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人は人からの認められないと辛い。そこを利用して商売するメディア? [FB問題]

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Facebookを休止して3日目。

タバコの禁煙に似ている。テレビを見ながら無意識にタバコを探してしまい

「お、禁煙したんだった....」

と思い出すように、iPadを無意識に手に取り、お!と思い出す。仕方なく、Twitterやメールを確認するが、Facebookほど頻繁に反応がある訳ではない。何かもの足りなさを感じるけど、これでいいのだ。そもそも、Facebookの良さは自分がアップした記事に関して、反応があること。

「お!***さんが『いいね』をくれた。***君はシェアしてくれた!」

と、詰まらない記事を上げてもすぐに反応が分かる。以前にも書いたが、それはアイデンティティの確認。自分の存在を認知してくれるのでうれしい。人には「食欲」「睡眠欲」「性欲」とかの他に、「自分の存在を認めてほしい」という欲がある。

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が、これがなかなか難しい。お金を払って満たされるものではない。仕事で成功するとか、いい成績を取るとか、有名になるとか、人から認知され、賞賛されるのは難しい。そこに目をつけたのがFacebookだ。賞をもらったり、ニュースで紹介されたりという認知ではないが、ささいなことで、多くの人の注目や支持を得られる。喫茶店でモーニングサービスを食べるときに写真に撮り、アップするだけでも、

「おいしそうだね!」

「あ、私も朝食はパンにしよ」「どこの店の朝食。今度行きたい」

なんて反応がある。大喜びはしないが、少し嬉しい。***さんも観てくれたんだと思える。それは***さんが自分のことを忘れずに、友人として交流を続けてくれていることの確認。私には友達がたくさんいる。皆が、注目してくれている。それによって自己の確認を行う。でも、それができないと

「俺なんてどっちでもいい存在なんだ」

「誰も私なんて必要としてない」

と考えてしまい、ヤケになったり、悲しくなったりする。人は誰かに必要とされ、誰かが喜んでくれることで、自分の意味を感じる。貧しい時代には、食べることが何より重要になるが、ある程度、生活が成り立ったとき、人が次に求めるのは「自己の確認」なのである。

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現代はそれを確認するのが特にむずかしい。都会はなおさら。孤独感、喪失感。エヴァンゲリオン症候群。そんな人たちにFacebookは手軽に自己確認できるアイテムなのである。けど、強い自己確認ができる訳ではない。「いいね」や「コメント」による小さな確認。だから、何度もFacebookをチェックして、その反応を確認しようとする。頻繁に確認しないと、不安になる。こうして中毒症状になっていく。

僕自身は宣伝のためにFacebookを使っていたが、いつしかそれに嵌り、中毒症状になっていたような気がする。だから、1日に何度もチェックしてしまう。友人には人と会っている間でも、何度もFacebookを開き、反応を確認。その場で写真を撮り、アップするヤツまでいる。人と直で会っているのに、なぜ、Facebookを観ている「友達」とコミニュケーションするのか?そんな方法でしか「自己確認」できなくなってしまっているのだろう。

ただ、そんなFacebookは「自己確認」と同時に、「自己否定」も起こってしまう。自分が書いた記事に賛同、賞賛してくれる「友達」ばかりではない。あれこれ無神経な批判、否定をしてくる「友達」もいる。会ったこともない「友達」があれこれプライベートな質問をしてくる。無理な頼み事をしてくる。勘違いなコメントをしてくる。自分が書いていないことを「***さんはこう言っている」と記事にされることもある。

それらは面倒で、うっとうしい。

「友達」が増えると、そんなことが増える。本当に会ったことのある友達と「友達」になるのならいいが、知らない人とネットの上だけで繋がると、いろんなすれ違いや誤解も生まれる。イライラが募り、うるせえなと感じることもある。そんなことでFacebookをやめた友人も何人もいる。が、それでも辞められない人も多い。

ささやかな自己確認をするために、それ以上のイライラやストレスを感じてFacebookを続けて意味があるのか? それでもそのささやかな賛同や「いいね」が嬉しくて毎日、何度もチェックする。それはもう中毒症状。タバコで喉がやられ、肺が止んでいるのに、タバコを止められないのと同じ。そんなふうに辛い思いをしながら、Facebookを辞められない人も多いと感じる。

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そんな訳で僕自身が一度、Facebookを休止してみた。どんなふうになるか? 確かめたかったからだ。本日で3日目。今まで友人たちが今日、どこで何をしているのか?が手に取るように分かったのが、全く分からなくなる。自分だけ置き去りにされたような気になる不安になる。だが、それを知っていたからとどうなるのか? 昔はそんなこと全然分からなかったのだ。そして思うこと。

人は人と絆を持ちたい。

賞賛され、必要とされたいという欲求がある。だが、人との距離が近づくほどに、マイナス面も見えて来るということ。大好きな女の子と仲良くなり、結婚しても、次第に嫌な部分が見えて来て、落胆していくように(女性にとっても同じ。憧れた男性の現実が見えて来て失望する)距離が近づくことで、問題も起きて行く。その意味で、友人たちの行動が手に取るように分かるというのも、いろいろとマイナス点が出て来るだろう。そして、何をしているか?が分かったところで何のメリットがあるというのか?

そう考えると、それによる寂しさや不安というのは無意味なことだと思えて来る。むしろ、Facebookを続けることで、「自分は人からどー観られているのだろう?」ということを意識して、「いいね」をたくさんもらえる記事を書き、「いいね」をくれた人には大した記事でなくても「いいね」返しをして、「コメント」をくれたら返事をして、嫌われないように対応する。たかだか「いいね」欲しさに会ったこともない友達と仲良くしようとする人もいる。

何だか、ヤングママの公園デビューに近いものがある。仲間はずれにされないように、嫌な話でも我慢して相づちを打ち。相手に合わせる。それが嫌で引きこもりになるママもいると聞く。ある意味で村社会的な部分。自分を殺して、認知を求める。ある若い女性は毎日、Facebookの「友達」の記事に毎日こんなコメントをする。

「今日もお疲れさまでした!」

「明日もがんばろう」「それおいしそう」「へーー知らなかった。スゴイ!」

 いかに健気でいい子であるか?をアピールするためにコメントをしまくっている。気の毒になるほど、まわりの人に気を使っている。たぶん、彼女は現実の中では友達がおらず、職場でも人間関係が希薄。必要とされることが少ないのではないか? だからこそFacebookの中で賞賛され、認知されようと努力してしまう。でも、Facebookは諸刃の剣。小さな喜びと共に、数々のイライラももれなく着いて来る。それでも中毒になると止められない。

 僕は禁断症状?3日目。この先どうなるか? また報告する。

 つづき=>http://cinemacinema.blog.so-net.ne.jp/2016-01-04

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