3年前の今日は、豊橋で「朝日のあたる家」のイベント! [思い出物語]
マイヒストリー① 1980〜1985 [思い出物語]
僕が監督した4作目の映画「向日葵の丘ー1983年夏」は
タイトル通りに1983年を舞台にした物語。
そこでシナリオを書く前に、年表を作ってみた。
僕自身がそのあたりで何をしていていたか?
そしてどんな映画や歌が流行っていたか? 把握するためだ。
その年表を改めて見直してみると、
いろいろと感じるところがあったので、ご紹介する。
かっこ内は当時の僕の年齢。*印以降は当時ヒットした曲や映画。
これだけでも、当時の思い出が蘇る!
写真は83年当時の私。新宿の映画館街で。
1980年(19歳)高校卒業、横浜の映画学校へ!8ミリ映画「Rock'nRoll破壊部隊」監督
*帝国の逆襲、203高地、悪霊島、駅station♫青い珊瑚礁、蜃気楼、Dオールナイト
1981年(20歳)8ミリ映画「ホラ!天使がやって来た!」監督
*Bブラザース、泥の川、連合艦隊、居酒屋兆治、レイダーズ、セーラー服と
♫風立ちぬ
1982年(21歳)8ミリ映画「パイナップルムービー」監督、LAで下見
*めぐりあい宇宙編、転校生、ロッキー3、ET、♫YesMyLove、渚のバルコニー
1983年(22歳)8ミリ映画「バイバイミルキーウェイ」監督
*♫17歳の地図、天国のキッス、ジェダイの復讐、時をかける少女、
1984年(23歳)学費のためのアルバイト!
*♫EACH TIME、回帰線、時間の国のアリス、BIT.USA、「天国にいちばん近い島」「Wの悲劇」
1985年(24歳)USC留学!
*♫卒業、天使のウインク、「BTTF」「ランボー2」「さびしんぼう」
6年前の監督作「青い青い空」懐かしい! [思い出物語]
6年前の監督作「青い青い空」懐かしい! [思い出物語]
30年前の思い出ー夢を追うと失うもの。プロを目指すと心傷付くこと。 [思い出物語]
30年ほど前。
僕は横浜に住んでいて自主映画活動をしていた。今はもう製造されていないが8ミリフィルムを使って映画作り。映画研究部のような乗りで撮影をし、自主上映会。音楽でいえばバンド活動のようなもの。プロデビューを目指して、仲間と映画を作っていた。
仲間は専門学校の学生であったり、大学生だったり。映画好きが集まり、スタッフやキャストとして参加してくれた。が、皆、素人なので、いろんなトラブルや事件が続出。それを解決しながら1ヶ月も撮影するのは、なかなか大変だった。
真夏の太陽の下での撮影は過酷。ギャラも出ない、飯や交通費は自前。おまけに僕は当時から「本気」モード。趣味の延長ではなかったので、かなり現場はハード。だから、映画ごっこと解釈「楽しそー」と参加すると大変な目に遭う。だから、核となるメンバーは「将来は映画監督になる!」という仲間で固めた。
だが、撮影が1ヶ月も続くと、
パニックになる奴も出て来る。主要メンバーの1人で大学生のA君は遅刻が増えるようになる。現場で取り乱す。何かにつけ、反対意見を出し、撮影の足を引っ張る。いやいや作業をし、注意すると激怒。あるとき、彼の不注意で10本近い撮影済みフィルムをダメにしてしまった。
製作費は僕がバイトで稼いだわずかな額しかない。
リテイクを含め、数万円が無駄になる。学生にとっては大きな打撃だ。そのために、撮影がすでに済んだ友人にも、もう一度来てもらい同じシーンの撮影をせねばならない。何日もの撮影が無駄になった...。
A君は非常に聡明な映画マニアで、自身でも将来は映画の仕事がしたいという強い思いがあった。が、映画を「観る」と「作る」では大違いということを痛感しており、心の中で葛藤があったようだ。ここで投げ出すことは、夢を諦めること。だから、辞められない。が、撮影は辛く、やること、なすことが撮影の邪魔ばかり。
そんなふうにA君のために撮影が何度も中断。スケジュールが遅れる。彼のミスのために、手伝いに来た友人たちが二度も三度も撮影に来なければならない。製作費も足りなくなった。なのにA君はどんどんやる気をなくし頻繁に遅刻。投げやりな態度を取るようになっていた。
そこで不思議な反応が起こる。
皆はもう「Aは辞めた方がいい!」というと思っていたのに、多くがこういったのだ。「太田。冷たいぞ。Aにもっと優しくしてやれよ! 友達だろう?」「可哀想じゃないか? 遅刻しても待ってやろうよ」最初、その意味が分からなかった。
僕は趣味で映画をやっているつもりはない。プロを目指す仲間と共に真剣勝負で撮影をしていた。そのことは皆、理解しているはず。なのに一部の友人たちが「みんなで仲良くやろう」といいだしたのだ。「よりよい映画」を作るより「友達」を優先すべきというのだ。
もし、これがサークル活動とか8ミリ映画同好会なら、
その通りだ。が、プロを目指すための活動である。何で??? それで分かって来た。多くの友人たちは「プロを目指す!」といいながら、実際は「みんなで楽しくやりたい!」というのが本音だったのだ。決局、A君は撮影を途中で投出し、来なくなる。
映画は完成。皆、盛り上がった。
メンバー「もう1本映画を作ろう!」といいだし、次はA君を庇ったB君が監督をした。が、またトラブルや事件が起きて撮影は難航。8ミリ映画といえども撮影は大変。今度はB君がパニックなり。撮影を投げ出してしまった。クランクアップを迎えることなく終了となる。
その後、誰も映画撮影をすることはなくなり、皆、夢を語ることはなくなり、1人故郷に帰り、2人帰り。仲間は誰もいなくなった。僕は新しい仲間と出会い、自主映画活動を続けた。2年ほどして、A君と再会する。僕の8ミリ上映会に来てくれたのだ。彼は恥ずかしそうに、こういった。
「あのときは太田が許せなかった。けど、時間が経ち、自分が甘かったことに気づいた。あのときの仲間は皆、プロを目指すといいながら、その意味を理解してなかったんだ。結局、映画ごっこで楽しくやりたいというレベル。だから、夢を諦めて故郷に帰っていった。でも、お前はまだがんばっている。本当に真剣だったんだな。本気でプロを目指してたんだな? そう思うとうれしくて、来れる義理じゃないけど来ちまったよ.......」
僕もうれしかった。というのも、
あの頃は、やたら批判されていた。「太田は何様だ?」「たかが自主映画だろ?」「手伝ってもらっているという感謝がない!」とか陰で言われていた。が、僕がするべきは、素晴らしい映画を作り、認められて、みんなでプロの世界に殴り込むこと。そう思っていた。プロを目指すということが、共通の目標だと信じていたから。
そうではなかったこと。後に知った。
でも、A君と再会し、そのことを彼が分かってくれたこと。うれしかった。もし、あれが青春ドラマなら、みんなで仲良く最後までがんばることがハッピーエンドだろう。しかし「プロを目指す」といいながら、嘘ではないが、それが単なる憧れだった友人たちもいた。「絶対にプロになる!」という者と「できれば、プロになれるといいな〜」という者では、すれ違いが起こるのは当然なのだ。A君は語る。
「あの頃はお前を恨んだけど、今は分かる。お前は間違ってなかったんだよ。今ごろ、あいつらも気づいていると思うよ。そして太田を応援しているはずさ。そしてお前なら必ずプロになれるよ....」
A君はそういってくれた。が、その後、彼と連絡が取れなくなり。今はどーしているか分からない。けど、きっとどこかで僕の映画を観てくれていると思いたい。そしてスクリーンに向かって、1人でこう呟いているだろう。
「だからいっただろ? お前はプロになれるって。嫌われても、冷たいって批判されても、大事なのは素敵な映画を作ることなんだぜ...」
そんな声が聞こえてきそう。だから、僕は前に進みたい。あのときの仲間の思いを込めて、感動を届ける映画を作るために....。
原発事故で「死の町」になった場所 [思い出物語]
写真上は、
ウクライナにある町プリピャチ。
建物はアパートやショッピングセンター。
チェルノブイリ原発から30キロにあるので
住人が全員避難。今も帰還できずにいて、
誰も住むことの出来ない
「死の町」となっている。
正月の東京の町を見て、
昨数年前に取材したこのプリピャチを思い出した。
建物の中はこんなふう。
25年の歳月で荒れ果てて廃墟となっている。
「朝日のあたる家」公式HP=> http://www.asahinoataruie.jp/
6年前の監督作「青い青い空」懐かしい! [思い出物語]
「朝日のあたる家」で描きたかったこと。「本当の幸せ」とは何か? [思い出物語]
「朝日のあたる家」で描きたかったこと。「本当の幸せ」とは何か?
この映画は原発事故を題材としたので、「原発事故の怖さを痛感した!」という感想をたくさん頂いた。それによって福島の人たちのいくらかは悲しみを伝えられたと思えた。でも、もうひとつ。大切なメッセージがあった。それは「幸せのかたち」を伝えることだ。
日々暮らしていると、幸せ感より、不満ばかりを感じる。お金がほしい。都会に住みたい。車がほしい。パソコンがほしい。そんなことばかり考えてしまい、自分は幸せではない。と思いがちだ。
が、待ってほしい。「幸せ」って何だろう? 上記の不満を集約してみると「金持ちになりたい」「物がほしい」というのが幸せだと思えてくる。なぜ? お金と物なのか? 日本人はなぜ、そう考えるのか? それは太平洋戦争で、日本が圧等的な物量を誇ったアメリカという国に負けたことに起因するように思える。
貧しい日本。豊かなアメリカ。もの凄い物量を注ぎ込めた国に戦争で負けた。精神論では勝てないことを痛感した。だから、焼け野原となった街から立ち直り、幸せになるには、お金と物がたくさんあればいいと思えた。
アメリカという国の発想も影響した。アメリカンドリーム。貧しい青年が夢を掴み、富と名声を手に入れる。カーネルサンダースも70歳を過ぎてからKFCを創設し、大成功。ハリウッド映画を観ても、大金持ちになり、豪邸に住むことがサクセス・ストーリーだ。日本人も次第に、金を儲けて、物をたくさん所有することが成功者であり、幸せなのだと思い込んだ。
そうやって働き続けた日本人はバブル経済で大金持ちとなる。物は何でもある。世界一の経済大国になった。多くの人が浮かれた。アメリカを追い抜いたと有頂天になった。が、何か満たされないものがあることに気づく。求め続けたお金も物も手に入れた。なのに、幸せ感がない。満たされた気持ちにならない。
そしてバブルは崩壊。一部の人は「再びバブルを!」と願うが、大切なものは別のところにあることを感じ始めた人も多いはずだ。何が足りなかったのか? それは戦前、日本にはどこにでもあったもの。当たり前のものだった。それを戦争に負けたとき、日本人はそれを捨てて、「お金」と「物」を選んだ。そちらの道を歩み始めたのだ。
それが、今になって、そこで捨てたものこそが「お金」より「物」より大切であることを感じだした。それこそが心を満たし、幸せを感じさせるものだった。それを映画「朝日のあたる家」で探してみた。原発事故で全てを失った家族。一時帰宅で、1時間だけ、家に戻る。大きなビニール袋一杯分だけの物を持ち帰れる。取材をすると、多くの家族が持ち帰ったのは、家族写真のアルバム、子供の卒業証書、子供が描いた絵等、お金を出しても買えないものが多かった。
そして、多くの人が、もう一度、故郷に住み。あの街で生活したい。と願った。そう、お金はまた働けば手に入る。物は買える。でも、思い出は買えない。故郷も買うことはできない。自分を育んでくれた故郷で、自分をよく知る隣人たちと、生活することが、かけがえないものであることを感じた。
友人と、同僚と、隣人と、そして子供たちとの絆こそが、何よりも大切であることを痛感する。そう、戦後、日本人が「お金」と「物」を選び、捨てたのが「絆」だった。でも、その「絆」こそが大事で、幸せを実感できるものだったのではないか? それを映画「朝日のあたる家」で描きたかった。
だから、貧しくても、物がなくても、田舎で暮らしていても、長年生活した街で、近所には友達がいて、家族と朝ご飯を食べ、それぞれが会社に行き、学校に行き、夜また、食卓を囲んで夕食を取る。そんな平凡な日々こそが、幸せではないか? それを戦後の日本人は「お金」と「物」を手に入れるために、それこそが幸せだと思って、追い求め。気づくと、家族はバラバラになり、多くの人が都会を目指して古里を捨て、バブル経済に突入して行ったように思えてならない。
本当に幸せはそこにはない。本当に幸せはごく身近にあり、「お金」では買えないもの。人と人との「絆」にあるのではないか? それを描いたのが「朝日のあたる家」である。