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本日の線量! [アクセス数300超え記事紹介]

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[昨年アクセス数300超え記事紹介]

2015年8月2日

中野区・外

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中野区・中



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Facebookの闇。心傷ついた人たちが癒す場所? [アクセス数300超え記事紹介]

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[昨年アクセス数300超え記事紹介]


数週間に1回。「友達申請する方へのお願い」という記事をアップしている。というのも、昨年の夏頃にFacebookで頭の痛い思いを延々としたからだ。プライベートなことにまで、批判、注意、暴言のコメントが毎日のように書き込まれたからだ。最初は親切心だったのだろうが、次第にエスカレート。大きなお世話になっていった。

以前にも書いたが、会ったこともない人。自分の顔写真も載せてない。職業も年齢も分からない。そんな人があれこれと他人に注意したり、説教したりする資格はない。覆面を被った男が誰にかアドバイスするのと同じ。真剣に聞こうとは思わない。だが、注意記事を出してから1年。すっかりその手の記事はなくなった。ほとんどの人に悪気はなく、自分が暴走していることに気づいてくれたのだ。

また、もう一つの困ったちゃんタイプ。記事への批判を延々と書き込む人もほとんどなくなった。これは原発問題やイスラム国事件の記事をアップしたときに多かった。ただ、僕はFacebook上で議論するつもりはない。自分が絶対に正しいとは思っていないし、記事を読み「違う!」と思う人もいると考えている。それでも「ああ、そういう考えもあるのか...」と感じてもらえれば十分。いちいち反論してもらう必要はない。

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にも関わらず「あなたは何も分かってない!」とか「小泉は許せない!」とか反論というより誹謗中傷といえる感情的なコメントがときどき書き込まれた。それも「即、削除する」と宣言。「自分の意見は自分のFacebookで!」と何度も呼びかけた。その甲斐あって、その種のコメントもなくなった。ただ、賛同のコメントも激減。「この監督はいろいろうるさいから、コメントを書くのはやめよう!」と思われたのだろう。少し寂しいが、その方がまだ助かる。

しかし、最近は新手が出て来た。「反論コメント禁止」と言ったせいなのか? 僕の記事をシェアした上で、自分のFacebook上であれこれ批判する人がいる。確かに反論コメントを書き込んではいない。僕が呼びかけた通りに自身のFacebookで持論を書いているので文句は言えない。が、その反論がやはり重箱の隅を突くものであったり。無い物ねだりの批判だったりする。

要は「お前は分かってないな?」といいたいようだ。そんなに気にいらないなら「友達」から削除すればいいのに、そうはしない。同時に「監督の言う通りに私はコメント欄に批判は書いていませんよ。それでもあなたは友達から削除しますか? 勝手ですね?」といわんがばかり。まるで「セブン」の犯人のようだ。

また、シェアしないまでも、あれこれ僕の名前を上げて批判する記事もときどき流れて来る。「友達」なのでタイムラインを見ていれば目にはいる。それを意図して書いているのだろう。一度か二度会ったであろう人もいて、そのときに僕が失礼なことをしてしまったのか? 何か恨みがあるかのようにネチネチと批判や陰口を綴っている。僕の名前を上げずに、あきらかに誰だか分かるように書いている人もいる。

僕のような有名でない監督でも、映画監督ということで絡んで来るのだろう。どんな人たちなのか?と逆に興味を持ち、そんな人のタイムラインを読んでみたら、僕の記事をほぼ毎日読んでいるようだ。どこかで突っ込んでやろう。批判してやろうとあら探ししている。その記事を読み。「いいね」を押している人もいて、何だか昔ながらの村社会がFacebookにも存続されているように思える。

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ご近所で、何か嫌なことがあったとき、その相手のことを恨んだ主婦が、顔を合わせると笑顔で対応するのに、陰では他の人にあることないこと。悪口を言っている。どこの街にもある。そんな構図だと思える。ああ、気持ち悪い〜。ほんと、そんな負のエネルギーで人を攻撃することを生き甲斐(?)にしているようなネット住人もいるのだ。

そんな人のタイムラインを読んでいると、他人への批判と同時に、自分がいかに優れているか?もアピールしていることが多い。実社会では人から評価されないことが多いのだろう。神経質で内気、現実の中では生き辛い。辛い思いをすることが多い。だから顔の見えない。正体の分からないネットという世界で、覆面をかぶり、他人を批判して、自分の優越をアピールして自尊心を満足させているのだと思える。いじめられた子供が動物や虫を虐待するのと同じ構図。

実は悲しくも哀れな人たちなのだ。が、その種の人たちへの対応は難しい。近づくと毎日コメントの嵐となり「友達」から削除すると、とんでもない騒ぎを起こす可能性がある。以前もメッセージの返事をしないでいたら、Twitterに僕の実名を書き「返事を拒否された!」と流し回った人もいた。

病気とは言わないまでも、その種の人たちはちょっと常識を逸していることがある。2500人近くも「友達」がいると、そんな人たちも出て来る。Facebookは便利なメディアでもあるが、そんな心傷ついた悲しい人たちが歪んだ形で心を癒す道具でもあるようだ。

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「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」ー「平和のために戦う!」と人類を危機に陥れる悪役が誰かみたい? [アクセス数300超え記事紹介]

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[昨年アクセス数300超え記事紹介]

今回の敵はロボット軍団。何だか「ターミネーター」とダブって来て、敵のボスはスカイネット?とか思ってしまうが、今回ももの凄い製作費をかけて、オールスターヒーローズで見せる。日本でいうと、仮面ライダー、キカイダー、009、009の1、イナズマンが集まって戦う映画のようなものか?

今回、一番興味深かったのは敵のボスともいえるブライキング・ボスのようなロボットがいう台詞。これまで悪役は「世界を支配する!」とか「世界を滅ぼす」とかいっていたのに、このボスは「平和のために戦う」といって、人類を絶滅しようとがんばってしまう。

ここが非常に今日的。今、どこかの国もそうだが、「戦争したい!」と言わずに「平和のため」とか「積極的平和主義」とかいって戦争に参加しようとしている。そんなトレンド(?)がこの映画でも表現されている。そう、一番危ないのは「平和のため」という人だ!いうのが今回のテーマかな?

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自分の価値観を押し付ける人たち。なぜ、人はそれぞれ違うことを認めないのか? [アクセス数300超え記事紹介]

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映画撮影を終えると、お世話になった方々に挨拶まわりをする。本来、それは監督の仕事ではなく、製作担当がするのだが、僕の場合はスタッフが集まる前に、1人でロケ地に乗り込み。いろんな人を訪ね、応援を求める。そんなことを1−2年続ける。だから、本来、製作担当が行くべき挨拶まわりに僕も同行する。感謝の気持ちと無事撮影終了を伝えるためだ。ただ、スタッフから言われる。

「監督は早く東京に戻り、編集作業を始めるべき。そして少しでも早く完成させて、応援してもらった人たちに見てもらうことこそが大事。最初は監督と出会ったことで、応援してくれた方々でも、その後、製作担当に引き継がれた仕事。それを監督が何十人もの人を何日もかけて訪ねるのはどうか? 建築業でも、ビルを建てたからと、社長が関係者を訪ね挨拶をしてまわったりはしない。それは現場担当がやるじゃないですか?」

確かに、その通りだ。が、僕は1人1人の顔も名前を知っているし、何度もごちそうになったり、いろんなことを教えてもらったりしたので、感謝の気持ちを伝えたくて、お礼参り(?)をしているのだ。が、いくつもの町で映画を作りをすると、あれ?と思うことも出て来る。

ある街での撮影後、いつものように地元の方と製作担当と、僕の3人でお礼参りツアーをした。その中で、ある弁当工場を訪ねることになる。そこは大量のお弁当をもの凄く安い値段で提供してくれた。お礼を言わなければならない。

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そのとき地元の方はいった。「俳優とスタッフ全員でお礼に伺いましょう。監督と製作担当さんだけでは失礼ですよ」ん?ちょっと待ってください。弁当を扱うのは製作担当。だから、本来は彼のみが挨拶に行く。僕も本来なら行かない。が、その工場の社長とは何度かお会いしているし、感謝の気持ちを伝えたかった。なのに、地元の方はスタッフ&キャスト総出で行ってほしいという。

「俳優もスタッフも弁当を食べたんだから、お礼に行くのは当たり前だろ!」

何でそうなるのだろう? まず、映画の世界では、俳優&スタッフに弁当を出すのは製作サイドとして当然のこと。それが映画界の決まり。ただ、製作担当者としては、超破格の値段にしてもらえたことで、製作費を節約大助かりだった。だから、製作担当者がお礼に行く。僕も感謝を伝える。

しかし、その地元の方の考えはこうだ。何かをごちそうになったら本人がお礼をいうべきだ。という一般的な発想なのだ。確かに、地元の家に呼ばれて、夕飯をごちそうになれば、呼ばれた客はお礼をいうのが当然。

ただ、映画撮影にその構図は当てはまらない。例えるなら、農家がある社員食堂に超破格で野菜を卸した。その食堂で社員が食事をした。お礼に行くのは社員食堂の担当者だ。食事をした社員はいつもと同じにご飯を食べただけ。なのに、社員も全員、お礼に行けというのと同じになる。

そして、もし、それを実行すれば、バスをチャーターして、1日スケジュールを空けて、皆でお弁当工場に行かねばならない。宿泊費も1日分プラス。当然、俳優事務所はクレームを付けるだろう。

「なぜ、うちの俳優に挨拶まわりをさせるのか! それはスタッフの仕事だろ?」

弁当を出すのは製作サイドの義務。演技以外のことをさせるなら、追加ギャラを寄越せというところも出てくる。結果、全員で行くことで、せっかく破格の値段にしてもらったのに、相当の出費をせねばならない。だったら、通常の業者から弁当を買った方が安上がり。

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でも、その地元の人は映画界の事情が分からない。できれば、先の社員食堂の構図を想像してくれればいいが、スタッフもキャストも皆、撮影隊のメンバーとひとくくりにしているので、全員でお礼をいいに行ってほしいと主張するのだ。事情を説明すると、無理であることは理解してくれた。「じゃあ、監督と製作さんだけでいいよ」といい、彼は弁当工場の社長に平謝りしていた。

挨拶まわりを全て終えて、帰京しても、あとからクレームが来ることがある。「撮影終了から1ヶ月。なぜ、挨拶に来ない。あれだけ応援したのに失礼な!」と言われたこともある。なんで1ヶ月? と思ったのだが、その人の業界では1ヶ月後にあらためてお礼をするのが習わしなのだそうだ。

だが、こちらは編集の真っ最中。その上、製作担当はすでにプロジェクトを離れて、別の仕事をしている。おまけに、別の業界のしきたりを映画作りに押しつけられても困る。こちらは撮影終了。完成。公開。を区切りに挨拶に行っているのだ。もちろん、先方には先方の習わしがあるのだが、それを映画作りにも当てはめて、怒られても困る。

宗教の違いで戦争をする国がある。同じ反原発を訴えながら、些細な違いで互いを批判しあう人たちがいる。推進派を攻撃するなら分かるが、反原発を主張する同士が中傷し合う。どの分野も自分の価値観を絶対だと信じ、それを押し付けようとする。方法論が違えば、自分なりのやり方で進めばいい。違う相手を否定する必要はない。自分の価値観を相手に押し付ける必要はないのだ。

このブログでも、自分と意見が違うからと長々と批判コメントして来る人がいる。が、それは自分のブログで書けばいいこと。なぜ、人は他人に意見や価値観を押し付けるのか? そんなことをときどき考えてしまう。


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【「永遠の0」をようやく見たけど....作者の思惑を感じて首を捻る】 [アクセス数300超え記事紹介]

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(昨夜「永遠の0」がテレビ放映されたらしいので、以前に書いた僕の感想を再掲載)

 劇場でも大ヒット。多くの観客が涙を流したという映画「永遠の0」しかし、同時に批判も多く、公開後に原作者がとんでも発言を連発したことで、さらなる批判が噴出。「どんな映画なんだ?」と興味を持って見た。

 最初に断っておくが、僕は戦争映画は好きではない。「男たちの大和」もどこがウケたのか分からない。そもそもアメリカ映画は「悪の帝国ドイツを倒す! アメリカは正義だ!」という単純化した構図で描くことが多いし。日本映画はなぜか?「私たちは犠牲者だ!」という形で描く。加害者であることを描く作品は少ない。もちろん、その両方を描かないと不公平だなんてことは言わない。映画は全てを描く必要がないからだ。

 ただ、戦争ということを考えたとき。一部だけを描くことで、特定の思いを強調、特別なメッセージが生まれてしまうのも事実(それを双方から描いたイーストウッドは画期的!)特にアメリカ映画は偏った描き方が強い。「トップガン」は戦争映画ではないが、事故で友人が死ぬと、主人公は悲しむ。が、敵(名前は出て来ないが明らかにソ連)の戦闘機を撃ち落とし撃退すると、大喜びする。

 当然、ソ連のパイロットは死んでおり、彼にも友人も家族もいて、悲しんでいるはずなのに、そちらは描かない。アメリカの映画館で見たが、観客は大喜び。敵の戦闘機が爆発すると拍手が起きた。最近のアメリカ映画はそこまで酷くはないが、基本、あの国の発想は自分が正義。他国の人がいくら死んでも平気という面がある。

 その逆が日本だ。太平洋戦争では多くの人が死んでおり、戦争を始めたのは(アメリカに嵌められたとはいえ)日本側であるのに、なぜか「我々は犠牲者だ...」と描くことが多い。それによって「戦争はいけない」というテーマに繋げているので、その構図がいけないとは言わない。が、「永遠の0」は少し違う。監督がどこまでの思いがあり、原作をどこまで踏襲しているかは分からないが、基本、特攻隊を賛美している作品だと思える。

 主人公の孫がコンパで議論するシーンにそれがよく現れている。「特攻隊は自爆テロとは違う。自爆テロは人を傷つけるのを目的にしているが、特攻は兵器である戦艦を狙ったものであり、全然違う」と力説する。ここがたぶん、作家のいいたいところだと思えるのだが、では、戦艦の乗組員はどうなるのだ? 戦艦だけ沈めて、乗員は傷つけないことが特攻の目的だったのだろうか?

 もちろん、日本を守るために死んで行った人たちを悼むことは大切だ。でも、それを賛美するのは違うと思える。さらに、当時は「お国ために死ぬ」という今では共感しにくい思想だったのを「生きて帰る。家族の元に帰る」という現代的な発想の主人公を配置、共感を呼ぶ物語にすることで、特攻隊を美化しようとする作家の思惑が感じられる。

 もし、「お国のために」といって死んだなら、観客は「バカだな」と思うところを「生きて帰る」と言い続けた主人公が死ぬのなら「こんな人が特攻隊にもいたんだ。すばらしい!」という思いを持つのではないか? 

 しかし、ラストで主人公が笑顔で特攻するアメリカの戦艦にも、多くの乗務員がいる。その人たちも「生きて帰る。家族のもとへ帰る」と思っている訳で、その戦艦にラスト、笑顔で突っ込んで行く主人公は何なのか? 家族のもとへ帰りたい主人公が、敵とはいえ、家族の元に帰れなくしてしまう攻撃をする。
 もし、主人公がそう考えていたなら、笑顔で特攻することはできない。では、あの笑顔は何なのか? 何だかアメリカ映画の「トップガン」と同じで、仲間が死ぬと嘆くが、敵が死ぬのは問題視していないように思える。

 そして物語自体が「少年H」の原作が批判されたのと同じように、現代から見て都合のいい解釈して書いた物語ではないか?と思える。(「少年H」は作者の自伝といいながら、その後の歴史を知らないと言えないはずのことを主人公が発言する等、作為的な記述が多く。批判が続出した)
 特別な思いのある作家が、その「思い」が多くの人にも伝わるように、特別な設定を持ち込み、涙と感動で見せる。まさに、コンパのシーンでの台詞を全編を通じて描いているのではないか? 原作者がツイートでこんなことを書いていた。

「百田尚樹@hyakutanaoki すごくいいことを思いついた!もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す。 そして他国の軍隊の前に立ち、『こっちには9条があるぞ!立ち去れ!』と叫んでもらう。 もし、9条の威力が本物なら、そこで戦争は終わる。世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる」

 これは皮肉であり。9条があっても攻められたら終わり。やはり軍隊が必要と主張しているのだろう。その言葉の背景にあるもの。それがまさに「永遠の0」という物語だと思える。

 涙と感動を織り交ぜて作ってあるので、表面だけ見ると美しく悲しい物語だが、「特攻隊は素晴らしい!」という思い、その背景には「軍隊は必要」「家族を守る戦争は美しい」というような思いが込められた映画であり、「反戦」がテーマではないように思えた...。


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国会前デモ。警官が大量動員されている理由。 [アクセス数300超え記事紹介]

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  [昨年アクセス数300超え記事紹介]

 国会前デモ。警官が大量動員されている理由?

 反原発デモでの官邸前のような写真を、撮られたくないから。

 歩道に人を押し込めて、列を細く長くすることで

 集まった人の数を少なく見せたい。

 「人がいっぱいなので、これ以上前には行けません」

 といって歩道をブロックするのも同じ理由。

 こんな写真撮られたら、

 「おーー安保法案にこんな多くの人が反対しているんだ〜」

 と日本中の人に思われてしまい、

 世論によってさらに追いつめられるから。

 だよね?

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300アクセスを超えた記事を再掲載PART2 [アクセス数300超え記事紹介]

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 新年スペシャル?!第二弾

 2013年に公開された映画「朝日のあたる家」

 このブログは

 その映画館公開情報や製作秘話。

 或いは、映画界の話。監督業の話。
 
 さらには僕が感じたこと。考えていることなどなど
 
 このブログにいろんな記事を掲載してきた。

 その中で、9月ー12月で

 300アクセスを超えた記事を再掲載したところ、かなり評判がよかった。

 「あーーこの記事読んだ読んだ!」

 と思ってもらったり

 「へー何で、この記事が人気だったんだろう?」

 とか、思って読んでもらえたようで、かなりのアクセ数があった。

 そこで第二弾、前回の続きを1時間ごとに12本ほどアップして行くので、ぜひ。

 三賀日、最後のスペシャルです。

 よろしく!

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アンコール掲載。好評でした。 [アクセス数300超え記事紹介]

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 昨年、9月以降で300アクセスを超えた記事

 アンコールで再掲載してみた。

 その数10数本。

 好評で、どれも多くのアクセスを頂いた。

 記事を再掲載しながら、それらを読み直すと、昨年後半を振り返ることができた。

 大晦日から三賀日は仕事で忙しくしているが、

 余裕があれば、さらに人気記事をアンコール掲載してみたい。

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フランス同時テロで注意せねばならない二つのこと 次のターゲットは日本人? [アクセス数300超え記事紹介]

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【フランス同時テロで注意せねばならない二つのこと 次のターゲットは日本人?】

イスラム国の犯行だと分かり、その凄惨な結果に多くの人がFacebookでも哀悼を捧げている。129人もが殺害され悲しみが溢れているが、注意せねばならないことが2つある。この結果を見て「イスラム国許せねえ! 全員ぶち殺してやればいいんだ!」という短絡的な思いを持つのは危険だ。報復に対してはさらなる報復があるだけ。互いに犠牲者が増えるばかりだ。

それと今回は凄惨な事件だが、幸いにも日本人が犠牲になっていないので、客観的に見ることができるだろう。だから、考えてほしい。シリアに対する空爆で死んでいるのはイスラム国の兵士ばかりではなく、一般人も多く巻き込まれているということ。その犠牲に対して同情せずに、フランスで犠牲が出ると大騒ぎするのはいかがなものか?

今回の事件は痛ましく、許されないものだ。しかし、だからといって「イスラム国憎し」でさらなる空爆を続けることが解決になるのか? 今回と同じように家族を殺されたイスラム国の人間が、同じように「フランス憎し」でさらなるテロを起こすだけではないか? そうなったとき、得をするのは誰か? 武器を売る人たちであり、いくつかの特定の国だけである。彼らは今回の事件で、より武器が売れるように憎しみを煽るに違いない。それに乗ってはいけない。

もうひとつ、気をつけねばならないのは、パリの寿司屋も襲撃されているのに(海外では報道)日本ではほとんど報道されていないということ。これは何を意味するか? 今回の日本でも報道は「対岸の火事」的なもので、「フランス大変だなあ」という形。さらに言えば「日本には関係ないよー。海外旅行はしばらくフランス避けるし」という感覚でテレビを見ていないか?

しかし、次のターゲットは日本かもしれない。安保法案で自衛隊はアメリカ軍と一緒に戦争できるようになった。同じようにアメリカに歩調を合わせて空爆したフランスでテロが起きたのだから、同じ立ち位置の日本が狙われてもおかしくない。考えれば分かるのに、マスコミは「フランス大変です」という報道。だが、ここで寿司屋も狙われたと伝えればどうなるか?

リアリティが生まれる。「日本が絡んでいた!」「次は東京ではないか?」「海外の日本人が狙われるのではないか?」そんな想像してしまう。そうなれば安保法案はやはり間違っていたのでは?と考える。だからこそ、寿司屋襲撃を報道できないのではないか? いい解釈をするなら「不安を煽らないため」とも言えるが、それで危険を回避できるわけではない。

「次は日本だ!」それをメッセージするのが寿司屋襲撃だろう。イスラム国が空爆の報復をするなら、寿司屋よりフランス料理レストランを選ぶ方が正解。それが寿司屋の理由はもう「日本」への警告でしかない。「フランス大変だね」「同情するよね」「イスラム国許せないよな」と表層的な感情で今回の事件を見てはいけない。次はこの日本人がターゲットになる可能性はとても高い。では、何をすればいいのか? それを考えることが大事なのだ。


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「朝日のあたる家」で描きたかったこと。「本当の幸せ」とは何か? [アクセス数300超え記事紹介]

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「朝日のあたる家」で描きたかったこと。「本当の幸せ」とは何か?

この映画は原発事故を題材としたので、「原発事故の怖さを痛感した!」という感想をたくさん頂いた。それによって福島の人たちのいくらかは悲しみを伝えられたと思えた。でも、もうひとつ。大切なメッセージがあった。それは「幸せのかたち」を伝えることだ。

日々暮らしていると、幸せ感より、不満ばかりを感じる。お金がほしい。都会に住みたい。車がほしい。パソコンがほしい。そんなことばかり考えてしまい、自分は幸せではない。と思いがちだ。

が、待ってほしい。「幸せ」って何だろう? 上記の不満を集約してみると「金持ちになりたい」「物がほしい」というのが幸せだと思えてくる。なぜ? お金と物なのか? 日本人はなぜ、そう考えるのか? それは太平洋戦争で、日本が圧等的な物量を誇ったアメリカという国に負けたことに起因するように思える。

貧しい日本。豊かなアメリカ。もの凄い物量を注ぎ込めた国に戦争で負けた。精神論では勝てないことを痛感した。だから、焼け野原となった街から立ち直り、幸せになるには、お金と物がたくさんあればいいと思えた。

アメリカという国の発想も影響した。アメリカンドリーム。貧しい青年が夢を掴み、富と名声を手に入れる。カーネルサンダースも70歳を過ぎてからKFCを創設し、大成功。ハリウッド映画を観ても、大金持ちになり、豪邸に住むことがサクセス・ストーリーだ。日本人も次第に、金を儲けて、物をたくさん所有することが成功者であり、幸せなのだと思い込んだ。

そうやって働き続けた日本人はバブル経済で大金持ちとなる。物は何でもある。世界一の経済大国になった。多くの人が浮かれた。アメリカを追い抜いたと有頂天になった。が、何か満たされないものがあることに気づく。求め続けたお金も物も手に入れた。なのに、幸せ感がない。満たされた気持ちにならない。

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そしてバブルは崩壊。一部の人は「再びバブルを!」と願うが、大切なものは別のところにあることを感じ始めた人も多いはずだ。何が足りなかったのか? それは戦前、日本にはどこにでもあったもの。当たり前のものだった。それを戦争に負けたとき、日本人はそれを捨てて、「お金」と「物」を選んだ。そちらの道を歩み始めたのだ。

それが、今になって、そこで捨てたものこそが「お金」より「物」より大切であることを感じだした。それこそが心を満たし、幸せを感じさせるものだった。それを映画「朝日のあたる家」で探してみた。原発事故で全てを失った家族。一時帰宅で、1時間だけ、家に戻る。大きなビニール袋一杯分だけの物を持ち帰れる。取材をすると、多くの家族が持ち帰ったのは、家族写真のアルバム、子供の卒業証書、子供が描いた絵等、お金を出しても買えないものが多かった。

そして、多くの人が、もう一度、故郷に住み。あの街で生活したい。と願った。そう、お金はまた働けば手に入る。物は買える。でも、思い出は買えない。故郷も買うことはできない。自分を育んでくれた故郷で、自分をよく知る隣人たちと、生活することが、かけがえないものであることを感じた。

友人と、同僚と、隣人と、そして子供たちとの絆こそが、何よりも大切であることを痛感する。そう、戦後、日本人が「お金」と「物」を選び、捨てたのが「絆」だった。でも、その「絆」こそが大事で、幸せを実感できるものだったのではないか? それを映画「朝日のあたる家」で描きたかった。

だから、貧しくても、物がなくても、田舎で暮らしていても、長年生活した街で、近所には友達がいて、家族と朝ご飯を食べ、それぞれが会社に行き、学校に行き、夜また、食卓を囲んで夕食を取る。そんな平凡な日々こそが、幸せではないか? それを戦後の日本人は「お金」と「物」を手に入れるために、それこそが幸せだと思って、追い求め。気づくと、家族はバラバラになり、多くの人が都会を目指して古里を捨て、バブル経済に突入して行ったように思えてならない。

本当に幸せはそこにはない。本当に幸せはごく身近にあり、「お金」では買えないもの。人と人との「絆」にあるのではないか? それを描いたのが「朝日のあたる家」である。

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