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「朝日のあたる家で描かれたことは全部知っていたよ!」と 観ただけで完結する反原発グループの人たち? [自主上映]

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「朝日のあたる家」をある地方で見てくれた方から、こんなメールを頂いた。要約して紹介する。

「監督。神戸上映会の大成功。おめでとうございます。私はまだ映画館に上映拒否されていたころに、自主上映をさせてほしいとお願いした***です。あれから、随分かかって地元でも『朝日』が映画館で上映されました。あのとき、自主上映をお願いしたグループで見に行き、感動して涙をボロボロと流しました。でも、帰りに皆で話をしたとき、メンバーの何人かは『映画に出て来たことはみんな知っていた!』『初心者向けの映画ね!」というのです。

『これを自主上映しても反原発の人は満足しない!』ともいってました。それは違うと思います。この映画は原発事故や福島のことを知らない人に見せることが大切と思うのです。監督もインタビューで言ってましたが、反原発の人がみんなで反原発映画を見て『そうだ。原発はいけない!』といっても意味がないと思うのです。

だから『朝日』のようにドキュメンタリーではなく、ドラマで分かりやすく初心者でも原発事故が分かる映画を上映して一般の人に来てもらうことが大事なのですが、皆、映画を見ただけで満足してしまい、『みんな知ってることだ』といって、それを多くの人に見せようと思わないのです。次は署名活動をしよう。と皆、言っていますが、その署名活動をするにも、原発事故の怖さを知らなければ署名もしてもらえません。

私の身の回りでも『原発事故は収束した』『被害は少なかった』『原発より景気が大事だ!』という人がたくさんいます。そんな人にこそ『朝日』を見てほしいので、とても残念です。もっと、多くの人に見てもらい現実を知るきっかけにしてほしいのですが、上映会は誰も賛同してくれず。残念です」(以上、頂いたメールを要約)

そんな話はよく聞く。まさに、この方がいうように多くの人に、それも福島や原発事故をよく知らない人に見てもらうことを意図して作った映画だ。逆にいえば反原発の人が見て「勉強になった!」というのではマニアックになり、一般の人は見てくれない。

そして不思議なのはなぜ「全部知っていることだった」という感想が出るのか? その人たちは新しい知識を求めて映画を見るのか? 例え「知っていることばかり」だとしても、なぜ「何も知らない人たちにこれを見せよう!」という発想になぜ繋がらないのか? 原発に反対しているといいながら、それでは原発研究グループだ。

愛知県の団体からも、最初、同じ意見を聞いた。「この映画では弱い」「この程度のことは知っている。今さら何?と言う気がする」でも、その団体は違った。「最初はそう思った。弱いと思った。でも、だから、一般の人には見やすい。とっ着きやすい。ドキュメンタリーと違ってドラマは見やすい。有名俳優も出ているし、上映会にも誘いやすい。私ら、どぎついドキュメンタリーばかり見ているから物足りないけど。一般の人はこの方がいいんだ。と気づいたんです」そういってくれた。

そして上映会。いつものドキュメンタリー以上に多くの人が見てくれたという。そう。「朝日」は専門家に満足してもらうために作った映画ではない。もともと、テーマは「原発反対」ですらないのだ。テーマは「家族の幸せとは何か?」であり、同時に「福島の現実を知ってもらうこと」だ。

映画を見ることで「考える」きっかけにしてほしいと考えて作った。愛知のグループはその意図を理解。上映会をしてくれたこと嬉しかった。ただ、先に紹介した方のグループのように、「反原発」を訴えているのに、見るだけで完結してしまう人たちも多い。

「全部知っていることだった」=「私たちは勉強しているのよ!」という意味だろう。でも、それがグループの目的ではないはずだ。そこで終わってしまうのが残念だ。別に「朝日」を上映してくれなくてもいいが、同じ意思を持つ者ばかりが集まって「そうだ!これではいけない」という上映会を続けているだけでいいのだろうか? そんなことを感じる。

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