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人生は謎解き?疑問を解決するから楽しい。=僕が論理性に拘る背景? [my opinion]

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人生は謎解き?疑問を解決するから楽しい。=僕が論理性に拘る背景?

以前にも書いたが、僕は「合理性」とか「論理的」と言うことにこだわる。が、日本人の多くー僕の印象かもしれないがーは、そんなことより習慣とか昔ながらのルールを遵守しがちだと感じる。矛盾があっても、合理的でなくても習慣だから、ルールだから、と従う。

役所など特におかしなルールが多い。

窓口でムカつくことがある。筋が通らないことを説明すると、担当者は「その通りですけど.....決まりですので...」と言われる。同じことは教育でもある。何度も書いたが英語教育。なぜ、英会話がないのか? 日本語訳と文法ばかりの授業。10年も勉強するのに会話ができない。これって意味ある?

その答えも何度も書いたが、日本の英語教育の目的は「国際性を育てる」とか「英語によるコミニュケーション能力」を育てるではなく、与えられた作業を確実にこなせる、優秀なサラリーマンを育成するために、その能力を測るための材料でしかない。国際人を育てるための勉強ではないのだ。

             *

しかし、管理教育は「考える力」を育てないので、「英語教育は意味ある?」という疑問さえ、多くの子供たちは持たずに勉強を続ける。本当に目的を悟ったとしても「大学受験のためだ」と割り切って勉強する。高校時代は同級生から「勉強が嫌なら学校辞めて働け」と言われた。彼らは完全に管理教育にはめられていたのだろう。

だが、それは合理的ではない。

意味がない。おまけに無意味な勉強で判断する大学なら、それも意味がない!と、僕は大学進学を拒否。話せもしない英語を勉強する時間が勿体無い。それを将来のための別のことに使いたいと考えた。が、アメリカの大学に行きたい!と言う思いがあり、日本の高校を卒業という資格が必要。なので中退はしなかった。

              *

今回は教育の話ではない。

合成性と論理性だ。英語教育を論理的に考えれば無意味。そんなあたりから日本の教育を考え始め、先のサラリーマン育成が本当の目的であるという答えに辿り着いた。しかし、何で、そんな風に論理性や合理性にこだわるようになったのだろう。あれこれ考えて、子供の頃から推理小説が好きで読みまくっていたこととを思い出す。

ミステリーは論理性だ。物理的に不可能と思える犯罪を論理的に解き明かす。飛躍や矛盾があってはいけない。コナンドイル、アガサクリスティ、江戸川乱歩、子供の頃からそんな本ばかり読んでいたので、その辺が刻まれているのだろう。本来、映画監督業は理屈や論理を超えた想像力や感性が勝負の仕事。なので監督には理不尽な人や筋の通らないことを言い張るタイプが多い。

しかし、論理性を追求すれば、あれこれ答えが見つかるので面白い。人生は謎解きだ。疑問を解決するからこそ楽しい。



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学生時代から感じる違和感。今も思い出す。その正体とは? [my opinion]


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学生時代から感じる違和感。今も思い出す。その正体とは?

高校時代の休み時間。「***君はど田舎から通っているんだ」「***君は校則違反で***先生に説教された。バカだよな!」なんてことでクラスメートは盛り上がっていた。意見や感想はちょっぴりで、事実を上げるばかりだった。

勉強や大学。成績の話は敢えて避けていた。目標とする大学を知られて批判されたくない。成績の話をして劣等感を持ちたくないそんな姿勢があった。また、彼は映画や音楽にあまり興味がない。勉強の妨げになるのが理由。映画好きだった僕と共通の話題が持てない。そんな頃から

「こんな勉強をしていて将来、役に立つのか?」

と思えて来た。アメリカの大学へ行き、映画の勉強をしたいと言う思いがあったので英語は頑張ろうと思ったのに、会話の授業はなく、日本語訳ばかり、教師も英語は話せない。他の授業も同じ。だが、同級生に話すと「だったら学校辞めろ!」と言われる。なぜ、そうなるのか? 日本の教育は正しいのか?と言う話をしているのだ。本の虫と言われる友人がいた。彼はそんな同級生たちを見下していた。

「知的レベルの低いどうしようもない人たち。社会的な出来事に関心を持てない一般大衆だよ」

と切り捨てた。漫画に出てくる嫌なインテリ野郎を絵に描いたようなことを言っていた。そこまでは思わなかったが、そんな同級生たちとは通じるものがなかった。高校卒業後。映画学校に行くと、クラス全員が映画好き。いや、映画マニア。僕なんて映画ファン初心者と言う凄い連中ばかりだった。最初は楽しかった。が、次第に気づいて来た。

「こんな授業を受けることが映画作りに役立つのか?」

実習で監督できるのはクラスで3人だけ。あとはお手伝い。そのために高い授業を払わねばならない。しかし、多くのクラスメートは疑う様子もなく、クラスに出る。同じ疑問を持ったのか?はたまた怠け者なのか?登校拒否する同級生が何人もいた。

              *

そんな連中と仲良くなり毎日、飲み会をした。が、次第に話すこともなくなり、皆で集まりウダウダするだけになった。学校を批判する者もいたが、自分たちで何かをしよう!とはしなかった。なぜ、動こうとしない!と次第に憤りを感じるのだが......そうなった理由。今は分かる。

管理教育。

子供の頃から与えられたことをやるだけの教育。考えることを教えない。むしろ考えないことを求める。指示されたことを確実にこなす従順なサラリーマンを育成するための教育。高校時代の同級生はすでにそれが刷り込まれていた。が、それに反発、あるいは夢追う人生を選んだ者が「映画監督になる!」と映画学校に行く。

しかし、そこは監督になるための勉強というより、金儲けが本来の目的の学校。にも関わらず、多くは与えらる無味な授業を受け入てしまう。夢を追う彼らもまた刷り込みが行き届いていたのだろう。それを拒否して授業に出なくなったのは、本当に意味で落ちこぼれ。与えられたことをこなす能力がない。あるいは怠け者。それとも本当の捻くれ者だったと言うことだ。

その意味で僕は「本当の捻くれ者」だったのだろう。長年の管理教育が受け入れられない。洗脳教育が効かない、と言うと凄そうだが、実は適応性がない。歪んでいる。教えても素直に学ばないと言う、やはり捻くれ者なのだ。それゆえ、素直に教育システムを受け入れる同級生たちが圧倒的多数のクラスで、違和感を持ったと言うことなのだろう。あれこれ昔の思いが解けていく。また、続きを書く。



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Facebookに書いた記事。お返事できない理由=「女優と付き合ったことは?」と質問する人たち? [my opinion]

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Facebookに書いた記事。お返事できない理由=「女優と付き合ったことは?」と質問する人たち?

いつも多くの方から友達申請。本当にありがたい。承認後にご挨拶のメッセージをよくもらうが、どなたにもお返事はしていない。以前に返事をしたばかりに質問の嵐となることがあった。延々と1時間に渡り、チャット状態。

お会いしたこともない方の質問になぜ、時間をかけて延々答えねばならないのか?と悩みながらも、傷つけてはいけないと当時は愛想よく答えた。でもやがて「監督業で食えてますか?」「年収はいくらですか?」「女優さんと付き合ったことはありますか?」なんて初対面ではしない質問を始めた。

Facebookは質問掲示板ではない。ラジオの質問コーナーでもない。飲み屋の会話でもない。「友達申請」を承諾したからと本当の友達になった訳ではないので、あれこれプライベートな質問には答えられない。何より答える必要はないだろう。個人的なこと以外は過去の記事を見てもらえれば、大抵のことは書いてある。「友達」になればそれを読めるのに、なぜ、本人に質問するのか?

そしてなぜ、こちらに「答えさせる」「書かせる」行為を要求するのか? いや、そうではない。Google感覚で、質問を書き込め答えが返って来るのが当然!という無意識がそうさせているのだろう。こちらに時間を取らせていることに多くが気が行かない。そんな人たちとは付き合えない。色々考えて、一番問題が起きない方法を考えた......やり取りをしないということ。

答えたがばかりに「では、次の質問は」となり、挨拶に応えるから質問が始まってしまう。現在「友達」は4963人。1人に答えてしまうと、別の方から何百人からも質問やメッセージが来るだろう。

その内の1人を拒否すると「なぜ、私には答えないのか!差別だ」と批判が来る。だから、誰にも答えないという姿勢をとらせてもらっている。そんな事情。ご理解いただけるとありがたい。毎日、あれこれ記事をアップしている。面白がってもらえるとありがたい。



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日本人は合理性より、無意味な習慣やルールを大切にする?=その陰で大儲けする連中がいる。 [my opinion]

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日本人は合理性より、無意味な習慣やルールを大切にする?=その陰で大儲けする連中がいる。

合理性、論理的ということ。僕の中ではかなり重要だと。再確認することが多い。カバンでもセンスやデザインも重要だが、機能性(つまり合理的)も大事。収納したものが素早く取り出せるバッグでなければ!と思う。

反対に習慣とか慣習というのには拒否感がある。合理的でないからだ。正月に神社に行くとかしない。お参りしたからと神様が何かしてくれるのか? それ以前に神様は存在するのか?いたらなぜ、不幸になる人を助けないのか?とか思ってしまう。そんなスタンスなのでトラブルもよく起こす。

             *

製作会社でシナリオを書いたとき。社長が的外れな意見を言うと、社員Pは「なるほど〜そのアイディアはいいですね」と持ち上げ、それをシナリオに入れとと言う。が、僕は入れない。必要ないからだ。それで面白くなるならいいが、浮いてしまう。大事なのはいい物語を作ること。社長のご機嫌を取ることではない。

「大人しく、ハイハイと言っておけばまた仕事がもらえるんだよ」

と関係者には言われるが、そんな習慣のある会社で仕事をしたくない。こんな性格なので、無意味な習慣やルールが多い地方社会では生活できない。近所だから仲良くするとか、親戚だから親しく付き合うとか、それは昔々の、皆が百姓だった頃の習慣だ。

意味もないこと。無駄なこと。必要のないことが嫌。そのせいで高校時代。勉強することに意味がないことに気づいてしまった。10年学んでも話せない英語、暗記するだけの歴史、社会では使わない連立方程式。そんな意味ない授業に1日の大半を使うこと。とても無駄だと思えた。その理由はのちに解き明かす。

             *

サラリーマンになるため。と言うのなら無意味な勉強でも、別の意味も出てくるが、僕は会社員にはなりたくなかった。だから無意味なのだ。それならプラスになることをしたい。そんな高校生だった。アメリカ留学をして気づく。アメリカ人の発想はそれに近かった。合理的。無意味な習慣やルールに縛られない。留学生活の中で何度も痛感した。

銀行に預けたお金は24時間、365日、いつでも引き出せる。だって、自分の金なのだから。なぜ、銀行に手数料を取られるのか?なぜ、8時以降は引き出せないのか? なぜ、銀行の都合が優先されるのか? 合理的ではない。でも、日本はそれだ。

日本には無意味な習慣やルールが溢れていることに気づく。高校の頃からイラついたのは、そのためではないか? 日本をダメにしている背景もそこではないか?そして影で大儲けしている連中はそれを利用しているのではないか? いろんなことが見えて来た。また、別の機会に続きを書く。



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人はなぜ、あれこれアドバイスしたがるのか? 自分の価値観を押し付けたがるのか? [my opinion]

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人はなぜ、あれこれアドバイスしたがるのか? 自分の価値観を押し付けたがるのか?

友人や先輩で、長い間、応援してくれている人がいる。あるいは映画を作るようになってから支援、声援をくれる人もいる。本当にありがたい。そんな人たちがいるからこそ、頑張っていける。ただ、最近思うのは、何度も書くように親しくなることで、人は自分の価値観を押し付けるようになると言うこと。悪意はない。むしろ、熱いシンパシーを持ってくれている。

「監督はそんなことをしてはいけない」「そんな発言をするべきではない」「信頼を失うよ」「誤解されるぞ」

という忠告やアドバイスをくれる。だが、そこが問題。その人がそう思っても、本当に必要な助言ではないことがある。むしろ大きなお世話。おまけに僕は捻くれ者だ。右と言われれば左という。NHKでは絶対に働けない(?)タイプだ。僕を昔から知る人はその辺を分かっているから、あれこれ言わない。

「あいつは何を言っても聞かないし、自分で考えて切り抜ける」

と思っている。が、さほど長い付き合いでない人はあれこれ言いがち。なぜ、付き合いも長くない人。或いは会ったこともないネット上の付き合いだけの人が、あれこれアドバイスしてくるのだろう? 会ったことはないが、業界の先輩なら分かる。それでも多分、僕は聞かないが、顔も知らない人、数回しか会ったことない人がなぜ、助言するのか?以前にも書いたが、それらの人たちはまず

「この人のためになる」

と言う思いがある。「このままじゃ傷つく」と言う優しい気持ち。ありがたいことだ。しかし、その危惧が当たっているとは限らない。が、その種の人は思い込みが激しいようで「私が言ってあげないといけない!」と言う使命感と正義感を持ってしまう。そこに自身の価値観や思想が含まれていることに気づきにくい。結果、自分の価値観や自分なりのルールを押し付けることにもなる。

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気持ちは嬉しいけど、何であんたの価値観を押し付けてくるの? 僕のことをどれだけ知っているの? と思える。「だって監督、頑張っているのに誤解されると可哀想だから」とか言ってくれるが、「あなたがまず誤解してない?」と思えることが多い。

「感動作を撮る監督だからいい人だ」

と思い込んではいないか? 僕はそんないい人ではない。そこには悲劇のヒロインを演じる女優だからいい人。悪役が多いから悪い人と言うのと同じ。役と現実の混同がある。監督業も同じだ。なんて、書くともう誰も何も言ってくれなくなりそうだが、それはそれでいいか?と思える。僕の行動や発言で迷惑をかけているのなら分かるが、そうでない限り。あれこれアドバイスはいらない。

何だか、世捨て人のような感じなので、最後に笑える話。ある撮影の時に、女性スタッフが「監督を結婚させる会」と言うのを結成。

「どこかにピッタリな人がいないか?」

あれこれ考えてくれた。ところが数日でその会は解散。「カメラマンを結婚させる会」がスタート。理由を聞くと「あれこれ考えても、あの監督とうまく行く女性はいないことが分かったから」とのこと。理解してもらえたようだ。



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オウム事件当時の世情を思い出す。煽られ、先導された日本人。ドキュメンタリー「A」シリーズが暴く。 [my opinion]

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オウム事件当時の世情を思い出す。煽られ、先導された日本人。
ドキュメンタリー「A」シリーズが暴く。

1995年。地下鉄サリン事件が起こったとき。連日のオウム報道。ワイドショーはオウム一色。この手の話題が好きな僕はテレビにかじりついていた。ある日、大衆食堂で飯を食いながら麻原逮捕のニュースを見ていた。仕事帰りのオヤジがビールを飲みながら、テレビを見つめて文句を言っている。

「本当に許せねえなあ。麻原って野郎は!俺にも一発殴らせろ!」

同じような発言は友人たちもしていた。が、それはおかしい。もし、彼らがサリン事件の被害者。あるいはその友人であるならまだ分かる。が、いくら相手が犯罪者とはいえ、彼らにそんな権利はない。何の被害を受けてもいないのに、例え被害を受けていたとしても、犯罪者に対して危害を加えていいと言うことにはならない。僕がそういうと、友人たちはこう言い出す。

「お前は麻原を庇うのか? オウムの味方をするのか?」

怒りのせいで理性を失っていた。「今すぐに麻原を吊るせ!」という感じ。確かに麻原も教団も想像を超えた酷いことをしている。が、彼らが憤るその情報を伝えているのはマスコミ。テレビや新聞。報じられること全てが真実なのだろうか? それらを鵜呑みにして「麻原を殴らせろ」「麻原を今すぐ絞首刑にしろ」というのはどうなのか?それでは中世の魔女狩りだ。

ほとんどの国民はオウム憎しで燃え上がっていた。各地で「オウム信者は出て行け」と住民運動が起こった。思い出すことがある。戦時中も同じ。鬼畜米英。「アメリカは許せない」一億総火の玉。大本営に煽られて日本人は戦争に突き進んだ。アメリカも同じ。

「リメンバー・パール・ハーバー!」「ジャップは許せない!」「不意打ち。汚い奴らだ!」

どちらも国とマスコミに先導され、誘導され、煽られて戦争に突き進んで行く。それは70年近い過去のことだと思っていたが、現在の日本でもそれを再現することは簡単ではないか?と、オウム事件に対する国民の反応を見ていて感じた。だが、それを指摘してもこう言われる。

「オウムを弁護するのか? だったら信者になれ。可哀想な犠牲者のことを考えたことはないのか?」

その論法はネトウヨにも似ている。人は愚かですぐに先導される。そのことを理解した人間がどこかで日本人を操っているはず。それから24年。やっと森達也監督の「A」を見た。マスコミがオウムを憎悪させる情報を選んで報じていたことを知る。それが1995年の真実だ。オウムが無実とは言わないが、マスコミは有罪だ。



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森達也監督「 A」を見た。ドキュメンタリー映画。昔は大嫌いだった。そのスゴさに近年、衝撃を受けるばかり! [my opinion]

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ドキュメンタリー映画。昔は大嫌いだった。だが、そのスゴさに近年、衝撃を受けるばかり!

退屈。真面目。押し付けがましい。でも、それらは学校で無理やり見せられた「人権」や「差別」がテーマの映画だった。大事なテーマだが映画の作り方が悪い。説教されている気がする。あとはNHKのドキュメンタリー。これも退屈。途中で休憩したくなる。

ドキュメンタリーを作る人たちには「これは大事なことです。あなたたちは知らねばなりません!」と高いところから強いる姿勢が感じられる。「退屈とか、関係ない。文句言わずに見るべきだ」的な傲慢さがある。それほどの思いがあるから、正義感を持っているからこそ、ドキュメンタリーという儲からない仕事をしているということもある。

ただ、テーマが素晴らしくても「退屈させる」というのは許せない。僕は劇映画の監督であり、基本はエンタテイメントだ。退屈させ、見ることを強いるのは作家として技量がないと思える。その意味でドキュメンタリーだが、マイケルムーアはうまい。あざとい。とも言えるが、真面目にダラダラ見せるだけがドキュメンタリーではない。

しかし、近年、素晴らしいドキュメンタリーに数多く出会う。先に見た森達也監督の「「A」は本当に凄い。単にオウム信者を描くだけでなく、マスコミ、警察権力、それらに振り回されている一般市民とは何か?まで描いている。物事には多面性があることも分かる。そして何より商業映画やテレビでは絶対にできない作品であること。同じことは三上智恵監督の「標的の島」シリーズにも言える。三部作と「沖縄スパイ戦史」は見たが、圧倒された。

沖縄の基地問題があんな風になっていること。全く知らなかったし、マスコミはほとんど伝えていない。先の森監督も、三上監督も物凄い労力と時間を注いで作品を撮っている。それはもう仕事を超えた作業だ。その時を撮れなければ、後で撮ることはできない瞬間を捉えている。劇映画撮影も大変だが、まだリテイクができる。が、どんな高額な費用を使ってもドキュメンタリーはできない。

完成した作品はテレビや新聞のようなスポンサー付きの報道では絶対に映し出せない現実を届けてくれる。凄いとしか言えない。今回、僕は初めて長編ドキュメンタリーを監督した。12月に沖縄で上映。絶対にNHKではできない作品。これまでの沖縄戦ドキュメンタリーでは描いていない面がたくさんある。ぜひ、見て欲しい。

予告編=> https://youtu.be/81I-BLROlxY


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しんゆり映画祭。「主戦場」中止から一転。上映が決定。市民の声が扉を開けた。黙っていてはいけない。 [my opinion]

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しんゆり映画祭。「主戦場」中止から一転。上映が決定。市民の声が扉を開けた。黙っていてはいけない。

今回は何ら危険はないにも関わらず、川崎市からの圧力とも取れる「懸念」を受け入れた映画祭側に大きな問題があった。2度ほど記事にしたが、それらは新聞、ネットニュース報道を元にしたので、今回は映画祭のHP文章を紹介。解説する。以下の通り。

(HPより)
「KAWASAKIしんゆり映画祭が今年度の上映作品としてドキュメンタリー映画『主戦場』の上映を見送った件に関しまして、朝日新聞ほかにて報道され、皆様にはご心配をおかけしまして誠に申し訳ございません。

(中略)

経緯と致しまして、上映作品の選定時に『主戦場』が候補にあがり、作品をとりまく提訴の状況も踏まえて、一旦は上映の申し込みを進めていくことを判断しましたが、共催者の一員である川崎市からの懸念を受けました。上映時に起こりうる事態を想定し、私たちができうる対策を何度も検討した結果、今回は上映を見送らざるを得ないと判断をさせていただきました。

(中略)

「しんゆり映画祭」では、ほぼすべての運営を、高校生、大学生、主婦、会社員などから成る市民ボランティアの手により行っており、子ども対象の上映から保育サービスや障がいをお持ちの方に向けてバリアフリー上映まで幅広い観客が訪れる映画祭の為、映画館での妨害・いやがらせなど迷惑行為への対応を市民ボランティアで行う事には限界があること、市民ボランティア自体の安全の確保や、迷惑行為などへの対策費が準備されていないこと、お客さま等との連絡がとれなくなること、など運営面での課題が山積みしており、私たちが自信をもって安全に上映を行うことができないと考えました。

(ここまでHP)

やはりおかしいのはここ=>「川崎市からの懸念を受けました」に続き「上映時に起こりうる事態を想定し、私たちができうる対策を何度も検討した」「私たちが自信をもって安全に上映を行うことができない」と結論づけたということだ。安全ということは危険があるということ。その危険とは何か? 川崎市の懸念は「告訴されている映画を上映すること」であり、脅迫状が来たということではない。

映画で証言した人たち。ケントギルバート、櫻井よしこらが映画祭を妨害に来るということか? 確かに問題ある発言をした人たちではあるが、過激派ではない。テレビでも活躍していた有名人だ。それに告訴するというのは民主主義に基づいており、暴力や破壊で解決しようという意図ではない。そんな人たちが映画祭の安全を脅かすと考えたのか? 

あるいは彼らのバックに過激派、暴力団がいて、映画祭で何かをすると想像したのか? それは告訴した人たちに対しても失礼。そのような背景があることは証明されていない(もちろん、問題ある団体で活動する人たちではあるが、過激派とは違う)つまり、ありもしないことを映画祭側は恐れ「安全が確保できない」と必要のないことを考えて「主戦場」上映を中止したということ。

これには先の愛知県での「表現の不自由展」事件の影響が見られる。脅迫されてもいないのに、市からの懸念だけで中止にしてしまった。前例から学ぶではなく、同じ愚行を繰り返しただけ。特に役所関係は何かあると蓋をして、なかったことにしようとすることが多い。今回で言えば川崎市。それを忖度して中止を決めた映画祭側。愛知県と同じ構図。

まず、何が問題であるか?をしっかり把握すること。ありえないことに怯えて蓋をしないこと。それが今回の教訓だ。幸いイベントは両方とも再開。「主戦場」は上映されることになった。市民からの抗議が状況を変えたのだ。声をあげること。おかしなことは批判すること。それが大事であることを感じる。黙っていたら、すぐに蓋をされてしまう時代なのだから。


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他業種との映画作りは揉めやすい。価値観も習慣も違う=でも、本当の理由は別にあるのかも? [my opinion]

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他業種との映画作りは揉めやすい。価値観も習慣も違う
=でも、本当の理由は別にあるのかも?

映画作りは、いろんな業界の人たちの力を借りる仕事。企業ばかりではなく、役所、宗教団体、教育機関、自治体、市民団体と広範囲に渡る。皆、同じ日本に住む国民なのだが、この狭い国でも、業界や地域によって価値観がかなり違う。それでも思いは同じで、例えば「この街の魅力を伝えたい」「平和の大切さを伝えたい」という共通のテーマがあれば、仲良くやれる。

だが、業界によって違う方法論、価値観に縛られた人たちは、映画作りということが分かっているのに、自分たちのそれを押し付けて来る。ロケ地で協力してもらった土建屋さん。建築業界の習慣「完成後1ヶ月経ったらお礼に来る」というのがあるそうだ。「なのに挨拶に来ない。許せない! 裏切られた! 応援してやったのに失礼だ」とあとあとまで批判、嫌がらせをされた。

が、そもそも、そんな習慣は知らない。その当時、実は映画は完成しておらず編集中だった。撮影終了後には挨拶に行っている。なのに、完成していないのに、完成したら1ヶ月に来るのが当然!許せない!と怒る。そんな習慣があることも教えてくレナい。「言われなくてもやるのが礼儀だ」というが、他業種の習慣までは分からない。さらに、建築業界以外にも似たような習慣はあるだろう。その人たちのルールにも従い挨拶に行かなければならないのか? 何度挨拶すればいいのか?そんなことでトラブルの連続!ということがよくある。

これは業界でなくても世代間でも同じ。映画の世界でもベテランの映画人と、若手は違う。僕も監督デビュー時はベテランから、あれこれ古い方法論を押し付けられたが、全部拒否して自分のやり方で進めたら、何度も怒られ、説教をされた。僕は低予算でもハリウッド式の撮影をするが、ベテランは古くからの日本式の撮影方法でやれという。要は自分たちが慣れ親しんだ方法でないとやりにくいということ。そんなことを押し付けられても敵わない。

それから14年。僕が一番の年長者になり、今では太田組方式で誰も不満は言わない。僕だけでなく多くの監督が同じ方法論で撮影をする。業界内ではそんな風に変化があるが、別の業界とはそうは行かない。しかし、構図が同じなのは、映画界のベテランも自分たちの方法論が素晴らしいからそれを伝承させたい。守りたいではなく、慣れ親しいだ方法だから、新しいものに拒否感があるというだけ。努力したくないということ。

他業種でも価値観を押し付けるのは年配者。違う業界なのに自分たちの習慣を押し付けるというのは、そもそもおかしな話。アメリカ人に箸の持ち方が悪い!おじきしろ!失礼だ!暑中見舞いくらい出せ!とは言わないだろう。習慣が違うのだから。なのに押し付けをするのは業界ではなく、新しいものを受け入れることができない。別種のものを理解できないという老化なのだと思える。

人は長年続けて来た習慣、大切にして来た価値観は簡単に変えることができない。親たちが今も子供をいい大学に入れようとしているのも同じ。子供時代の価値観に親になっても縛られているのだ。業界ではなく、新しいものが受け入れられない脳の老化。そちらの方が問題なのかもしれない。


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役所の職員はなぜ、熱く仕事をしない人が多いのか? [my opinion]

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役所の職員はなぜ、熱く仕事をしない人が多いのか?

宣伝のことを書いていて、前々から思っていた件の謎も解けた。以前、ある映画で役所が協力してくれた。行政の応援はありがたい。が、マイナス面も多かった。彼らがやることは何かトンチンカンで、意味のないことに力を入れて、必要なことをやらない。

決して悪気はないのだけど、プラスにならないことの方が多い。足を引っ張り、トラブルを起こすこともあった。が、彼らは良かれと思っている。その背景にあるものは何か? 簡単にいうとそれが「お役所仕事」なのだが、なぜ、そんなことになるのか?考えてみた。

いろんな例があるのだが、分かりやすいものを紹介。映画完成後、ポスターを持って役所に行くと「あちこちに貼らせてもらいます!」と言ってくれた。が、映画が公開されても役所が貼ったポスターを1枚も見ない。大きな街ではない。街をうろつけば目に付く。見つけたのは皆、地元の実行委員会の方が貼ったもの。役所とよく仕事をする友人に聞くとこう教えてくれた。

「通常、ポスターを貼るというのは、多くの人に映画の存在を伝えるため、映画を見てもらうためですよね? だから、なるべく人の目に付くところに貼ろうとします。が、役所の連中は違って、”映画を見て欲しい”ということより、”ポスターを貼りました”という行為をしたことが大事なんですよ。上司から”君、ポスター貼って来たか?”と言われた時に、”はい、やりました”と言えることが重要。

どこに貼ったか?ではなく、どこでもいい、言われた通りに貼ったということが大切。だから、人目に付く場所に貼った方がいいよな?とは考えない。貼りやすいところに、面倒でないところに、どこでもいいから貼るというのが彼らの発想。毎回、路地裏とか人が滅多に通らないところによく貼ってますよ。それでも貼ったは貼った。上司から叱られれない。目立つところに貼って市民からクレームが来るより、目立たないところで、クレームなしの方が都合いい」

なるほど。価値観も意識も違うのだ。「街の魅力を紹介する映画だから、市民に見て欲しい」というのが通常の発想なのに、映画をアピールしようなんて考えていないのだろう。しかし、担当者が怠け者ということではないらしい。役所というのはそういうところで「市民のために働いていますよ」と見せかけながら、いかに時間をかけて少量の仕事をするか?が大事。1日済むものを1ヶ月かけて作業する。それが役所だと言われた。

1日で仕事をかたずけると、別の仕事を指示される。仕事量が増える。給料は変わらない。だから、時間をかけて最低限の労働力でかかった方が得。残業に持ち込んだ方が得!と考えるのだ。もちろん全ての職員ではない。思いのある人もいる。が、役所のシステムが多くの職員をやる気のない人間にしてしまう。頑張っても何の得もない。だったら、できる限り手を抜いてやろう。そう考えてしまうのだという。まさに黒澤明の「生きる」の世界だと思える。

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