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なぜ、夢を語ると否定してくる人が多いのか①その裏にある日本の教育システムー軍国主義と同じ構図? [my opinion]

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 このところ、考えていることがある。

 答えを探すために、その思いを文章にしてみる....。このところ気になっているのが「facebook問題」と「地域のコミュニケーション」の共通点だ。「心のオアシス・喫茶Facebook」の記事にも書いた話。その先を考えて行くとある種の答えが見えて来るような気がするので、まずは高校時代の話から考える。

 高校時代。映画監督になる!というと、あらゆる人たちが反対した。親、親戚、教師、友人、近所の人。だから、なるべく彼らとは話さないようにしていたのだが、あれこれ言われた。「世の中甘くない」「夢はしょせん夢だ」「そんな簡単に行かない」「才能あるのか?」「無理に決まっている」等々。

 しかし、あとで考えると、その大人たちの中で映画界で働いたことがある人は誰もいなかった。友人が映画の世界で仕事していたという人もいない。つまり、自分たちが知らない世界のことをあれこれ、「厳しい」とか、「才能が必要」とか、「甘くない」とか想像で言っているだけだったのだ。

 反対されながらも、僕は高校卒業後、

 チャンスを掴み、映画の世界で仕事をするようになる。そのときに「映画監督を目指している」といっても反対する人はいなかった。まわりにいる多くは皆、監督になることが目標だからだ。もちろん、監督になるのは簡単じゃない。運もあるし。ということを言う人はいたが、皆、その世界の人たちであり、経験等に裏打ちされた助言だった。知らないことを言っている訳ではない。

 ところが、僕が「自分で製作費を集めて監督になる!」というと多くの人が反対した。「Pもやったことないのに無理」「誰がお前に金を出すんだ?」「前例がない」「世の中甘くない」というのだ。確かに、監督経験も、P経験もない奴が製作費を集め、映画を自分で監督するなんて話は聞いたことがない。僕自身、簡単なことだとは思っていないかった。

 が、このときも、自分でPをやったことがない人。監督経験もない人。製作費を集めたことがない人たちが、あれこれ忠告して来た。ん? 同じ構図。毎回、あれこれ説教したり、忠告したり、アドバイス....というより批判する人は自身の経験のないことを、想像で「簡単ではない」と判断して、「やめた方がいい」と注意、助言して来るのだ。

 高校時代も同じ。

 要は「諦めろ」「やめておけ」といいたい人ばかりだった。いずれにしても自身がやったことがないこと。経験のないことなのに、あれこれ注意、忠告してくるのだ。なぜ、何ら根拠のない、経験もないことをアドバイスしたがるのか? もうひとつ言えば、ほとんどが、こちらから相談した訳ではない。聞いてもいないのに先方から、あれこれ言っていることが多いのも特徴。

 その背景は以前の記事で書いたが、友人や後輩。或は子供たちを「応援したい」「役に立ちたい」「酷い目に遭わせたくない」という本来、優しさから忠告したり、アドバイスしている。傷ついたり、人生を台無しにしたり、辛い生活を送ってほしくないという願いからの言動だ。


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 だとしたら、なぜ、自分の知らない世界。或は経験のないことを「簡単じゃない」「世の中甘くない」と決めつけて、相手の夢を否定したがるのか? 自分がよく知る世界で、こんな問題がある。こんな厳しい側面があるというのなら分かる。知らない世界を、経験のないことを「やめた方がいい」と諭すのはどういうことか?

 当初は知らない世界だから不安であり、

 何が起こるか? どうなるか?分からないという不安や恐怖から止める側面もあるだろうと考えた。が、映画界で仕事をするようになってからも、自分たちの経験のないこと。見聞きしたことがない行動を取ると反対する人が多かった。「無理だ」「不可能だ」「前例がない」と否定。やめることを求めた。

 なぜ、人はこのように自分の知らないこと、経験のないことをする人を止めるのだろう? そのことで何らかの被害が及ぶ訳ではないのに、あれこれ口を出してくる。相談してないのに、あれこれ言って来る。もちろん、先に上げた「役に立ちたい」「心配だ」「応援したいからこそ」という優しい思いが底辺にはあるだろう。

 だが、それは、その人の思いを抑制し、押さえつけているという意味でもある。何ら、迷惑がかかる訳でもないのに、自分の経験のなこと。知らないことに挑戦しようとすると、頼まれてもいないのに止めようとする。事実上の邪魔をする。それを「親切心」だけで理解するのは厳しいものがある。

 本当の親切とは、自分ができることで応援する。

 知っていることを伝える。危険な部分を教えるということであり、知らないこと。経験のないことを忠告することではない。それは横暴であり、本人からすれば邪魔されているだけと思える。

 結果的に僕は、自分で製作費を集めて監督するという目標を達成する。高校時代から、あれこれ言われたが、語った夢を実現した。無理ではなかった。すると、不思議なことが起きる。反対していた人に結果を伝えると、こういうのだ。「よかったじゃん!」はあ? あれほど反対していたのに何それ?

 つまり、その先輩は「絶対に無理」「止めた方がいい」「前例がない」と僕の行動を何度も止めようとしていた。なのに前例のないことをやり遂げた。その場合のリアクションはこうだろう。

 ①嘘だろ。できる訳ないよ。

 ②マジかよ。すげーなー。まさかやり遂げるとは思わなかったよ。

 ③たまたま運がよかっただけだよ。次はそう簡単に行かないよ

 この3つが想像できる。なのに先輩は「よかったじゃん!」の一言。あれほど反対していたのに、何だそれは?と思えた。このリアクションから言えることは、先輩はそれほど真剣に僕のことを考えてなかった。真剣に止めようとはしていなかったのだと思える。(或は悔しいので、受け流しているのかもしれないが、そうとは思えないことが多い)だから、軽いノリの答えなのだ。


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 この種のことはよくある。

 「絶対無理!」「止めろ!」と言った人が、それがうまく行ったと報告すれば「よかったね」というようなことをいう。なぜ、そこで悔しがらない。驚かない。だって「前例がない!」とまで言っている。「世の中甘くない!」とも言われた。それを実現したのだから、「世の中甘い!」ということなる。前例を作った訳だ。だが、彼らは驚かない。後悔もしない。「いろいろ言ったけど、凄いな〜」と評価もしない。

 ここから言えること。「前例がない」とか「世の中厳しい」とか偉そうに説教している人は、それほど真剣に相手のことを考えている訳ではないということだ。先に、忠告、アドバイスの背景として「応援したい」「傷ついて欲しくない」という優しさを上げたが、それほど深い優しさとかではないのだろう。たぶん、「優しさ」というより、「御節介」という方が近いだろう。

 だが、その種の人たちのアドバイスや忠告を無視すると、

 ときには相手を怒らせてしまうことがある。「こんなに心配しているのに!」「だったら勝手にしろ」「親切で言っているのに」大きなお世話であれこれ言っておいて、なぜ怒り出すのか? もちろん、いろんなタイプはいる。本当に真剣に忠告している人もいるだろう。でも、その人は経験がないこと、自分の知らない世界のことを想像で語っているだけ。また、それを成し遂げても、先の先輩のように「よかったじゃん」程度かもしれない。

 では、その種のお節介な人たちは、どんな人に御節介するのか? 考えたい。これは以前の記事で書いた。Facebookでいえばプライベートが分かり、がんばっている人。応援したくなる人に対して、多くの人は声援を送る。それが次第に、御節介になり、忠告になり、説教になる。

 僕も子供の頃。誰だか分からないオヤジに説教された。ま、先方は僕のことを知っているんだろうが、正月にしか会わない親戚を僕は覚えてはいない。先方も幼い頃から知っている子供だから、あれこれいう。自分が知らない世界のことを想像だけで断定して説教する。そんな大人が昔から嫌いだった。が、大人になってからも、映画界で仕事をするようになってからも、その種の大人はいた。

 何かに挑戦しようとすると、

 相談もしていないのに、あれこれ忠告して来る。「お前のためだと思っていうんだけどな〜」と言い出す。「だったら言わなくてもいい!」と拒否したこともある。そうすると「親切で言ってんだぞー!」と怒り出した。これは何なのか? たぶん、人の習性と思えて来た。

 人は「自分が役立つ存在」と思いたい。よく知った人が困っていると助けたくなる。これはいいこと。優しさだ。でも、自分が役立つ存在だと思いたいので、自分の経験にないこと。知識のないことまで努力して助けようとする。気持ちは麗しいが、実際は役に立たない。それどころか、やる気を削いだり、邪魔していることになる。相手が拒否すると「親切で言っているのに!」と怒り出す。理由は自分の好意を否定されるからだ。

 ただ、そのメカニズムで、誰も悪意がある人がいないのに、もめ事になりトラブるが起こる。憎しみ合いことにもなる。そもそも、出来もしないことを忠告したり、説教したりする方が悪いのだが、そのような人はとても多い。そして悪意はなく、「優しさ」を背景とした行動。「自分は人の邪魔をしている。大きなお世話だ」とは気付きにくい。しかし、それが人なのだ。


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 では、どーすれば問題が起きないか? 

 僕の場合でいうと、高校時代に「将来、映画監督になる!」なんて言い出さなければよかったのだ。そうすれば大人たちが「世の中甘くないぞ!」とか「才能あるのか?」とか説教を始めなかった。まじめに受験勉強をし、大学に進学していれば、大人たちは応援し、喜んでくれたのだ。

 映画界で仕事をしてからも「自分で製作費を集めて監督する」なんて言い出さずに、当時やっていた助監督やADの仕事を続け、チャンスが来たときに監督をすればよかったのだ。そうすれば、あれこれ言う人はなく、監督デビューしたときは、祝ってくれたはずだ。

 つまり、人がやらないことをやると、大人たちは、あれこれ言って邪魔をする。何なのか? たぶん、それが日本の社会の本質だろう。 まわりの人がしないこと。「映画監督になりたい」とか「自分で製作費を集める」とか、人がしないことをすると、何ら迷惑がかかる訳でもないのに、親でも先輩でもない人たちまで、あれこれ意見し、止めようとする。

 なぜか? 心情は先ほど説明した通りに「優しさ」から来ているが、非常にネガティブな行動であり、新しい何かをしようとする人を阻害し、潰そうとするものだ。別のいい方でいうと、これが「村社会」ではないか? 人と違うことをする。新しいことを始めると、毛嫌いし、排除しようとする。一見「親切」からスタートしたように見える「お節介」というのは、村社会の安定を維持するためのメカニズムなのではないか?

 実際、アメリカ留学中にも、

 同じ発言をしたことがある。「将来は映画監督になりたい」そのときの反応は日本とは180度違うものだった。「凄い」「いいぞ」「がんばれ」「応援する」「ハリウッドの友人を紹介するよ」誰もが前向き、忠告したり、説教する人は誰もいなかった。そのことから、日本のそれは、非常に日本的な背景から来るものと痛感した。

 同時にそれは村という社会を守るための、力にもなっていることも感じる。村の中で勝手なことを始めると、いろんな弊害が出る。だから、始める前に止める。新しいことを始める奴がいると、それを真似たり、あとに続いたりする人も出て来る。村の調和が乱れる。だから、潰す。そういうメカニズムではないか? それを個人個人は「村の調和のため」とは思わず、「本人のため」と思い説教する。見事な言い換えであるが、危険な発想だ。

 オウム真理教で、教団の邪魔になる者を

 「殺す」とは言わず「ポワする」と言い換えて実際は殺す。それも命を奪うのではなく、相手を解放するとか、功徳を積ますという発想に置き換えてしまう。だから、悪いことをしている訳ではないという考え方。でも、実際は都合の悪い人間を排除するということ。これに似たようなもの感じる。

 では、日本人はなぜ、意識せずに、そんなことをするのか? ひとつは江戸時代から村社会の習慣。それが今も日本人の中で生きている。さらに学校教育。同じ制服を着て、同じ髪型。同じ学科を勉強して、同じように良い成績を求める。そんな学校生活のあとは、サラリーマン生活。同じようなスーツを着て。似たような髪型で、スタンドプレーはしない。目立ってはいけないという社会生活の中で、新しいこと。前例がないことをしてはいけないという意識を持っているからだろう。

 その結果、彼らは新しいこと&前例のないことをする者がいると、あれこれ忠告や説教をして、その行動を止め、潰し、排除しようとするのではないか? 本来の目的である「村社会の維持」を意識せずに、本人のために忠告していると思い込む。それが背景であり、メカニズムだと思える。とすると、なぜ、日本の教育はそんな形となったのか?気になる。もしかすると、そんな閉鎖的な日本人を育てるのが目的のひとつではないだろうか?

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 誰が指示しなくても、自発的に新しいことをする人を淘汰する村社会システム。その背景には教育がある。では、その教育はどのようなものか? 上から与えれたことを疑わず、ひたすらその作業をするというのが日本の教育である。暗記中心。考える力はあまり要求されない。つまり、与えられたことを高い精度でこなす優秀なサラリーマンを育成するものだ。その成果が上がり、日本は経済大国になったが、与えられたことしか出来ないので、激動の時代になると、次々にアジアの国々に追い抜かれてしまったのだ。

 つまり、勉強をしていい成績を取る。

 そしていい大学に行き、いい会社に就職する。それが日本という村社会で推奨された生き方だっだ。その中で人とは違う生き方をする。自分なりの夢を追い掛ける者が現れると、昔の村社会のように秩序を乱す、間違っているという意識が生まれ、あれこれ忠告し、止めようとする者が出て来る。「役者や歌手になるなんてダメだ。真面目に勉強して会社員になれ」結局、そう言いたい訳だ。

 その意味するところは「国が決めた教育通りの生き方をしろ」「優秀なサラリーマンを目指せ」ということなのだろう。軍国主義時代と同じ。「お国のために死ね」それが尊いこと。「戦争に行って死ぬ」それが国が国民に求めたこと。でも、国民はそれを信じ、それこそが日本人の姿だと思い「戦争反対」とかいうと「非国民」といって、憲兵が来る前に国民が自らの手でその人を糾弾した。それと同じ構図ではないだろうか?

 別の角度から考えると分かりやすい。

 例えば「俳優になる!」ではなく「早稲田大学を受験する!」と言う。かなり入学がむずかしい大学だ。その子の学力を知る人が聞けば「無理じゃないの?」というかもしれないが、多くの大人は「そうか、がんばれ!」という。なぜ、反対しないのか? 近所に芸能人がいないので、芸能界がよく分からないというのと同じで、近所に早稲田出身の人がたくさんいる訳ではない。

 これも先と背景が同じ。「映画界の大変さを知らない」=「早稲田に合格する大変さを知らない」なのに一方は「やめろ」といい、一方は「がんばれ」と応援する。なぜか? 大学に進学することは村社会のあり方に沿っているからだろう。俳優になる。歌手になる。映画監督になるという行為は、教育が求めるものではない。求められるのは、与えられた勉強して、いい大学に行き、いい会社に入る。それに逆らった生き方をしようとすると、誰が命令する訳でもないのに、よってたかって否定し、従来の生き方をするように指導するのだ。

 ここまで来ると、もうひとつの答えを追加できる。

「なぜ、夢を語ると多くの人が否定しにくるのか?」同じ高校生だとする。「俺は俳優になりたい」と夢を語ると、同世代はこう思う。「僕だって夢はある。でも、現実は厳しい。だから、真面目に勉強している。スキでやっている訳じゃない。なのに、こいつは何、気楽なことを言ってんだ? 現実を知らないんじゃないか?一言言ってやれ」と思うのだ。

 そして大人は「俺たちだって嫌々、勉強して大学に行って、今は会社員やってる。好き勝手できない。それが現実だ。この子はそれが分かってない。勉強をしたくないから、俳優になるなんて言っているんだ。現実逃避だ。これは説教してやらないと、将来のためにも良くない」と考える。

 だから、俳優だ。歌手だ。映画監督だと言われると腹が立つ。世の中嘗めていると思う。「その種のことが出来るのは、もの凄い才能のある特別な人だ。その辺の連中ができることじゃない」と思い込んでいる。夢を語られるとイラつく。「俺だって我慢して生きてんだよ。働いてんだよ!」と感じる。それを押さえて「世間知らずな、こいつのためだ...」「これは優しさだ」と思って忠告。説教するのだろう。つまり、

 「世の中は真面目に勉強して、少しでもいい大学に行き、少しでもいい会社に入り、嫌な仕事も我慢して働く。それが安定に繋がる。それが大人の考え方。人の生き方なのだ」

 と考えているのだ。だが、彼らは間違っている。それは国の政策であり、教育方針でしかない。「大人の考え方」や「人の生き方」ではない。考え方はいろいろあるし、生き方も多種多様。国の政策を全面的に受け入れているだけなのだ。それを「大人」「人の生き方」と考え、絶対的なものだと信じ込んでいる。だから、他人に「現実を見ろ」とか「甘い」とかいうのである。


 やはり、軍国主義と同じ。

 戦争反対という人を「非国民」と批判する。「戦地で玉砕することがお国のため!」と信じ込む。或は「違う」と思っても言えなかった時代。それと同じ構図なのだ。それが今の日本という国なのだと感じる。つまり、優秀なサラリーマンを育てるのが国策。それに逆らうと、多くの人が粛正。皆、同じ目標を持ち、同じ生き方をしようとする。他人と歩調を合わせる。それが多くの日本人の生き方なのだろう。何だかSF 映画のようだが、いろいろ突き詰めて行くと、それが日本の教育であり、システムであるように思える。そのベースが村社会なのだ。

 さ、ここで2つの問題が出て来た。1つは、そんな村社会の中で行きて行くにはどうすればいいか?ということ。もう一つは、そんな村社会が嫌な者はどうすればいいか?という2点である。それは次の章で考えたい。

 つづき=>http://cinemacinema.blog.so-net.ne.jp/2016-08-24-2






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