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いつものことですがFacebookでの質問には答えません。よろしく!=その理由と背景を説明。 [FB問題]

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いつも言うことですが、Facebookでの質問には答えません。よろしく!=その理由と背景を説明。

時々、メッセンジャーでいろんな問い合わせがある。「現在、制作中の映画はありますか? あれば出演を希望します」とか...アルバイト募集のコンビニに連絡している感覚なのだろう。

しかし、映画業界は他の世界とは違う。実際に新作の製作をしていても、ある時期までは秘密にせねばならない。そこで「ありません」というと、また月日を置いてその種の連絡が来る。準備しているのに「していません」というのも嘘になる。等の理由で一切答えないことにしている。

また、このFacebookは僕個人のものなので、そこに仕事探しの連絡をすることが、そもそも違う。また、俳優諸氏とはいい仕事をしたいので、挨拶の連絡を頂いてお返事はしない。距離を保ち、甘えや勘違いを起こさないようにして、現場で真剣勝負できるようにだ。業務連絡でメッセンジャーを使うことはあるが、基本は返事をしない。

プライベートな質問は無論答えないが、それ以外でもあれこれ質問してくる人がいる。過去の記事を見てもらえれば、大抵のことは書いてある。ブログを見てもられば検索もできる。カテゴリー別にもしてある。

「朝日のあたる家」監督日記(社会派記事はこちら)=>https://cinemacinema.blog.ss-blog.jp

Facebookは「友達」になれば遡って「友達」設定の記事も読めるのに、なぜ、本人に質問するのか?

なぜ、こちらに「答えさせる」「書かせる」行為を要求するのか?その多くが会ったこともない人、顔写真さえ出してない人。僕はその人のことを何も知らない。そんな人がなぜ、あれこれ質問して答えることを要求するのか?どういう立場で質問するのか? おまけに日頃からコメントには答えないと告知しているのに...,

その理由は、多くの人がGoogle感覚で、質問を書き込め答えが返って来るもの。という思いに陥っていて、こちらに時間を取らせていること。労力を使わせていることに気が行っていない。ネット世界で陥りがちな構図だが、それをイチイチ指摘するのも大変。注意したがばかりに、恨みを買って、あちこちで批判を書かれたこともある。色々考えて、一番問題が起きない方法が答えないということ。

何度も会ったことがある人、長年のネット上で付き合いがあり、応援を頂いている人には、時々返信するが、それ以外はお会いしたことがあっても返事はしない。最初は映画監督だと面白がり、応援してくれていても、過度の期待をされて、裏切られた!と言い出し、攻撃するようになる人もいる。精神的に不安定な方もいる。親しくなると、価値観を押し付けてくる人も多い。悪意はないが、あれこれ注意してくる人。距離を置くこと大事だと痛感している。

そんな事情。ご理解いただけるとありがたい。毎日、あれこれ記事をアップしている。面白がってもらえるとありがたい。


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Facebookに書いた記事。お返事できない理由=「女優と付き合ったことは?」と質問する人たち? [FB問題]

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Facebookに書いた記事。お返事できない理由=「女優と付き合ったことは?」と質問する人たち?

いつも多くの方から友達申請。本当にありがたい。承認後にご挨拶のメッセージをよくもらうが、どなたにもお返事はしていない。以前に返事をしたばかりに質問の嵐となることがあった。延々と1時間に渡り、チャット状態。

お会いしたこともない方の質問になぜ、時間をかけて延々答えねばならないのか?と悩みながらも、傷つけてはいけないと当時は愛想よく答えた。でもやがて「監督業で食えてますか?」「年収はいくらですか?」「女優さんと付き合ったことはありますか?」なんて初対面ではしない質問を始めた。

Facebookは質問掲示板ではない。ラジオの質問コーナーでもない。飲み屋の会話でもない。「友達申請」を承諾したからと本当の友達になった訳ではないので、あれこれプライベートな質問には答えられない。何より答える必要はないだろう。個人的なこと以外は過去の記事を見てもらえれば、大抵のことは書いてある。「友達」になればそれを読めるのに、なぜ、本人に質問するのか?

そしてなぜ、こちらに「答えさせる」「書かせる」行為を要求するのか? いや、そうではない。Google感覚で、質問を書き込め答えが返って来るのが当然!という無意識がそうさせているのだろう。こちらに時間を取らせていることに多くが気が行かない。そんな人たちとは付き合えない。色々考えて、一番問題が起きない方法を考えた......やり取りをしないということ。

答えたがばかりに「では、次の質問は」となり、挨拶に応えるから質問が始まってしまう。現在「友達」は4963人。1人に答えてしまうと、別の方から何百人からも質問やメッセージが来るだろう。

その内の1人を拒否すると「なぜ、私には答えないのか!差別だ」と批判が来る。だから、誰にも答えないという姿勢をとらせてもらっている。そんな事情。ご理解いただけるとありがたい。毎日、あれこれ記事をアップしている。面白がってもらえるとありがたい。



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会ったこともない。交流もない人から説教コメントが来た? [FB問題]

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会ったこともない。交流もない人から説教コメントが来た?

その日、見た映画で落ち込んでしまい、現実に帰って来れなくなる。自宅に戻り1人で考えていると、さらに深みに嵌りそうだ。居酒屋で飲んで帰ろうという記事を書いた。ら、コメントが入った。

「酒で自分を誤魔化してはいけません。現実を見てしっかり生きることが大切ですよ」

はあ? あなた誰? 過去に一度もコメントをくれたことのない人。アイコンも見たことがない。その人のページに行ってプロフィールを見るが会ったこともない。Facebook上の交流もない。それも僕よりひと世代下。若い。映画業界の先輩でもない。そんな人が何で説教コメントを書き入れるのか?

それも会社で上司に叱られて、飲んでウサを晴らしていたわけではなく、映画を見て落ち込んだだけ。酒飲んで現実に戻ろうという記事なのに「自分を誤魔化す」とか「現実を見る」とか、記事の内容を理解していない。

さらに言えば「上司に叱られて」だったとしても、なぜ、そのひと世代も若い人が僕に人生を説くようなコメントをしてくるのか? 思うに、僕の記事を何度かでも読んだ頃があれば、映画を見ていろいろ感じる必要のある職業だと知っているはず。それを上司に叱られてヤケになっているような解釈している。僕もこともほとんど知らないようだ。

何度か書いた読解力がない最近の人だろうが、よく知らない人に説教コメントをするというのは、どういう心理状態なのだろう。例えば、夜の路上で「部長のバカヤロー」と酔っ払って叫んでいるオヤジがいても、その人は「現実をしっかり見て」と声をかけるのだろうか? 

説教するというのは、上の立場の人。年齢が上とか、先輩とか、人生経験が豊富とか、親友、親、親戚、仲間と言える人がするべきこと。それも事情をよく知る相手に対してすること。彼は自分がどういう立場にいると思い、コメントしたのだろう? 

また、こちらからすると会ったこともない人。Facebookに顔写真も出していない人からあれこれ言われて「その通りですね。ありがとうございます」と感謝すると思ったのだろうか? Facebookをやっていると時々、そんな種の人と出会い、困惑する。



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Facebookのコメント欄。ブログのように承認制にできないものだろうか?  [FB問題]

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Facebookのコメント欄。ブログのように承認制にできないものだろうか? 

このところ、いろんな方々がコメントをくれる。そのこと自体はありがたい。以前のように記事を読まず、タイトルだけ見て「私は賛同しません!」とか「そんな人の本は読みません」とか無責任なコメントをする人はいなくなった。

が、このところ多いのは、勘違いや思い込みであれこれコメントする人。この夏、過労でダウンして自宅入院生活を送っていた。今はもう起きてどこへでも行ける。それを振り返る記事を書いたら「今、寝込んでいる」かのように思い込み、治療法や薬のオススメを書いてくる。以前に書いたが、文章を理解する力が弱い人が多いため。教育がその種の訓練をしないからだ。

その勘違いコメントを見て、別の人が健康について書き込む。もう、元気なのに?「お大事に!」とか書かれる。「ありがとうございます」と答えるべきか? 「もう元気ですよ」と返事するべきなのか?その人は記事を読まずに他の人のコメントだけを読み「監督、病気なんだ! 大変だな」というやさしい気持ちで書いてくれたのだと思うのだが....。

そんな風に記事をしっかり読まずにコメントすると、別の人がそのコメントだけ読んで、間違った認識を持ってしまう。負の連鎖。ただ、間違ったコメントを削除するのも躊躇する。悪意はない。記事を読んではいる。過去の記述を現在だと勘違い「監督は寝込んでいる」と間違った認識を持っただけ。でも、間違いがあるたびに「それは過去の話ですよ」と注意するのも、どうなのか?ブログのようにコメントが承認制ならこの種のことは起こらないのだが、Facebookではそれができない。

他にも悪意はないが、明らかに間違った主張を延々と書き込む人がいる。何より僕の記事とは関係しない、別の話を論じている。飛躍や勘違いが多い。それを「友達」が読む。反論を書き込む。議論になる。無意味な連鎖。どう対処するべきか? ま、そもそもはFacebookの機能に問題があるということなのだが...。



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料理の写真をアップしなくなった理由。仮想空間であることを忘れて現実を持ち込む人たち? [FB問題]

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料理の写真をアップしなくなった理由。仮想空間であることを忘れて現実を持ち込む人たち?

昔々、その日食べた料理を写真に撮り、掲載していた。多くの人がよくやっていることだが、旅行先で地元の名物を食べた時だけでなく、日頃の食べる料理の写真を上げることで生活や仕事振りも伝わる。ファーストフードが続けば「仕事が忙しいんだな」とか、どんぶり物が多いければ「この人は丼物が好きなんだ」とか、文章ではなく、キャラや趣味も分かる。

ところが、それらの写真を見て「野菜が足りませんよ」と親のようなことを言い出す人たちがいた。心配してくれているのだろうが、大きなお世話だ。1日3食の食事全てをアップしている訳ではない。ランチでハンバーガーを食べても、夜はサラダバーの店かもしれない。なのに、その写真だけを見て「野菜が足りませんよ!」とコメントしてくる。次第に同じコメントをする人が増える。そこでこう書いた。

「その日の1枚の写真だけ見て、野菜が足りないとかいうご指摘は要りません。それは僕自身が一番理解しています。今は多忙で野菜サラダを食べる機会がないだけです」

と説明すると、逆ギレしたコメントが来た。

「あんな写真(ハンバーガー)を見せられれば誰だって心配になるのは当然でしょう!」

たった1枚に写真だけを見て「野菜不足ですよ!」と、会ったこともない相手にあれこれ指導、苦言コメントを書き連ねる。そんな人が多いことを指摘しているのに逆ギレして反論してくる。非常に思い込みが強く、自分は正しいという思いを感じる。

また、面白がって何を書いても「野菜が足りませんよー」とコメントする人たちまで出てきた。どんどん増えて10人20人となる。なので「野菜が足りませんーとコメントは要りません。いい加減うんざりです。その際は友達削除させてもらいます」と告知。(今でもその種のコメントがあれば削除します!)

もう10年ほど前の話。コメント主に悪意はない。が、面白がっている。親しみを持ってくれている。クラスの友達のような感覚だろう。しかし、僕はその人たちと会ったことはない。顔さえ知らない。何者かも知らない。彼ら彼女はギャグのつもりだったりするが、こちらからすると見ず知らずの人が毎日、意味もなく「野菜が足りません」とコメントしてくるのは、不気味であり、やはり大きなお世話。

そこにFacebookの問題点がある。

会ったこともない相手を現実の友達のように感じて、自分のことを相手は知らないのに、親密なコミニュケーションをしてしまう。覆面を被った人が近寄ってきてジョークを言うみたいなもの。それは不気味なだけで笑えない。議論をふっかけてくる人も同じ。互いのバックグランドを知ってこそ議論は成立する。相手の年齢も、知識も、背景も分からないと例題を出すこともできない。なのに、覆面のまま、あれこれ言ってくる。

それ以来、料理の写真は上げていない。食事というのは人の距離を縮める。だから、デートは食事なのだ。大統領が来日すれば美味しいものを振る舞う。料理の写真を上げることで「友達」はより親しくなったと思ってしまったのだ。今は料理の写真は基本あげない。が、また一つ新たな問題も感じ始めている。それはいずれ。


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「現役映画監督が映画界の闇を告発」とネットで書かれたことも。週刊誌とネットを混同した悪意なき「友達」? [FB問題]

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「現役映画監督が映画界の闇を告発」とネットで書かれたことも。週刊誌とネットを混同した悪意なき「友達」?

Facebookのことを書いていて思い出した。ある時、映画会社の問題点を記事にした。将来、映画関係の仕事をする人たちに夢ばかりではなく、現実も伝えておこうと考えた。そうしたら、それをシェアした人がいた。そしてタイトルに「現役映画監督が映画界の闇を告発! これが映画会社の実態だ」と3流週刊誌のような見出しでアップした。これはアウト。Facebookには「シェア」機能はあるが、こんな見出しをつけて他人の記事を拡散するべきではない。

何よりも告発とかではなく、映画会社の厳しい現実を書いただけ。書いたのはfacebook友達であり、名前とそれなりのプロフィールは知っている。過去に何度も「いいね」をくれた人だ。が、そのシェア記事を見た人は

「あの監督。告発したんだ!すごいね?」

と興味本位で読むだろう。読みもせずに「告発だって?」と騒ぐ人もいるだろう。シェアした彼はそこまで考えていない。連絡して問いただしたら、

「悪意はなかった。週刊誌風の見出しが浮かんだのでつけてみた。いい記事なので多くの人に読んで欲しかった」

と返事が来た。悪意がないのは分かる。が、「お前は週刊誌の記者か!」と言いたい。三流週刊誌は中身のない記事でもセンセーショナルなタイトルをつけて売る。商売だ。それを理解せず真似してつける。愚かとしか言えない。

だが、業界外の人でその種の勘違いは多い。ワイドショーで俳優のプライベートを聞く。それはレポーターの仕事だ。その感覚で俳優に「今、付き合っている人は?」とか聞いてしまう人がいる。先の彼は週刊誌と現実を混同した。問題はそこからだった。別の「友達」からこんなコメントが来た。

「いいじゃないですか!センセーショナルだし、それに惹かれて監督の書いた記事を読んでくれれば、タイトルが違っていいんでしょう」

それがカタギの人ならまだ分かるが、映画業の友人だった。バカすぎる!お前も業界で仕事をし、その手のいい加減な報道や週刊誌で迷惑したり、傷ついた俳優さんを見て来てるだろう。タイトルの大切さ。映画でも記事でもそれは顔だ。何より言いたいことあれば電話して来い[電話]番号知ってんだろ。わざわざコメントして火に油を注ぐな。即、ブロックじゃ!そんな風に一人がバカなことすると、それに賛同。筋の通らぬことを言って来る輩が次々と出てくる。

ネットはテレビほどではないが、多くの人が見ている。そこにコメントを書くと言うのは街中で叫ぶのと同じ。繁華街でビラを配るのと同じ。良かれと思ってもそれが嫌がらせになることもある。あなたの部屋のパソコンにだけ映し出されるものではない。が、それを忘れたり勘違いしたりする。友達同士の会話ではないのだ。そんなこと時々、考える。


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Facebook友達に対しても一線を引きことが大事。監督業でないあなたも同じ? [FB問題]

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Facebook友達に対しても一線を引きことが大事。監督業でないあなたも同じ?

「監督業は俳優と距離を置くことが大事」と言う記事を書いたが、それはFacebookでも言えることだ。まだ、「友達」が1000人以下の頃だが、映画の宣伝をすると

「必ず見に行きます!」「応援しています」「映画見ました!」

とコメントしてくれる人たちがいて、とても嬉しかった。感想をアップして「***劇場で上映中」とかと応援してくれた。次第に親しくなり「健康に気をつけてください」「ファーストフードばかりじゃダメですよ」「次はうちの街で映画を撮ってください」と言うコメントが増えてきた。これも最初はありがたかったが、さらに加速する。

「こんなもの食べてちゃダメですよ」「そんな薬は飲んではいけません」

 「努力が足りませんよ」


あんたらは俺の親か!と言うものが増える。問題だが悪意はない。「友達」が2000を越えると、明らかに敵意を持った批判。嫌がらせ。皮肉。中傷が来た。議論をふっかけてくる人。そもそも、会ったこともない。年齢も分からない。仕事も、経歴も知らない。そんな人と議論にはならない。

映画についてなら、その人がどの程度の映画を知っているか? 単なる映画ファン? それとも業界関係者? 評論家を目指している? それが分からずに話合いは出来ない。また、日本人の多くは議論ができず。追い詰められると感情的になり、誹謗中傷を始めることが多い。本来、議論とは互いの情報交換と別の視点で物事を見つめるためのもの。なのに勝ち負けにこだわる。

「お前の映画は駄作なんだよ! 悔しかったら弁明しろ」

とか言ってくるが、その種の人の論点を見ると明らかな勘違い、知識不足であり、議論以前に解説をしてあげなければならないことが多い。Facebook上でそんなことに時間と労力を使わねばならないのか? それでなくても仕事でスタッフや地元の人とあれこれ打ち合わせ、議論することが多いのに家に帰ってから、見ず知らずの人とその対応せねばならないのか? 数年前から

「批判、誹謗中傷、アドバイス、質問は要りません」

と告知するようにした。それでも絡んで来る人は申し訳ないが「友達削除」させてもらった。ここでも言えること。初期の頃の僕は嬉しくて一人一人に返事をした。そのことで皆、親近感を持ち、プライベートな質問もOKと感じるようになった。本当の友達のように思い、食生活や健康にまで言及。だが、本当の友達ではない。年齢も、経歴も、仕事も明かさずに、顔写真も出さないでいて友達とは言えない。Facebook友達でしかないのだ。

でも、そう思わせたは僕だ。例え俳優ででなくても、皆が面白がってくれる仕事をしている者は自重し、一線を引くことが大事なのだ。いや、監督業だけではないだろう。一般の人でも同じ。線を引くことは大切なことだ。


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考える力ー育てる教育が日本はない。だから、国民はすぐダマされる=コメント欄から見えてくるもの? [FB問題]

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考える力ー育てる教育が日本はない。だから、国民はすぐダマされる=コメント欄から見えてくるもの?

最近は多くの方が僕の記事を読んでくれている。本当にありがたい。だが、同時にコメント蘭を見ていると心配になることもたくさんある。先日書いた「タイトルだけ見て批判する人」「写真だけ見て激怒してコメントする人」これらも困ったものだが、最近、気になるは真面目にコメントしてくれている人で、僕が指摘した問題についても真面目に考えてくれているのだけど、明らかに間違った答えを導き出している人がいる。

また、記事で切り込んだ内容には触れず、その文章の中で何か自分が思い出した関係のない話を延々と書き込む人もいる。その辺は自由ではあるが、どういう意味があるか? 似た例をあげればどこかの総理が聞かれた質問に答えず、関係ない話を延々とするような。まるで連想ゲーム?

それは頭がいいとか悪いとかではなく、日頃から考えることが少ないからだと思える。いつも書くように日本の教育では自分であれこれ考えて、答えを見つけるという授業は少ない。教えられた方法論や数式を使って答えを導き出すものがほとんどだ。あとは暗記。考える必要はない。

また、自分の意見を述べる機会も少ない。アメリカのようにスピーチやディベートの授業はない。むしろ、自分の意見を言わず、与えられたことを確実にやる。自分なりの方法論ではなく、決められた形でやる。要は優秀なサラリーマンを育成する教育なので、考える力は必要とされないのだ。だから、その力が育たない。

大人になり会社でも自分の意見を伝えることは多くない。ニュースを見てもキャスターが語るコメントを鵜呑みにして、誰かに語る人も多い。そのニュースがフェイクではないか?と疑う人もあまりいない。特にNHKは嘘は言わないと固く信じている。映画の感想を聞かれても多くが「感動した」「泣けた」としか言えず、どこがどう感動して、なぜ、泣けたか?を自分の言葉で説明できる人は多くない。

「考える」「思いを伝える」「物事を見抜く」という行為を子供の頃から日本人はしていないので苦手なのだ。しかし、「れいわ」登場で多くの人があれこれ考え始めたのではないか? 僕の記事はそれらの人に対して「これはどう思う?」「これは何だと感じる?」という問いかけをする。だから皆、真剣に考えてくれる。だが、子供の頃からそれをしていないので、間違った結論を出す人が多いのだろう。

「考える力」がないことで「不況が続くのは仕方がない。そういう時代なのだ」と思ってしまう。本当は「安倍政権の政策が間違っている。まだ景気回復をしていないのに消費税を上げて景気がさらに冷えてしまった」のである。でも、考える力がない人はそれに気づかない。「安倍さん頑張っているし、もう少し応援しよう」となる。そこを山本太郎は指摘している。そのことで目覚めた人は多い。考え始めた人もいる。

でも、十分ではなく、間違った結論にたどり着く。それをコメント欄でよく見かける。別の機会にそのことを具体的に説明する。考える力がないと結局、政権に利用されることになる。真実を見抜けずに搾取されてしまう。さあ、みんなで考えて行こう。


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Facebookで議論しない理由。覆面をした他人から批判されても議論はできない?! [FB問題]

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Facebookで議論しない理由。覆面をした他人から批判されても議論はできない?!

「反論、批判コメントはいらない」といつも告知しているにも関わらず、その手のものがときどき書き込まれる。

「そうとは限らないだろう?」

「勉強不足だね?あれは*****だよ」

「何も分かってないようだな?」

という書き出しで反論が続く。が、そのほとんどが、当て外れ、あるいは記事の主旨を誤解しているもの。もし、僕がさらなる反論を書くとしたら、まず、記事の主旨解説から始めなければならない。そしてコメント主の批判が方向違いであることを理解してもらう。つまり、再反論ではなく、一度書いた記事をもう一度詳しく、別の方向から、その人に理解できるように解説することになる。

それはレクチャーと同じ。議論には至っていない。何で、理解力がない人に忙しい中、時間を割き説明せねばならないか?と思ってしまう。が、その手の人にその種の説明してもと自身が記事の主旨を理解していることを認めようとせずに、別の問題点を指摘する。

「だったら、***はどうなんだよ? あれはおかしいだろ? 言い逃れできるか?」

つまり、議論ではなく何でもいいからやり込めたい。ギャフンと言わせたいというのが目的なのだ。その種の人がとても多い。また、主旨を理解しない人に説明する際。その人の年齢、経験、仕事等が大事だ。例を上げるときにその人がよく知る分野の話にすることで理解が進むからだ。年齢も大事。年配と若い人では上げる例も変わる。

しかし、多くのFacebookの基本情報には年齢も、仕事も、住んでいる場所も、さらには顔写真もないことが多い。また、その手の批判、反論をしてくる人は特にそれら情報を掲載していない。例えるなら、僕が講演会をしているときに、覆面をした人が立ち上がり、

「あんたの意見は間違っている。****は筋が通らない!」

と言い出すようなものだ。そんな怪しい人と議論はできない。即退場してもらわないと、他のお客も不審に感じるだろう。それと同じ状態なのだ。が、その手の人は自分のことを相手(つまり僕)が知らないことに気づかず、自己紹介をすることもなく。「違うだろう!」と感情的に(あるいは上から目線で)批判している自覚がない。(その時点で客観性がなく感情的であることが分かり、議論にはならない)

さらに、思い込みが強い。カッとなりやすい性格なのか? しっかりと記事を読まず、部分的なことで何か怒りを感じて、主旨とは関係ない、自分がイメージしたことに対して批判してくることが多い。例えば「ホリエモン」という言葉があるだけで「あいつは嫌いなんだよな!」「この監督はホリエモンを支持するのか!許せない」という具合である。

そんな風に批判する人の多くは感情的、思い込み、激情的、あるいは上から目線で、自分の認知要求を満たすために批判コメントをしてくる人が多い。認知要求をもう少し説明すると、自分のFacebook「友達」は少ない。「俺の考えは正しい」なのに、多くの人が支持してくれない。「友達」数の多い監督がいる。下らない記事を書いている。

「俺が問題点を指摘してやろう。読んでいる人は俺の凄さを知るだろう」

そんな思いでコメントをしてくる。人のふんどしで相撲を取るというパターン。だが、その人の意見はどこかズレている。だから、自身のFacebookでも支持されない。そんな人の批判や反論に応える意味はあるだろうか? なので「批判、反論はいらない」と告知させてもらっている。本当に鋭い人は、僕なんかにいちいち反論せず「なるほどね。問題ある記事だが、分からなくはないよ」と微笑んで済ませてしまう。でも、それで十分だ。

何が正しくて、何が違うか? いろんな見方がある。価値観がある。それを押し付け合う必要はない。また、他人の意見にケチをつけるのは簡単なこと。それを他人のFacebookに書き込む必要はない。客観的に見ている第三者が眉をひそめるものなら、そのFacebookの管理者である僕はそれを削除せねばならない。なら、最初から「批判、反論はいらない」とお願いしておこうと考えた。意見がある人はぜひ自身のFacebookで主張してほしい。


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安易にTwitter情報を信じていはいけない。と思っていた僕がまんまと乗せられた昨年の件? [FB問題]

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安易にTwitter情報を信じていはいけない。と思っていた僕がまんまと乗せられた昨年の件?

昨年の内に書こうとして書けなかったこと。Twitterを見ていると「モーニングショー」がローラ・バッシングとも言える放送をしているとの声多数。それらによると番組のタイトルが

「ローラが政治的発言!」

そこからして酷い。辺野古の海を守りたいと、ホワイトハウスへの署名をしようというのが彼女の意図。それが「政治的発言」か? 美しい海を守りたいは自然を守ろうという発想。政治的発言とは思えない。次に紹介されていたのが、市民の声。渋谷あたりの若い女の子3人がローラのコメントに対して「怖い」と発言。(動画)さらに、スタジオのパネルには

「CM降板という怖れは?」

との文章。「芸能人が辺野古問題に反対したらバッシングされるぞ。仕事を失うぞ」という警告であり、バッシングを番組が行なっているという指摘だと、それらツイートは伝える。

同じ局で放送されるニュース番組を十数年見て来た僕だが、古舘さんが降板してから、ほとんど見ていない。完全に政権批判のない報道になっている。そんな中「モーニング」は「そもそも総研」等、政権の問題を指摘するものが多く、毎日録画して見ていた。が、少し前から「そもそも」で政治ネタが扱われなくなり、心配していたが、また、最近は片山さつき問題を取り上げる等、頑張っていた。

なのに、ローラ問題の扱いが酷い! 完全に他局と同じ政府寄りの論調に転じたのか? と怒り心頭!!!!! ん? でも、待てよ。何事も特定の情報だけで判断してはいけない。以前も「報道ステ」の「都知事選で舛添に有利。細川に辛辣」「不公平な報道」と多くがバッシングしたものがあったが、その報道を録画でみると、むしろ細川を応援している編集だった。多くの視聴者が勘違いしていたのである。

デマに乗せられて「酷い」「許せない」と一緒になって怒り、その相手を攻撃する人がいる。単純に乗せられているだけであり、どんな情報でも安易に信じていはいけない。裏を取る。別の角度の情報を下がる。何より、それ自体を確認することが大事。それを思い出し、録画した「モーニング」を見て、唖然。

結論から言うと、あの放送はローラ応援。支持である。ツイッターで言われているのと真逆だ。検証しよう。まず、タイトル。「ローラが政治的発言?」これは「芸能人は政治に口出しするな」と言う二アンスも感じるが、視聴者に目を向けさせるためのキャッチだ。「モー」は報道ではない。情報番組。その手の番組では使う手だ。次にローラ発言を「怖い」と言う女の子の3人組。でも、別の発言も。

「ローラの発言で辺野古工事に興味を持つ人も出てくるかも」

そんなインタビューもあった。バランスを取っている。そしてスタジオのパネル。「CM降板の心配」これだけみると親切のようで、間接的に脅しをしているように見えるが、そのあとの高木美保さんの意見紹介。

そして玉川さんの意見。2人共に熱烈ローラ支持。賞賛。この手の番組で、番組としての意見は司会者ではなくコメンテーターが伝える。他局で芸人のコメンテーターが総理擁護発言をよくするが、その番組の意見がそれなのだ。同じく「モー」の主張はローラ支持なのである。

が、一方的に応援するのではなく、厳しい側面も伝える。批判する市民の声も伝える。でも、最後にレギュラーの2人共に応援コメントをしたところに本当に伝えたい意図がそこにあることが分かった。その放送の一部を切り取り、ツイッターで伝える。編集された動画で紹介する。そのことでローラに対して悪意がある番組に見えてしまう。

映像を仕事をする僕はその手法をよく知っている。にも関わらず、そのツイートに乗せられ激怒していた。だが、頭に来る発言。おかしな情報。あれ?と思った時は、必ず裏を取ったり、別角度から調べる。何よりそれ自体を確認すること大切なことを改めて思い知った。録画しているのに、番組自体を見ずに怒っていた自分が情けない。報道ばかりではない。

「Aさんがあなたのこと悪く言っていたよ。言うなと言われたんだけど。あなたが可愛そうだから....」

なんて親切な振りして言ってくる人がいる。それを鵜呑みにして「Aさんって酷い!」と思っていたら、それを言いに来た人がAさんを貶めようとしての行動だった...なんてことはよくある。以前に何度も書いた境界性人格障害の患者も同じ。

「Bさんに酷いことをされた!もう、死にたい....」

と周りに言って回り同情を集める。それを聞いた人たちがBさんを攻撃。だが、それはBさんを陥れ、困らせようとしての行動。境界性人格障害はそんなことをしてしまう病気。(詳しくは「朝日のあたる家」日記にその章があります)それを意図的にするのが政治の世界。いや、ご近所付き合いでもよくあることだろう。また、そんな噂やデマをすぐに信じる人も多い。

もしかしたら、「モー」批判のツイートを出した人は本当に「酷い!」と思ったのかもしれない。が、それなら見る力が不足している。一部だけを見て「ローラ、バッシングだ」と決めつけている。しかし、誤解されそうな部分だけを繋ぎ合せて発信しているところを見ると意図的なものも感じる。いずれにしても、人の噂やツイートを安易に信じてはいけないと言うこと。改めて感じた次第だ。


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