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FBのコメント欄に質問してくる人へ。テレビ見るのをやめ、自分で調べる努力をしてほしい=それがあなたのプラスになる! [FB問題]

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FBのコメント欄に質問してくる人へ。テレビ見るのをやめ、自分で調べる努力をしてほしい=それがあなたのプラスになる!

プロフィールを見ると明らかに僕より年上。あるいは、もう20歳そこそこではないよね?という男性(女性は少ない)たちが最近よくコメント欄に質問を書き込む。「この監督に訊けば、正解が分かるかも?」と思ってくれるのだろう。嬉しい話と考えることもできるが、会ったこともない人から、プロフィールも詳しく書かれてない人、顔写真も本人でないであろう人たち。なぜ、僕が時間を取り、返事をせねばならないのか?

もし、これが「なるほど!そこは気づかなかった!」と思える質問なら違う対応をする。が、その質問を読んで分かるのは、マスコミ情報しか収集していないということ。深く考えず、一次的な段階で考えるのを諦め、他で調べることもなく質問してくる。Googleで検索もしない。FBの他の記事を読んで、考えた上での質問でないことはすぐに分かる。

会ったこともない僕に質問して、時間や労力を費やして質問に答えるという想像が全くなされていない。申し訳ないとか、自分のためにそこまでしてもらうという感謝が全くない。そして質問内容も、明らかにズレたもの。誰でも少し考えれば分かることばかり。

長年の学校教育で「考える」という訓練がされていない。教えられた答えを記憶するだけ。だから、あれこれ考えずに答えを求める。自分で努力して調べるということをしない。そんな30代。40代。そして年配層がよくいる。

そんな人たちのために時間を割き、キーボードを打ち。答えることはしたくない。答えることはむしろ、彼らにとってマイナス。自分で調べ、考えて、答えを探すことが大切。その種のコメントはこれからも即、削除する。自分の質問が消えていたら、いろんな記事を見て、検索をして、自分なりに答えを探してほしい。それがあなたのプラス体験となるはずだ。



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多くは便所の落書きレベル? 鋭い人はコメントして来ない! [FB問題]

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本当に残念なことだが、Facebookで論理性を持ってコメントする人は少なく、多くは便所の落書きレベル。自身の不満を政治家にぶつけているだけ。多少、理性的に書いているように見えても、根拠のない思い込みであったり。一読に値するコメントはなかなかない。

ただ、コメント欄ではなく、いろんな人の記事を見るとマスコミ顔負けの情報と分析を伝える人も多い。とても素人とは思えない人がいる。そして彼ら彼女らはほとんど他人のページにコメントしない。あれこれコメントしてくる人たちの多くは、自分で情報を集めず、聞き齧った情報を鵜呑みにして、正確に分析することもなく、論理性を持たない烏合の衆ということなのだろう。

誰かの主張や意見に文句をつける。否定する。でも、的確な反論はできない。議論ではなく、イチャモンつけているだけ。要は欲求不満の解消をするために他人に絡んでいるだけなのだ。そんなケースがほとんど。それらの人たちのコメント。読むだけで疲れる。

しかし、Facebookは承認制ではなく、それらコメントを他の友達も読む。それら根拠のないコメントに対して議論を始める。全く無意味。こちらは精神科の医師、複数に訊いて書いた記事に対しても「あいつは単なる嫌な奴なんだよ! 病気じゃねえよ」と医学的な知識もないであろう人が思い込みだけで批判してくる。憎しみのあまり、客観性を失っている。

そんな人たちと関わっても無意味。血圧が上がるだけ。お願いだから、放っておいて。書きたいことは自分のFacebookで!と思ってしまう。ただ、そんな人たちを見ていて、マスコミが簡単に誘導。政府にコロッと騙される日本人。その構図が実感できるのはメリット。まあ、そもそも、休止していたのに311で記事あげないと!とアップしたら、翌日に「F50」がテレビ放送されて、黙ってられなくなり、間違いを指摘した記事を挙げたら大好評。その流れで今日まで来てしまった。そのことは反省。

ただ、そのことで幾らかの人たちがあの映画のフェイクを知ってくれたのなら意味もあるはず。ただ、そこから派生した総理問題。その実態を理解していない人があまりにも多い。それも掴んだ真相を告げるべきか?と考えたが、理解できない人が多く、特に精神障害の問題はマスコミも蓋をする。多くが知らずにいる。そこに医学の世界では常識である事実であっても、無知な人たちはそれを受け入れることができず、反発してしまう。つまり、多くが理解できる情報は喜び、自分たちの許容範囲からはみだすと、論理性を持たずに拒否するという構図がある。

その辺をマスコミや政府は利用して、多くの人を誘導する。まさにその問題に直面する。聞き齧ったマスコミ情報を信じ切り、自身で裏付けをしない。あれこれ別のメディアから情報を集めない。それが多くの日本人だと思える。現在のコロナ感染で小池百合子知事を批判する声が多い。オリンピック強行に関しても批判ばかり。しかし、小池を選挙で選んだのは都民なのだ。給付金を配ると公約した山本太郎を落としたのも都民だ。それが「金は配らず、自粛しろとは何だ」と怒る商店。あんたは誰に投票したの? そして多くの都民が小池を選んだのだから、あんたにも責任あるのだよ。文句言うなら、あの時に山本太郎応援運動をするべきだったのだ。

ま、でも、Facebookをやることで、そんなことを考えるきっかけにはなる。やはり、それはメリット。ただ、血圧が上がる。何も調べずに思い込みで主張する人とは関わりたくない。こちとら心理カウンセラーではないのだ。できれば再び休止できるようにしたい。が、宣言するとまた、あれこれ質問が来るので、FB友達に気づかれずに休止する方法を考えている。


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コメント欄にあれこれ批判を書き込む人たち?=彼らの背景を分析してみた。 [FB問題]

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「友達」が興味深いコメントをくれたので、もう1本記事にする。あれこれ批判コメントをしてくる人たちのことを書くと、反響がある。僕だけでなく多くの人がその種の人たちの困っているということ。そこで、その種の人たちを分析してみた。その種の批判があると必ず、その人のプロフィールを調べる。他の発言や趣味も確認。仕事上で出会った時も同様。そんなことで背景が見えて来る。代表的なものを紹介。

❶読解力がない人=そもそも、記事に書かれている内容を理解せず、「これは許せん!」と勘違い。怒り!批判してくる人。このタイプは激情型が多く、「許せん!」と思うと、自分が勘違いしていないか?その記事は本当に酷い内容なのか?を検証せず、怒りが頂点に達して反論コメントを書いてしまう。

そのタイプは冷めるのも早いようで、「それは誤解ですよ」と返信しても読むことは少なく。コメントしたことさえ忘れるのか? 返答はない。そして、繰り返し批判してくることもない。瞬間湯沸かし器のようなタイプ。すぐに冷める。悪い人ではないことが多いが、付き合い辛い。現実社会でも友達が次第に離れて行くが、本人は理由がわからないようだ。

❷ゲーム感覚で議論する人。何かにつけ、あれこれ議論をふっかけて来る。基本的に議論が好き。本来、議論というのは自分と違う意見を聞くことで視野を広げ、別の情報を得るという行為。それを将棋やチェスのようにゲーム感覚で、勝負して勝つことに意味を見出すタイプ。多くの批判好きはこれが基本。このレベルだと害は少ないが、歪むと病的になる。

❸先のタイプが歪んだパターン。友達が少なく。(ほとんどいないことも多い)仕事以外はネットをして、あれこれ情報を探す。対人関係は苦手だが、ネットであれこれ調べるのは得意。その時間が長いので、いろんな情報を持っている。そのことで優越感を感じ。「俺はテレビでは報道されない情報を知っている! 一般庶民のバカは知らねえよなあ」と得意になりがち。

Twitterやfacebookでターゲットを見つけるとコメント。「分かってないなあ〜。あれは***の仕業だよ」とか上から目線で書き込む。なぜ、上から目線になるか?というと、友達がいなくて、褒められたり、喜ばれたりしない。認知される機会がない。自己確認ができない。その心の空洞を埋めたいと無意識に感じている。人付き合いがないので、どうでもいい事実を知って優越感に繋げる、自分が優れていると勘違いする。友人がいれば「どっちでもいいことだよ」と言うが、それがない。

どうでもいい知識(あるいは思い込み)を誇る。ネットで他人を否定、嘲笑する。それは無意識に自己確認をするため。そのことで「俺は凄いんだよ」と思うことができる。面と向かって言うと、殴られたり、怒鳴られたりして終わる。対人は苦手。そこで名前も顔も出さずに済むネットで、自己の優秀さをひけらかす。決して論理的ではない。思い込みが激しい。人を相手に説得したり、説明したりするのが苦手。なのでネットでも意味不明な批判。コメントをしてしまう。

相手が論理性のある反論をしても理解できない、しないことが多い。コミュニケーションが下手。見当違いな批判を繰り返す。相手はバカらしくなり、議論を止めるが、本人は「俺に勝てないから逃げた」と判断。優越感を満たす。一昔前のオタクのような存在。これが政治絡みになると「俺は社会に情報を発信。意見しているんだ!」と勘違い。政治家を批判したり、関係者をこき下ろしたりすることに喜びを感じる。社会参加していることで「俺は友達の少ないダメな奴じゃない!」と心の傷を癒す。

その種の多くは本人が満足できない仕事をしており、職場でも同僚らから認められていない。理解してくれる友人もおらず、バカにされていることが多い。その屈辱。寂しさをネットで晴らす。攻撃する獲物を探してネットの世界へ。他から反論されないターゲットを探し、批判することが多い。自民党批判なら反対するのはネトウヨだけ。あと、失言した芸能人。最近ではトランプ支持者。その辺を叩いて、悦に入る。要は正義中毒。社会参加ではなく、心の傷を癒す作業。悲しい人たちであることが多い。


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FBのコメント欄から見えること。新しい時代を生きる人。旧時代を生きる人。 [FB問題]

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FBのコメント欄から見えること。新しい時代を生きる人。旧時代を生きる人。

先日、コメントについて意見させて頂いた。「**は嫌い」と趣味嗜好を書き込むのを始め問題あるものを指摘。人のFBのコメント欄に書くべきことか?どうか?考えて欲しいとのお願いをした。多くの方がご理解頂いたようで、その後、その種のコメントがほぼなくなった。感謝している。

facebookは「2ちゃんねる」ではない。落書きコーナーでもない。好き勝手なことを書いていいものではない。また、質問コーナーでもない。訊かれた方はあれこれ答えるのに時間も労力もかかる。それを考えず、会ったこともない人にそれを要求する。僕の場合、その手の質問が何十も来た事があり、午前中にはその対応で潰れた時期がある。それからもう質問に答えるのはやめた。

一部の人たちは突き詰めない。facebookとはどういうものか?と考えない。だから、昔からのテレビで番組を見ている感覚だと捉える。出演者が「焼き鳥好きです」との発言に突っ込む「俺は嫌いだな〜」その感覚でFBにコメント。テレビの前で呟くのは自由。でも、それをわざわざコメントする意味は何か? 自分が「焼き鳥嫌い」なことを会ったこともない相手に伝えてどうなるのか?

例えば僕が「石破の本を読んでます」と記事を書く。それを読み「こいつ嫌いなんだよな」と思ったら「俺は絶対に読まない」とコメントする。「読んで欲しい」とは書いていない。これもテレビ感覚。僕の場合なら5000人近い「友達」が読む可能性がある。それを想像しているのか? 「ぜひ、読んで欲しい」と問いかけてもいない。なのに「俺は読まない」と答える。テレビとfacebookの違いを意識していない。

レストランのCMでタレントが笑顔で「来てねー」というのを「俺は絶対に行かねえよ!」と言いたくなる時がある。が、それをfacebookでしている。もっと言えば、子供がレストランの床に寝転がる。自宅とレストランの違いを理解していないから。自宅では許される。が、多くの人がいればやってはいけない。それに近い感覚が「俺は嫌いだ」「私は読まない」というコメントなのだろう。

それらのコメントは読んでいて決して心地良いものではないし、見つければ削除するが、そこからも時代の移り変わりを感じる。人は無意識に過去の価値感に縛られ、時代が変わっても気づかずに、その価値観に従い行動、発言してしまう。コメント欄からも時代に乗れる人。今も旧時代を生きる人。見えてくる。


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Facebookに無神経なコメント。批判。=多くの人が悩んでいる。 [FB問題]

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Facebookに無神経なコメント。批判。=多くの人が悩んでいる。

「友達申請をくれる方へお願い」という記事を書くと毎回「いいね」がたくさん来る。何で? 単なる「お願い」だ。「批判や反論はいりません」というわがままなお知らせ。というのも一時期、無神経なコメントを書き込んで来る「友達」が多かったからだ。Facebookは2チャンネルではないし。Q& Aでもないのに、あれこれプライベートな質問してくる人がいた。議論を吹っかけてくる人。

イベントのP Rや長文の持論を書き込む人。「そんなことは自分のFacebookで書け!」と怒り爆発。顰蹙覚悟で「禁止条項」を挙げた。「何を偉そうに!」「何様だ」「Facebookは交流のためのツールだろ!」とか批判殺到?と思ったら「友達」数は全く減らず、むしろ増えた。

それからもう8年以上経つが、新しい友達が増えるたびに「お願い」を掲載する。その度に「いいね」多数。多かれ少なかれ同じ悩みを抱える人が多いのだ。僕の過激発言に共感した方々が「いいね」をくれるようだ。ある友人もいう。

「本当におかしな人は即ブロックできる。が、悪意がないのに、あれこれ言ってくる人。親切なのは分かるけどウザい人。的外れなコメントする人。上から目線で説教する人。そんな人たちはブロックしにくい。と言って、余計なことコメントするな!とは言いづらいし、友達削除して逆恨みネットであれこれ悪口を書きまくるの叶わないしなあ」

実際に会って話す時は許されるが、ネットではいけないことがあるのを理解できない人がいる。また「友達承認」されると本物の友達になったと思い込み、タメ口でコメントしてくる人もいる。顔写真はアニメ。プロフィールも空欄。年齢も分からない。そんな人から親しげにコメントされても怖さが先立つ。居酒屋で話すのと、会社で話をするのは違う。それぞれの場でしてはいけない話。してもいい話がある。ネットも同じなのだが、それが分からない人がいる。

そんな姿勢で寄って来られても、日本人は相手を傷つけたくないと対応してしまうことが多い。次第に我慢の限界に来てFacebookをやめてしまう。僕もいい加減うんざりして2度ほど数ヶ月休んだことがある。そこで無神経な態度で来られる前に「反論はいらない。批判もいらない。議論もしない。友達削除します」と宣言した。おかしなコメントは激減。皆、悪気はなく、ついつい勘違いしてあれこれ必要ないことを書き込んでいたのだ。

今でも無神経で攻撃的なコメントは来る。その場合は即、削除させてもらっている。これは会社で仕事をしていると、知らない人が訪ねて来て、殴りかかってくるのと同じ。殴り返さないが、その人には出て行ってもらうのは常識。Facebookでも同じ対応をするべきだ。それでなくても職場や通勤途中でストレスが多い。なぜ、ネットでまで余計な気遣いをする必要があるのか? 注意を伝えた上でも無神経な言動をする人には遠慮はいらない。そんな風に考える。



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何故、人のFacebookに「**は嫌いです」なんて書き込むのか?=趣味嗜好を会ったこともない人に伝える人たち [FB問題]

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何故、人のFacebookに「**は嫌いです」なんて書き込むのか?=趣味嗜好を会ったこともない人に伝える人たち

コメント欄。以前のような失礼千万なものはほぼなくなったが(時々ありますが)最近も首を傾げるものを見かける。これはひねくれ者の私の主観であり、一般的にはよくあることかもしれない。が、とても気になる。

「私は**が嫌いです」というコメントしてくる人がいる。橋下やホリエモンのことを記事にすると、よく書き込まれる。彼らを嫌う人は多いだろう。でも、それ以外の政治家や芸能人でもそんな似たようなコメントをする人がいる。

そんなことをコメント蘭に書いて何になるのだろう? これが「嫌いです。何故ならば*****だから、それは首長として相応しい行為とは思えません」と理由を書くのならまだ分かる。が、好き嫌い、好み、趣味嗜好。そんなことを聞かれてもいないのに、書き込んでくる意味が分からない。読んだ人の何かプラスになるのか? 

親しい同士ならまだ「君はあの人が嫌いなんだね」と、その人の嗜好を知る情報ともなり、付き合う上での指針ともなるかもだが、Facebook上の友達にそれを知らせる意味はない。「エビフライ食べました」という写真入りの記事に「洋食は嫌いです」とコメントするのと同じ。「あんたも食べろ」というのではない。そう考えると、無意味であることがよく分かるだろう。

何でそんなことを書き込むのか?考えてみる。橋下と聞き「あーあいつねー、嫌いなんだよなー」と感じる。それを深く考えずに「嫌いだ」と書き込む。その記事を書いた僕がどう思うか? それを読んだ他の読者がどう感じるか?も考えずに書く。テレビを見ていて、嫌なタレントができてた。「こいつ嫌な奴だよなー」と1人でつぶやくことはある。それと同じ。でも、いちいち、他人のFacebookに書き込む必要はない。2チャンネルではないのだ。

僕のFacebookのコメント蘭を見てもらえば、多くは真面目に社会や政治を考えている人が多い。ちょっと破茶滅茶な人もいるが、真剣に考えていることが分かる。そこに「こいつは嫌いだ」と自分の趣味嗜好をコメントすることに意味があるか? 駅の伝言板(最近はないけど)「バカ」「***死ね」「**嫌い」と書くようなもの。要はコメント欄を感情のはけ口に使っているだけなのだ。

ただ、僕も橋下は大きな問題を感じる。が、それを「嫌い」と言っても広がらない。多くに問題点が伝わらない。彼の問題点を挙げて批判してこそ他人の理解が得られる。好き嫌いをいくら叫んでも多くの賛同は得られない。そこを考えることが大事ではないか? 


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Twitterは操作されている。コロナ対策批判をすると、フォローが増えなくなる? [FB問題]

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Twitterは操作されている。コロナ対策批判をすると、フォローが増えなくなる?

このブログ「朝日のあたる家ー監督日記」記事のアドレスは、Twitterでも発信。多くが読みに来てくれる。先日の「PCR検査抑制の真相」記事は5000件アクセスを超えた。「バカがバカを呼ぶ」も好評。

そのせいか、この数週間で500人くらいがフォローが増えた、間も無く8000人フォローになる。が、急にフォローがピタリと止まった。逆に毎日、数人ずつ減って行く。「いいね」「リツイート」は相変わらず多い。少し増えてもまた減って行く。変だ。僕のツイート内容の多くは「コロナ対策問題」批判や疑問や分析。そんな時に23億円のコロナ情報統制費用のニュースを聞いた。

こちら=>https://lite-ra.com/2020/04/post-5363.html?fbclid=IwAR3DF4hiEtNACjFaFT-ZZnO3bv6uq2dQWbg_gGLpO6ahtHF1LQd549Qr1Iw

かなりの大金を使い。批判を抑え込もうとしている。特にフォロワー数の多い危険人物を押さえておかねば!ということだろう。僕は約8000人。著名人のように何万ものフォロワーはいないが、映画監督業種では多い方だろう。おまけにツイート内容が過激?「こいつはやばいぜよ〜」と目を付けられたのかもしれない。

現在、正確にはフォローが4973人。ここからほとんど増えない。増えてもすぐに減る。この数値がどれだけ減るか?で抑制作戦の動きも見える。しかし、コロナ対策にはよほど批判が強いので僕のような小物まで抑制せなばならんのやろなあ。


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映画レビューに「突っ込みどころ満載!」と評論家気取りのコメント=背景にある悲しいもの。 [FB問題]

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映画レビューに「突っ込みどころ満載!」と評論家気取りのコメント=背景にある悲しいもの。

いろんなサイトに映画の感想を書くページがあるが、特にyahoo!に書き込む人たちの映画鑑賞眼は低い。別にyahoo!が悪い訳ではなく、その種の人たちが多いということ。どんなコメント? 例えばこんな風なのが多い。

「突っ込みどころ満載。あれ? なんで?ということの連続!」

「展開が唐突! 何なのこの映画。展開に無理ありすぎ〜」

ある。ある。と思うだろう。これらに共通するのは何だろう? そう。ほとんどが上から目線。得意げ。鬼の首を取ったような感じ。簡単に言えば評論家気取り。しかし、その映画を見ると、それほど酷いものでなかったり、力作だったりする。そこには2つの背景がある。彼らの心の闇を考えてみよう。

80年代。僕は映画ファンであり、映画学校に通い、映画好きと毎日議論していた。「ぴあ」には毎週、読者の映画批評が載る。がyahoo!的な感想はあまりなかった。同世代の映画評論家さんはいう。

「本来、映画を見ていて、あれ? 何でこうなるんだろう? と思った時に、僕らは伏線を見逃したかな? 説明があったんじゃないか? と考える。映画というのはプロが作るもの。意味が分からないのは素人である自分が、しっかりと見ていなかったからだろうと考える。

でも、今どきの子は分からないことがあると、この映画は説明不足だ。ご都合主義で展開させてんだな〜と考える。つまり、分からなくなるのは自分の不注意や無知ではなく、映画制作側の、あるいは監督がバカだから分からなくなると解釈するんだよ。

そんな解釈をするのが20代とか30代の人たちが多い。作っているのは50代とかの監督で、プロのスタッフ。映画というのは集団作業。例え監督がバカでも、シナリオや現場でおかしな部分が見つかれば、必ずスタッフが指摘する。誰も気づかずにオーケーなんてまずない。それを20代の映画ファンだけが気づく問題点ってあるかな?

実際にその映画を見ると、ちゃんと伏線が張られていたり、前の場面で説明されていたりする。それを見逃していたので展開が分からなくなったのだろう。にも関わらず『無理あり過ぎ〜』と考えるんだ...」

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なるほど。ただ、なぜ「私にものを見る力がないのではなく、説明不足の相手が悪い!」という解釈をするのか? 考えた。それは今は僕らの子供時代以上に管理教育が進んでいる。やるべきことは教師や親から指示される。宿題をしろ。勉強をしろ。教室では静かにしろ。寄り道をしないで帰れ。それをやらないと厳しく注意される。

言われたことさえしていれば問題はない。つまり、考える必要がない。自分で判断しない。なぜ、この学科を勉強するのか? なぜ、この宿題が出るのか? なぜ、こんな規則があるのか? 考えない。背景を想像しない。疑問を持たない。

駅のホームに立てば「電車が来ます。白線まで下がって下さい」とアナウンスがある。ショッピングセンターでは「エスカレーターから乗り出して顔や手を出さないでください」と館内放送。そんな環境で育った子たち。考える力はない。映画には伏線がある。伏線というのはナレーションで

「この主人公は銃マニアである。部屋にはモデルガンが飾られている。大きな伏線になるので覚えておいてほしい」

なんて説明はない。伏線というのはそれとなく描くもの。だから、見逃しがち。若い子は気づかない。展開がある。伏線が生きる。が、伏線に気づいていないので分からない。「なんで、こうなるの? 何の説明もなかった。この映画おかしい!」となる。

言われないと気づかない。管理教育が行き届いた中で育った結果ではないか? もう一つの悲しい背景がある。人を批判すると、自分が偉くなった気がするものだ。優越感を感じる。次第に上から目線になる。

「俺には分かるんだよ。そんなことじゃダメだろ?」

その誇らしい気持ちを伝えたくて、感想を映画サイトに書き込む。「俺って凄いだろう?」そんな思いを込めて。日頃、誰にも褒められない人たちがいる。彼らは必要とされないダメ自分から逃れ、自分の優秀さを誇るためにコメントする。

だから映画レビューはその手のコメントが多い。が、そのほとんどは勘違い、見る力がない人たち。多くは厳しい管理教育で育った人たちだろう。それが映画レビューに「突っ込みどころ満載!」「唐突な展開!」「捻りがない!」などと、ワンパターンの表現で勘違いなコメントを書き込む人たちの背景だと思える。(2019年の記事より改定)


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僕のFacebook友達はリテラシーが高い!=それでも理解できていない話題。そう、あの人のこと? [FB問題]

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僕のFacebook友達はリテラシーが高い!=それでも理解できていない話題。そう、あの人のこと?

監督業をしているので特殊な方にお会いしたり、テレビ新聞で報道されない情報を聞かせてくれる人がいる。おまけに僕はあれこれ調べるのが好きで、昨年は「日航123便墜落事故」いや「撃墜事故」についても、あれこれ文献を紹介した。原発について、沖縄戦についても書いた。

一般的に奇異な事件があった時。真相を知ると「へーーそうなんだ」と感じる。だが「真実」を隠し、マスコミ等が嘘で隠蔽している場合。多くの人は嘘を信じてしまい、事実を伝えても「デマだ!」と批判することが多い。ケネディ暗殺事件等がそれ。「犯人はオズワルド!」と当時は誰もが思い込んだ。

それは今も同じで、マスコミが嘘を流しているのにネットで事実を発信すると「デマ野郎」「嘘書くな」というコメントが来ることが多い。ただ、僕のFacebook友達はリテラシーが高いので、その種の記事を上げても批判的な書き込みはほぼ無い。真偽を見極めて読んでくれるからだろう。それでも時々、「え?」というコメント来る。あるいは過去の情報に囚われている発言を見る。

情報というのは新しいものを得ないと意味がない。天気予報のようなものだ。台風が来るのに海に行こうか?にはならない。昨年の天気予報をもとに行動すると大変。しかし、多くの人は朝から晩まで仕事。日曜はビール飲んでテレビでプロ野球。あるいは子ども連れて近所の公園へ。なかなか情報を得るのは難しい。あの総理のことは多くの人が発信。問題行動。問題発言。愚行。犯罪まがいな行為。多くがネットでは伝わり、多くの国民が理解している。

でも、トランプとアメリカについては意外なほど理解されていない。勘違いなコメントをよく見る。日本のマスコミは反トランプ勢力下なので、嘘とデマばかり流し、ネガティブキャンペーン。ネットは日本の総理と同一視して批判。それらが多い。実は情報はあるけど、あの悪役としか言えない風貌で、真相を把握できない人が多いのだろう。なので、その辺の話。再度、書いてみたい。


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なぜ、人は議論するのか? 相手の顔も知らないネット上で言い合うことに意味はあるのか? [FB問題]

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なぜ、人は議論するのか? 相手の顔も知らないネット上で言い合うことに意味はあるのか?

Twitter。僕がフォローしているアカウント。いつもいいコメント。「なるほどな!」ということを政治に対し、政府に対し、政治家に対して意見している。あの短い字数でうまくまとめてある。その人のフォロワー数は8万人。視聴率に近い数字。多くの人が彼を支持するのも分かる。

が、常に批判ツイートが来ている。「アホちゃうか?」と思うようなものも多い。何でもいいから批判してやれというものから、重箱の隅を突くものまで。読んでいても呆れるものが多い。にも関わらずアカウント主はしっかり反論し、イチャモンを論破する。

短い字数で分かりやすく、なるほど!という文章を返す。もう、名人芸だなあと思えたりする。しかし、批判する人たちは何を考えているのか?意見が違う。間違っているということを指摘するが、自分は本当に正しいのだろうか? 自分の指摘に間違いはないか? という戸惑いが感じられない。twitterは当然、多くの人が見る。言い換えれば多くの人が集まった街頭で議論するようなもの。あまりにバカな指摘をしたら笑い者になる。なのに、その躊躇が感じられない。

ハンドルネームを使っているということがあるだろう。笑われても、素性はバレない。しかし、それは覆面をして議論するようなものだ。アカウント主は実名を出している。職業柄、多くの人が知るある種の有名人。その人にあれこれ絡むのは、どこかに「あいつを論破してやる」とかいう、昔の道場破りのような思いがあるのか?  

本来、議論するのは別の考え方を知るのが目的。でも、日本人はすぐに感情的になり、人格攻撃を始めたり、罵倒したりする。また、自分の意見を押し付けようとする人もいる。何よりネット上で相手の顔も年齢も職業も分からない人との議論は無意味だ。互いの立場が分かった者が実際に会って話してこそ、まともな議論ができる。

だから僕はネットで議論をしない。賛同する人は賛同してくれればいいし、反対の人は反対でいい。意見が違っても反論して来ずに自分のFacebookで書けばいいと思っている。大切なのは誰が正しいか?ではない。その意見をどう実現するか? どう推進するか?だと考えている。



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