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「なぜ、大人たちは戦争に反対しなかったの?」と質問した小学生。そこから日本が見えてくる? [【再掲載】]

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僕が小学生の頃だから、1960年代後半。

こんな授業があった。東京大空襲の手記や広島原爆を経験した人の書いた本を先生が読み、クラスで話し合うという授業があった。子供心にも戦争の悲惨さを強く感じ、いろいろと考える時間であった。そんなとき、生徒の1人が質問した。

「先生! 戦争は多くの人が死んでしまう、いけないことが分かっているのに、なぜ、大人は戦争に反対しなかったのですか?」

確かにそうだ。授業で先生は何度も「戦争をやってはいけません」と話していた。なのに、当時の大人はなぜ、そんなことが分からなかったのか? と子供心にも思えた。先生は戦中に青春時代を過ごした人で、戦争体験者だったが、答えに困っていた。

「そーねー。それが分からない人たちも大勢いて、反対できなくなったのよ」

意味が分からない。先の生徒がさらに訊く「だって戦争はいけないことなんでしょう?  いけないことをいけないと言えないのはおかしいですぅ!」」

その後、映画やドラマで当時の日本が

どんな状況だったか?を知る。軍部が暴走。日本が戦争に進み、国民が反対すれば「非国民」と呼ばれて逮捕されたこと。だが、それでも戦争中の国民の心理というのは、もう一息分からなかった。いかにして国民はそんな状態に至ったのか?

それを実感したのが高校時代。僕は大阪の進学校に通い。暗黒の時代(?)を送っていた。中学時代まで成績がよかったのだが、高校でアメリカ映画をバンバン見ていて勉強をしなくなった。参考書を読むより、「スクリーン」や「キネマ旬報」を繰り返し読む。そして何より、なぜ、勉強しなければならないか?に疑問を持っていた。

中学、高校と6年も英語を勉強するのに会話ができない! 数学では、連立方程式、集合、微分積分。そんなことが将来役に立つのか? 大好きだった日本史も、何年にどんな事件があり、それに関わったのは誰で、何年に交付された法律がこれ!と事実関係を覚えるだけのもの。古文に漢文。ほとんどが大人になってから役立つものではなかった。

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が、僕以外の同級生たちは無駄だと思っても

与えられたことを真剣にやり、テストでいい成績を取るのに必死。そして、成績のいい者を一目置き、悪い者を蔑む。個別面談のときに、担任に訊いた。

「なぜ、役に立たない勉強をするのですか? もっと自分たちの将来のプラスになる勉強はできないのですか?」

当時から僕はアメリカ留学を考えており、英語はしっかり勉強したかったのだが、中学のときにあったLL教室の授業もなくなり、文法と和訳の勉強ばかり。大学を卒業した人と話しても、英会話はできない人がほとんど。英語教育は機能していないと痛感。すると担任は不満げにこういった。

 「お前、そんなに勉強が嫌か! 文句ばかりいうて、要は楽したいだけとちゃうんか? 努力するのが嫌なだけやろ?」

驚いた。教師というのは生徒を教え、育てることが仕事。なのに質問には答えず、「楽したいだけ」と決めつけて怒り出す。どういう人なんだ? しかし、担任だけでなかった。

勉強する意味を感じられない僕の成績が、どんどん下がる。クラスメートたちから「あいつは落ち零れやからの〜」と言われるようになった。「だったら、お前らは何のために勉強している?」と訊いても「大学受験のためや〜」としか答えられない。「連立方程式が将来役に立つのか?」と訊いても「受験勉強って、そんなもんやろ?」としか答えない。教師も生徒もおかしい!

将来、数学者になる、古文の研究をするのなら分かるが、

ほとんどの生徒はそれ以外の仕事に就くだろう。なのに、6年も間、将来役に立たない勉強を続けている。役に立たないと分かっていても、率先して勉強し、少しでもいい成績を取ることに必死となり、駄目な生徒を「落ち零れ」と蔑む。受験戦争と呼ばれた時代のことだ。

「ん? 何かこういう構図。どこかであったな?」

そうだ、小学校での授業だ。無意味で、国民に何のメリットがないことを知りながら、誰も「戦争反対!」と言わない。反対すれば「非国民」と批判される。どう考えてもおかしいのに、誰も疑問を持たない。同じ構図ではないか? 「受験戦争」と「戦争」が奇しくもダブった。そしてあのとき分からなかった、戦時中の状況を痛感する。

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たぶん高校時代も、僕と同じように役に立たない勉強に矛盾を感じていた生徒もいるだろう。でも、言い出せなかったのではないか? 言っても、先の担任と同じように「楽したいだけだろう? 努力するのが嫌なんだろう!」と批判されるだけ。だから、黙って、嫌々勉強する。戦時中も「戦争なんておかしい。国民が苦しむだけ」といえない。「非国民!」と怒鳴られるだけ。だから、徴兵された兵隊を笑顔で戦地に送り出す。

この2つの構図。同じ方法論で形成されたことも後々分かった。

両方ともに、国策である。戦争は、日本がアジアに進出するため(当時はアジアを解放するためとの主張)。受験戦争は経済復興のために優秀なサラリーマンを大量に育生するため。そのための選別システムが受験だった。

国はそれぞれを推進するために、制度を作り、年月をかけて、キャンペーンを続け、国民を取り込もうとした。ここまでは分かる。が、驚くことは、その制度に国民は見事なくらいに乗っかってしまい、考えれば「無意味」と思える「戦争」も「受験戦争」も盲目に支持してしまったのだ。

それに反対する人は「非国民」「落ち零れ」と呼ばれ蔑まれる環境が出来上がる。だから「無意味」と分かっていても、誰も「反対」とは言わない。それどころか、国民が一丸となって、突き進み、成果を上げてしまったのだ。

そして、いずれも一部の人だけが経済的な成功で潤うだけ。

その他の大多数は踏みつけられ、傷つきながら働くことになる。具体的に言えば、戦争は国民を兵士にして戦い、財閥が大儲けした。受験戦争は、優秀なサラリーマンを労働力にして大企業が大儲け。

「集団的自衛権」が「日本を戦争する国にする法案だ」と反対が続出したとき、こんな声を多く聞いた。

「日本が戦争になるなんてあり得ない! 考え過ぎじゃないの?」

小学生時代のクラスメートと同じだ。「戦争はいけないことです。やってはいけない。そんなことも分からない大人はいません」と思うから、あり得ないというだろう。

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だが、そういっていた小学生たちは高校生になり、受験戦争に巻き込まれ、役にも立たない勉強を受け入れ、疑問を持たない。勉強をしない子たちを「落ち零れ」と批判するようになり、企業が求める能力を判別するための受験に振り回されたのだ。親たちは子供たちを受験戦争に送り込む。それが正しいことだと信じて。我が子を戦地に送り出した親たちと同じように。

もう一度戦争をしたい人たちがいたならば、年月をかけ、制度を作り、キャンペーンを行なえば、簡単に国民は乗せられて、再び戦争を始めるのではないか? 国が推進する制度というのは恐ろしい。国民は簡単に乗せられてしまう。本当に子供たちのためになることって何だろう? 親は何をすべきなのか? そんなことを考えてしまう。2015−12

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