違いは多い。ワイドショーで俳優のプライベートを聞く。それはレポーターの仕事だ。その感覚で俳優に「今、付き合っている人は?」とか聞いてしまう人がいる。先の彼は週刊誌と現実を混同した。問題はそこからだった。別の「友達」からこんなコメントが来た。

「いいじゃないですか!センセーショナルだし、それに惹かれて監督の書いた記事を読んでくれれば、タイトルが違っていいんでしょう」

それがカタギの人ならまだ分かるが、映画業の友人だった。バカすぎる!お前も業界で仕事をし、その手のいい加減な報道や週刊誌で迷惑したり、傷ついた俳優さんを見て来てるだろう。タイトルの大切さ。映画でも記事でもそれは顔だ。何より言いたいことあれば電話して来い[電話]番号知ってんだろ。わざわざコメントして火に油を注ぐな。即、ブロックじゃ!そんな風に一人がバカなことすると、それに賛同。筋の通らぬことを言って来る輩が次々と出てくる。

ネットはテレビほどではないが、多くの人が見ている。そこにコメントを書くと言うのは街中で叫ぶのと同じ。繁華街でビラを配るのと同じ。良かれと思ってもそれが嫌がらせになることもある。あなたの部屋のパソコンにだけ映し出されるものではない。が、それを忘れたり勘違いしたりする。友達同士の会話ではないのだ。そんなこと時々、考える。


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Facebook。再びお休みした=親切や応援が憎悪に変わる悲しいメディアなのか? [FB問題]

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春にFacebookを再開したときに注意したことがある。以前のようにランチの写真をアップしたり、「***市に行きました」「***さんと会いました」という記事を書かないようにした。そうすると批判や中傷。上から目線のアドバイスがかなり減った。なぜか? 

 それはランチの写真を見ることで、「へーこんなもの食べてるんだ。栄養ないのになあ。監督業も大変だなあ」と同情する。或は共感する。そこで距離感が近くなる。「***市へ行きました」と言う記事を読むと「うちの近所じゃん!」と感じる。それも親近感を持つ。僕の近況や奮戦記を読む。「監督がんばってるなあ〜」と応援したくなる。

 こうして「友達」たちは「よく知る友人ががんばっている」という認識になる。一度も会ったことはないのに...。そのことで応援してくれる。これはありがたいことだ。が、それが発展すると、他人ではなく、友達として「監督。***に気付いていないなあ」「***した方がいいんじゃないかな?」と思うようになり、会ったこともない人なのにアドバイス、助言したくなるようだ。

 それが、どんどんエスカレートして、

「野菜を食べなきゃダメだろ」「さっさと仕事しろ」「その考え方は間違っています」「もっと広い心を持つべきです」というコメントをするようになる。そんなふうに親や先輩のようにプライベートに関してまで説教や指示を始めてしまう。Facebook友達の一部にはそんなタイプがいる。

 もちろん、底辺にあるのは「親切」であり「応援」。だが、会った事もない人に対してそこまで言うことが常識を逸脱していることに気付かない。そこで僕が無視したり、注意すると「親切で言っているのに!」と怒り出す。「あなたのために言ってあげてるんですよ!」と逆上。プライベートをあれこれ批判しているのに、親切や応援だと言い出す。


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 そんなタイプは次第に攻撃的になる。

「応援したのに、許せない!」となり、悪意のあるコメントを書き込んだり、他の人にダイレクトメールで批判を送ったりして、憎悪の輪を広げて行く。最初は純粋に「応援しよう!」という気持ちだった善意の人が、結果的に憎しみに燃える存在となってしまう。悲しい。

 その原因は、僕がランチの写真をアップしたり。仕事ではあるが「***市に行った」とか、「**さんとお会いした」という記事を掲載したことだ。それ自体は本来、何ら問題はなく、誰かを傷付けるものではない。が、Facebook「友達」たちが親近感を持ち、本当の友達と勘違い、どんどん距離が縮まってしまう。

 それが分かって来たので、その種の写真や記事は春から極力上げないようにした。アップするのは映画の宣伝と、僕自身の意見を書いた評論やレポート。つまり、プライベートは見せないようにした。それは効果的で、以前のような「野菜が足りませんよ」というコメントはなくなった。ま、野菜が足りているか?いないか? ランチも夕飯も写真をアップしないので分からないからだが。それが大事だと痛感した。

 会った事もない人にあれこれ批判、指示。

プライベートをあれこれいうのは非常識ではある。が、そのことを言っても伝わらない。相手に良識を求める前に自分が何をしたか?を考えるべきだったのだ。「親近感」を持ってもらうことは本来嬉しいことであり、応援に繋がるのはありがたい。でも、多くの人たちがプライベートに踏み込み、あれこれ批判されては敵わない。最終的には嫌われ、誹謗中傷になる。それはこちらが注意するしかないのだ。

 あとやはり映画監督という職業も大きい。だから「応援してあげよう!」という気持ちになる。とてもありがたい。本当に嬉しかった。「映画監督なのに、こんな貧しいランチ食べてるんだ。応援して上げなきゃ」と思ってくれる。ただ、だからといって、毎日「野菜が足りませんよ」とコメントされても困る。そんなことは分かっている訳で、ただ、時間がなく。ランチ時に野菜がたくさん食べられる場所にいないだけだったりする。


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 また、映画界のルールや慣習もある。

一般では許されることも業界では許されないこともある。サラリーマンなら「親が死にかけている」となれば、仕事を休める。が、映画関係者の多くはそうはいかない。「親の死に目に会えない」仕事と言われるほど。そのことをあれこれ批判したり、「その考え方は間違っています」とコメントされても困る。そんな価値観の違いから批判に発展することもあった。

 もちろん、そんな人は一部ではあるのだけど、その辺を気をつけて記事をアップしたことで、かなり状況はよくなった。そして「友達」もさらに増えた。しかし、別の問題も出て来た。それはまたいずれ書きたいが、悲しい問題である。その種の問題だけではなく、やはりFacebookをやると時間を取られる。以前の記事でも書いたが、Facebookは田舎の喫茶店のようなものなのだ。

 そこを訪ねると誰か知り合いがいて、

話を聞いてくれる。或は、その人の近況を聞かせてくれる。孤独な都会に住む人には心のオアシス。でも、御節介な人たちもいて、プライベートをあれこれ訊いて来たり、一方的な説教をしてくる人もいる。そして、何度かその店に立ち寄ると、相手は本当の友達と思ってしまう。あれこれ「親友」や「親」のような注意や説教を始める人もいる。

 そんな店に映画の宣伝に長い間通った。いろいろ対応を考えた結果。以上のような「友達」は激減した。今ではほとんど批判的なコメント。大きなお世話はない。が、4本目の映画も無事DVD化され、しばらくは宣伝することがない。なのに、今も1日1回喫茶Facebookに通ってしまう。もし、僕があれこれ話を聞いてもらえるのが好きならいい。その交流で心癒されるなら問題ない。

 が、もともと忘年会嫌い。結婚式行かない。飲み会も嫌。という捻くれ者。孤独な都会生活が合っている。あれこれ言われるのが一番嫌い。できれば放っておいてほしいタイプ。心のオアシス・喫茶Facebookに通う意味がないことに気付く。


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他にしたいことがある。せねばならないことが山ほどある。だったら、Facebookを続けるより、お休みするべきだと思えた。習慣というのは恐ろしい。そのことにしばらく気付かず、毎日記事の更新をしてしまった。ただ、僕の記事を楽しみにしてくれている人もいる。休業のお知らせをすると100人以上の人が残念がってくれた。でも、本来の仕事だけでも手一杯。

 そんなことでFacebook休業となった。

こちらのブログは続ける。ブログにもあれこれ言うコメントは来るが、ブログの機能性からいってFacebookほど気楽にはできないシステムなので圧倒的に少ない。でも、1日1000件から3000件のアクセスがある。あと、ブログが突然に説明なしに途絶えて、数ヶ月が過ぎれば、僕が孤独死していることも伝えられる(?!)そんな意味もあるので、こちらは続ける。


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Facebookーなぜ、本人に直接言わずに、ネットで批判するのか? [FB問題]

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Facebook。今年の春に再開してからは以前のように、無神経な批判や誹謗中傷。プライベートについてあれこれ言うコメントもなくなった。「友達」の数も増えたし、僕の記事を毎日読んでくれる人もかなりいる。

 ただ、シェアしておいて、そこに皮肉や批判のコメントをする人がたまにいる。要はさらしものにしたいのだ。「この記事の****はおかしい」「この考え方は違う」と書いてシェアする。が、誹謗中傷とまでは行かないので、特にブロックはしない。

 だが、中には何度も会ったことがある友人と呼べる人が同様のことをしていたことがある。「この種の記事を書くべきではない。嫌な思いをする人もいるだろう」とコメント。そう思うなら直接言ってくればいい訳で、その記事をシェアして「嫌な思いをする人」を増やす必要はないのだ。

 その人は会うと、そんなことを言う人ではないが、Facebookに記事ではときどき批判をしてくる。なんで、僕にメール等で言わず、ネット上で文句をいうのか? 「直接だと言いにくいから」とも考えたが、ネット上では何百人という人が読む。その人たちに個人的な不満を伝えて何になるのか? それは新宿駅前でメガフォンを持ち、友人の批判を訴えるようなものだ。

 あと、僕の記事を読んだあと、その批判を共通する「友達」にメッセンジャーで送り付ける人もいる。リアル世界に置き換えれば、その友人がいないときに、顔見知り同士が悪口をいうというものだ。ご近所付き合いとか、ママさんの公園付き合いでは近いことがあるだろう。人はなぜ、そのように裏にまわって特定の誰かを批判したりするのだろうか? でも、以前は公然と批判してくる人が多かったので、状況は改善したといえる。

 しかし、次なる問題が出て来た。それはまたいずれ。




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Facebookを再開したが、あるルールを決めた。 [FB問題]

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 午前中に起きて、iPadでメールやFacebookをチェック。そう。昨年暮れに休止したFacebookを1ヶ月ほど前から再開した。「朝日のあたる家」DVD発売の宣伝のためだ。でも、今までとは違うスタンスで記事を上げる。

 「基本1日1回の投稿」

 「何を食べたか? どこへ行ったか?」

 はもう書かない。書くと、いろいろ問題が起こったからだ。以前に何度も書いたように「Facebook友達」=会ったこともない人たち。ネット上だけのつながりで本来の友達ではない。「承認」してからの期間も短いのに「親友」のようなスタンスでコメントしてくる人がかなりいた。プライベートにズカズカ踏み込み。親友でも言わないことを書き込む。それどころか、先輩、師匠、親のような注意や指示をしてくる。

 でも、Twitterと違い、名前も顔も分かっている人。経歴もある程度知ることができる。安易に友達削除はし辛い。悪意がない人たちだと分かっているのでがまんする。でも、やがてイライラが頂点に達し、体調不良にまでなった。そこでFacebookを休止。それから何ヶ月か、いろいろ考えて、分かったこと。なぜ、多くの会ったこともない「友達」は勘違いして、一線を超えて来るのか?


 それは「何を食べたか?」「今日はどこへ行ったか?」「何をしたか?」等の個人情報を記事にすることで多くの人が親近感を持ち、「親友」「友達」「身近な人」と思い込み、プライベートに対してまで、一線を超えたことを口出しするようになったのだ。

 それらの人は「親切」だと思っているが、多くが「大きなお世話」。Facebookは人と人との距離感を勘違いさせ、その種の問題が起きやすい。

 「野菜が足りません」「あなたは傲慢です」

 「そんな記事を書くべきではありません」

 等。会ったこともない人からあれこれ注意を受けるのは、楽しいことではない。会った事もないどころか、住んでいるところも、仕事も、年齢も分からない人が、あれこれ他人に指示する。それが一線を超えていること、当事者はなかなか気付かない。注意しても

 「親切で言ったのに!」「応援しているのに!」「失礼な!」

 ということになり。あちこちで僕を批判、悪口記事を書きまくった人もいた。それに同調する人もいた。でも、それらの人に悪意はない。純粋な人たちなのだ。ある意味でFacebook社の戦略に嵌ってしまった人たちでもある。そこは以前に「Facebook問題」シリーズの記事で詳しく書いた。だから、注意するよちも、こちらが気をつけることが大事。そう気付いた。

 僕自身が不注意だったのだ。だから、あれこれプライベートな記事を書かない。何を食べた。どこへ行った。飲み会に出たとかを記事にしない。つまり、Facebookを通じて交流をしたり、世間話をしたり、議論をしたりしたいのではない姿勢を保つ。

 単に告知の場として、応援してくれている方々への活動報告だけをしていることを明確にすること。なので作品の告知。と割り切って作品のこと。宣伝のことしか書かない。それとコラムとして、僕の意見を毎日ひとつだけアップする。そんなスタンスに切り替えた。

 それ以来、以前のようなコメントはなくなった。常識がないーと責めるより、まず自身が対応することが大事だと反省している。応援してもらえるのは、ありがたい。本当に感謝している。しかし、それが一線を超えたり。或は大きなお世話になったり、時には嫌がらせになさえなってしまうことがある。

 でも、その人たちはそれに気付かず「がんばってほしい」という純粋な気持ちでコメントする。ただ、ある種の人たちに迷惑がかかることになる。それを伝えると応援者は傷つく。余計なことをした。そこまで考えなかった。よかれと思ったのに。。。。或は、

 「だったら、もう応援しない!!」

 「何だ偉そうに!」「勝手にしろよ!」

 と激怒する方もいた。本当に申し訳ない。応援であることは重々承知しているし、今も感謝している。
でも、そのために第三者が傷ついたり、関係者が迷惑したりする人も出て来た。違法行為になる場合もあった。それは考えねばならない。本当は僕自身がそうなる前に気づき、対処するべきだった。それが遅すぎたと言える。

 何をするべきだったか? それは一線を引く事。距離を置くことだと思えた。Facebook友達は「親友」ではない。親戚でも、師弟関係でも、親子でもないこと。理解してもらうこと。それにはプライベートを見せないことだ。それは寂しいことだが、仕事の上では昔からそれを実践していた。

 俳優とは距離を置き、プライベートで飲み会をしたり、交流をしたりはしない。応援してくれている人とも、その種の距離感が大事なのだと気付いた。だから、Facebookにプライベートなことは書かないようにした。今のところ。大きな問題はない。前に進むには淋しい現実を見ることが多い。今回もそのひとつ。でも、大事なことだと思いたい。








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Facebookを止めて3ヶ月。自分のことが見えてきた。 [FB問題]

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 Facebookを止めてから3ヶ月が経つ。といっても、先月は2回だけ記事をアップした。それを機会に再開しようか? とも考えたが、現在はこの「朝日のあたる家」日記。「向日葵の丘」日記。そしてTwitterと3つで情報発信をしている。それだけでも大変。Facebookまで手がまわらない。

 「朝日」と「向日葵」は共通した記事もあるが、社会的なネタは「朝日」に書く。「向日葵」は広島公開が迫っているが、それで映画館公開も終了なので、新しい情報がもうないので記事もたまにしかアップできない。そのせいか最近はアクセス数がかなり下がり、1日500アクセスということもある。それに対してDVD発売で盛り上がっている「朝日」は1日3000から5000アクセス。

 「パーソナリティ障害」の記事が好評だったこともあるが、連日、多くの人が読んでくれている。現在は「双極性障害」や「安保法制」のことも書いているので、さらに関心を持ってくれる人がおり、そうなると毎日、更新せねば!と思ってしまう。DVD発売もあと1ヶ月だし。おまけに、生活費を稼ぐ仕事のために仕事をせねばならない。時間がどんどんなくなる。

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 そんなわけでFacebookを書く余裕がないのだが、もうひとつ。いろんな人たちの記事を読むたびに思うこと。よく知る友人が今、どこで撮影しているとか。***で舞台挨拶をしたとか、そんな情報を知ることができるのはありがたい。でも、一度も会ったことがない人が今日何を食べたとか、飲み会をしましたという記事を読むことにどんな意味があるのか?考えてしまう。

 また、あれこれ社交辞令のコメント。そんなものに返答しなければならないと思うと、疲れがどっと出てしまう。ブログではほとんどコメントが来ないし、失礼なものは表示さえしないで済むが、Facebookは全部、表示されてしまう。Twitterでも絡んでくる人はいるが、そんなのは即ーブロック! でも、Facebookは名前も、素性もわかる人たちなので、無下なことはできない。が、仕事も忙しく、その人の勘違いや常識を異していることを説明する余裕はない。

 てなことを今回も感じて、再開はしていないのだが、そもそも僕は日常的な社交辞令や慣習が嫌いなことを思い出す。結婚式は行かない。ご近所付き合いはしない。親戚付き合いもしない。仕事等で関係のない人たちと特に親しく交流したいとは思わない。というのも、話が合わないということがある。また、その種の人たちは平凡な価値観で固まっていて、それを平気で押し付けてくる。

 映画作りというのは既成概念を壊すことがひとつのテーマでもある。なのに、そんな映画を作る監督がそれに縛られていてはダメだということもあるし、それに従う人は映画作りなんてしないということがあるだろう。ま、簡単にいうと変人なのだ。常識のない人種なのだろう。なのに、社交辞令や無意味な付き合いをすることが多々有るFacebookを続けること自体が無理なのだと思える。


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 ただ、一般の良識ある人たちは、ちょっとした挨拶や会話を楽しんでいるのかもしれない。お天気の話や季節の話をすることで、コミニュケーションすることを喜びとするのかもしれない。それができにくい孤独な都会生活。人と接することが少ない仕事をしている人。独身で友達もいない人とか。そんな人たちはFacebookというオアシスに集まることは否定すべきことではない。

 けど、そんな人たちから、あれこれ質問を受けたり、注意されたり、説教されたり。それも専門家とか先輩ならいいが、年齢も分からない。バックグランドも紹介していない人から「あなたのためですよ」と、あれこれ言われても困る。覆面をした男が街角で説教するようなもの。覆面をしていないくても、その種の人はお断りだ。

 Facebookをやっていると、そういうことが多々有る。もちろん、応援をくれる人もおり、嬉しい面もあるが、「友達」の数が増えて行くに従い、あれこれ口うるさくいう人も増えて行く。そんなことを思い出し、再開せずに、友人がプロデュースした映画の紹介記事をあげてページを閉じた。

 記事を読んでもらえるのは嬉しい。それについてあれこれ感想を伝えてくれるのもありがたい。だが、当て外れな批評。誹謗中傷。勘違いな感想に対して、ひとつひとつ返答はできない。そして、その種のコメントが次第に増えて行くこと。また、「友達」を承認しただけで、10数年来の友達になったと思い込む人たちもおり、それが勘違いだと説明するのも大変。

 もっともっと、やらねばならないことがある。読みたい本もあるし、見なければならない録画もある。友人に電話して意見を聞きたいこともある。映画の宣伝やDVD発売の告知。生活のための仕事。そう考えて行くと、何を捨て、安易を続けるか?を考えねばならない。ま、そんな難しく考えなくてもいいことだが、基本、人付き合いが好きではないのかもしれない。あるいはやはり変人だということだ。Facebookを止めて3ヶ月。いろんなことが見えてきた。


 つづき=>http://cinemacinema.blog.so-net.ne.jp/2016-06-18


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Facebook。久々にログインしたが、当分は再開しないかな? [FB問題]

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 Facebookを休止してから3ヶ月が経とうとしている。先日、「朝日のあたる家」のDVD発売の告知をしようと、久々にログイン。記事をアップした。

 ついでに、いろんな「友達」の記事を見る。懐かしい人。今も会う友人。しばらくあってない友人。ネット上だけの付き合いだが、毎回「いいね」をくれた方。アイコンや名前を見て思い出す。

 これを機会に短期間でも再開しようか?と思えたが、タイムラインを読んでいて考え直した。先に書くがFacebookも利点はたくさんある。それをうまく活用すればプラスになる。が、僕の場合はプラスも多いが、マイナスがそれを上回る気がする。

 タイムラインを見ていると、「友達」のページに、コメントが書き込まれている。「わーー凄いですね。***さんの努力が感じられます。これからもがんばってくださいね!」とか、「それおいしそうですね。どこのお店ですか? 教えてくださーーーい」とか。


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 それをページの主が「いつもありがとうございます。これからもがんばります!」とか「これは***駅前のケーキなんですよ。一度、お試しください。おいしいですよ」とか返事をしている。ある友人の言葉を思い出す。

 「はっきりいって面倒くさいですよね。会ったこともない人があれこれコメントしてきて、それにイチイチ返信しなければならない。仕事で疲れて帰って来たのに、またFacebookで気を使わなければならない。何かバカらしくなってきました」

 そう、何で会ったこともない人に対して、いちいち返答せねばならないのか? もし、友達のいない人が、仕事でも人と会話することのない寂しい人が、帰宅して、Facebookを見て「今日もお仕事お疲れ様でした!」とコメントされていると嬉しいだろう。でも、仕事で散々、話をし、同僚と飲み会をして帰宅して、またFacebookを相手にせねばならないというのは疲れる。

 その友人はまさにそんな状況。簡単にいうとFacebookを続ける意味はないのだ。その意味で僕も同じ。応援してくれるのはありがたい。でも、「友達」は3000人近くいる。その1人1人の声援に応えることはできない。もちろん。3000人が同時にコメントはしないが、1日に10人でも、例え「いいね」返しだけでも、時間は取られる。

 よくコメントで「5分もあれば返信はできるでしょう? スルーしないで」と書いて来た人がいたが、1人5分で10人いれば50分だ。仕事のメール返信でさえ、書く気力がない日があるのに、仕事ではないFacebookの「友達」にまで手がまわらない。

 また、本当にどちらでもいいことを書き込む人。あれこれプライベートな質問をして来る人。何度も書いたが大きなお世話。無用のアドバイスをして来る人も多い。もちろん、ありがたい助言や情報提供もあるが、多いのは前者。Facebookを再開するということは、その種の人にもまた対応せねばならないということだ。


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 そう考えると気が重くなり、DVD発売の記事だけアップして、それ以降更新はしていない。このブログは続けている。コメントはたまにしか来ないし、無神経なものは即削除。それはブログ上に表示されない。それを読者が読んで気分を害することはない。ひとつひとつに返事しなくてもFacebookのように「スルーした」とか「失礼だ」という人はいない。

 以前にも書いたが、Facebookは「仮想故郷」。自分を知る近所の人がことあるごとに声をかけてくれる。「いってらっしゃい」「お帰りなさい」「お疲れさま」「夕飯おいしそう」「仕事大変ですね」それらは本来嬉しいものだ。が、その種の人たちは次第にプライベートに踏み込んで来る。「野菜が足りませんよ」「運動した方いいですよ」「人の悪口はいけません」「自重した方がいいです」ーーそんな大きなお世話も多々ある。

 また、何もしらない人が仕事に口出し、お説教、批判してくるーーーこれはTwitterでも同じだが、Facebookの場合は本名が分かっており、好意で言って来ることが多い。が、ほとんどが無意味、当て外れなもの。そのひとつひとつに返事はできない。削除すると、激怒して「あなたのために言っているのよ」とまた書き込みがある。

 この善意の押しつけ。自分の知らないことをアドバイスする人たちが曲者!? それがFacebook休止に至った理由のひとつでもある。3ヶ月ほど経ち。そのあたりのストレスを忘れていたが、コメントの数々を見て、それを思い出す。当分は復活しないでおく....。



 つづく=>http://cinemacinema.blog.so-net.ne.jp/2016-04-03-2



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Facebook休止から間もなく2ヶ月ーネット上の仮想古里。その現実? [FB問題]

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今年に入りFacebook問題について

何回も記事を書いたが、最近すっかりご無沙汰。その後の「境界性パーソナリティ障害」記事も大人気で、2月に入り「朝日のあたる家」DVD発売と、Facebook問題は過去の歴史的な印象になっている。あと、いろんな角度から考えて、過去の記事で結論が出たということもある。

 やはり「ネット上の仮想故郷」と「自己確認のためのメディア」に尽きるのではないか?と思える。(詳しくは過去の記事参照)もちろん、実際の友達を「友達」とした関係性を保つなら、便利なメディアである。ただ、「友達」が3000人を超えると、いろんな問題が出て来る。本当に有益な情報や助言をくれる人もいるが、「やじうま」というべき人たちが多いのが現実。

 その辺が僕にとっての結論になっている。何より先の2つが僕の場合は嵌らなかったので、禁断症状が出ることもなく、すんなり休止することができたのだろう。休止して1ヶ月半。Facebookを使っていたのがかなり昔の話に思える。先日、久しぶりに開いてみると、多くの「友達」が今も、毎日記事を書き続けていた。

 最初の頃は住んでいたコミュニティから

自分だけが出て行くという寂しさを感じる部分もあったが、月日が経つと、そこに居続けなければならないのであれば空しさを感じる。親しくもない人たちからあれこれ言われたくないという思いも強い。その辺が分かれ目だったのだろう。ただ、あれこれ言われたい。心配してほしい。褒めてほしい。そんな人たちにはFacebookはともて意味あるメディアだ。

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先日、「朝日」DVD化宣伝の第二弾で短期間復活を考えた。そう思い、一度、開いてみたのだが、ある「友達」のコメント欄に並ぶ、いろんな意見を見ると(個性的というのではない、言葉は悪いが、どーでもいいものがズラズラ並んでいる)んーーーー短期間復活しなくてもいいかな?とも考える。

 いつだったか、「目薬をして寝る」と記事にすると、コメント欄に「俺、目薬嫌いなんだよね」と書き込む「友達」、もちろん会ったこともない。過去にネット上での交流もない。無神経極まりない。落書きとも言える。そのことを注意する記事を書くと、別の人から「その人は監督と会話をしたかったのかもしれません。人を批判する前にもっと広い心を持って下さい」とのコメント。

「会話したけりゃ。常識的なコメントをしろ!」

と思ったが、何を書いても、そんなふうに無神経なコメントが来て、それを擁護するコメントが来て、「在り方」を強要するコメントが来る。その種の人々を「やじうま」と位置づけるのだが、喧嘩する人を見て無神経に「やれやれ!」という。火事を見物に行き「おーー燃えてる燃えてる!いいぞー」という人と同様なのだ。

 Facebookはそんな人たちが気軽にコメントして来れるシステム。また、それを「応援」と思い込み「監督のためだ」と勘違いして、ある種の考え方を強要、押し付ける人がさらにいる。これは会社でも、ご近所でも、よくあること。親戚付き合いならなおさら。でも、ネットの世界でまで、その種の揉め事に巻き込まれるのはごめん。

 何より、Facebookは3000人の「友達」がいても、全員に僕の記事は届かない。よく「いいね」を押してくれる。或いはこちらが押す「友達」にしか届かない。その意味で宣伝ツールとしては効果が薄い。「友達」が増えることでユーザーを喜ばせる経営側の戦略でしかない。その意味で踊らされていることは不愉快だった。

ま、僕はもともとひねくれ者であり、

世の中を斜めに見るので、いろいろ聞いて考えて、その辺が分かってきたが、正直でまっすぐな人は嵌められ、踊らされ、企業側を儲けさせ、喜ばせてしまいがち。これはFacebookだけに関わらず、現代社会も同じ構図だ。「景気をよくする」という政治家たちは一部の金持ちがより金持ちになることしか努力しない。が、それに気づかず支持する人たちが多い。

 「食べて応援」と福島を支援しようとする人たちがいるが、決して地元は儲からず、野菜も米も買いたたかれる。それを各地で定価で発売。「食べて応援」といい売るのである。儲かるのは業者だけ。その種のビジネスが現在は数多くある。名目やキャッチフレーズに踊らせて、システムにうまく嵌められて、結果、馬鹿を見ているだけということがあまりにも多い。

 もちろん、全てが悪ではないし、利用者のメリットがゼロではない。が、Facebookの在り方も非常に現代的であり、ユーザーが賢くなることが大事だと思える。


 つづき=>http://cinemacinema.blog.so-net.ne.jp/2016-03-18-3


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Facebookに嵌らない人を見つめると、世間が見えてくる? [FB問題]

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 Facebook問題。考えて行くと、

 いろんなことが見えて来て興味深い。現代社会の断面から人の抱える闇まで様々な問題が関わり、それを突き詰めて行くと、日本人の次なるテーマが見えて来る。今回はいつもと違った側面を考えてみた。

 身の回り、多くの友人がFacebookをしている。70%くらいの友人がやっているのではないか? 逆にやっていない友人を上げた方が早い。で、なぜ、彼らはやらないのか?を考えてみた。訊くと「なぜ、やらないか?」ではなく、「なぜ、やらなければならないのか?」と言われてしまった。「Facebookなんてやるヤツの気がしれない!」ともいう。

 もう、ここで答えたが出たのだが、彼らには共通点がある。まず、学生時代から群れ成さないタイプ。若いうちは5−6人以上のグループで行動しがち。学校でも、遊びに行くときもそうだ。が、彼らは若い頃から、1人で、或いは2人で行動している。どちらかというと一匹オオカミタイプ。自分の考えを持っていて、流されない。むしろ、流行を追うのをバカにしている。

 宣伝やマスコミ報道に振り回されない。

 というより、興味がない。或いは宣伝や流行を毛嫌いしている。といって、はみ出しものではなく、友達もいて、学校ではどちらかというといい成績だった。文化や芸術に関心があり、現在はその種の方面で仕事をしている。サラリーマンになっても、自分なりの趣味を持ち、手堅い生活をしている。


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 そんなことを考えていると、

 これまで僕が記事で書いて来たFacebookに嵌るタイプの正反対であること思えて来た。もう一度、その辺を整理する。嵌るタイプー「都会暮らしで孤独」「友達が少ない」「グループや組織に所属することを好む」「主体性がない」「流されがち」「流行を追う」「自己主張はしない」「寂しがりや」「空回りしがち」「他人に関心がある」「お節介」「他人に優しい」「絆を大切にする」「友達が欲しい」「社交的である」等々、

 相反するタイプもあるが、主にこれらの人々がFacebookをやっているように思える。そして、その多くがそれなりに満足していると考える。多少、鬱陶しい「友達」がいても、まあ、どこにでもいるよな〜と無視。それらを踏まえれば先の友人たちがFacebookをやらない。やっても、すぐ辞めてしまうのは簡単に想像できる。

 「うるせーんだよ!」「面倒臭いなあ」

 「誰だお前」「何で、俺にコメントしてくるの?」と初日から不満が爆発するだろう。つまり、彼らは「喪失感」や「孤独感」を抱えていないので、現在いる友人関係以上の絆を欲していない。気心のしれた友達がいれば、さらにネットで「友達」が欲しいとは思っていない。それどころか、面倒くさい「友達」ならいない方がいいという考え。

 例え、1人で寂しい時間があっても、ネット上で交流を求めて寂しさを埋めるのではなく、テレビを見たり、本を読んだり、自分の関心があることをする。面倒な交流をするなら1人の方がいいと考えるのだ。そういえば、Facebookを辞めた業界の友人がいるが、彼もその種のタイプ。自分の考えを持っており、行動的。仕事もできる。今にして思えば、辞めたのは当然だろう。

 人にあれこれ言われたくないタイプであり、

 マイペースで、自分の道を歩んでいる。仕事はまじめに努力するが、つまらない人間関係は嫌い。面倒な付き合いをするならしない方がいい!というサッパリした性格。Facebookにときどきいる粘着質の「友達」」とは絶対に合わないだろう。


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 Facebookをやらない人。

 辞める人を思い出すと、そんな一匹オオカミタイプが多いような気がする。彼らのことを考えると、田舎の生活より、孤独でも自由な都会生活を好むようだ。

 あと、同様なタイプでもFacebookをしている友人もいる。が、彼らの多くは新しいメディアに対する興味が強い。「面白そうだから!」ということが動機であること多い。だが、決して嵌らず。記事も数日に1度。ほんのたまにアップするくらいだ。

 そんなふうに嵌らないタイプを考えて行くと、嵌るタイプが見えて来る。彼らにとってFacebookというのはやはり「仮想故郷」なのだ。そこに行けば、いろんな人が自分に関心を持ってくれる。声をかけてくれる。いろいろ心配してくれる。ときどき、大きなお世話もあり。無神経な人もいるが、基本的には悪意のない人たちと心の触れ合いができる場所なのだ。

 ただ、喪失感を抱え、友達のいない孤独な人は、

 それに嵌ってしまい、アイデンティティの確認をFacebookに依存してしまい「毎日、記事や写真をアップしなければ、自分の存在を忘れられてしまう」という無意識の強迫観念に囚われて、離れられなくなってしまう。エヴェアンゲリオン症候群のようなその種のタイプは今の日本には多い。

 特に若い人。そういう人は「いいね」をもらうことで、自分の存在を確認するが、それは小さな満足。すぐに寂しさにかき消されてしまう。満足感を得るにはFacebookを続けなければならない。それが中毒症状となる背景だ。つまり、そうではないタイプは嵌らないどころか、気嫌いしているのは非常に興味深い。

 さて、僕自身を考えてみると、

 やはりグループの一員ではなく、学生時代から1人で行動するタイプだった。組織や学校は大嫌い。田舎暮しが合わず、人にあれこれ言われるのが死ぬほど嫌。さらに言うとひねくれ者タイプ。これはFacebookには向かないということだったのだろう。3年も続けたのに! そう考えると、2年目くらいから凄いストレスになっていたことを思い出す。んーーそういうことか...。

 つづき=>http://cinemacinema.blog.so-net.ne.jp/2016-02-09


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