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真実を見抜く方法=SNSに気をつけろ。大本営発表と同じ? [再掲載]

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真実を見抜く方法=SNSに気をつけろ。大本営発表と同じ?

一番簡単のはビッグテックの反応を見ること。Facebook、Twitter、YouTubeで、個人の意見に対して注意タグが付く、削除されるという時。差別的なものや分かりやすい誹謗中傷でなければ、大抵は事実。彼らが明らかにされたくないもの。その意見を拡散したくないもの。つまり報道されない事実である場合が多い。

考えれば分かるが、差別や誹謗中傷でなければ、様々な意見を発信するのがSNSだ。それをどのような立場で制限するのか? まだ、答えが出ていない事件についても否定してくる。それは彼らが特定の方向にユーザーを導きたい、誘導したいから。正解に進まれては困る。それとは違う方向に国民が進んでこそ彼らに大きな利益をもたらす。正解は困るのだ。

逆に言えば彼らが望まない、拡散を嫌がる先にこそ、国民の利益がある。企業が儲からない未来があるということ。もう一言いうなら、企業側に大きな利益というのは、国民の犠牲による利益ということ。だから、気づかれたくない。だから誘導する。

注意タグをつける。いかにも間違った意見であるように印象操作をする。恐怖心を煽る。削除する。著名な人たちに反論させる。事実を発信する人のアカウントを止める。戦時中に日本政府が情報統制をして、大本営発票で国民の戦意高揚をしていたのと同じことを、彼らはやっている。まとめると、彼らが否定、拡散を止めようとする意見、情報こそが事実である。


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いろんな意見を聞き、情報を得て、論理性、整合性を持って考えれば真相は見てくる! [再掲載]

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いろんな意見を聞き、情報を得て、論理性、整合性を持って考えれば真相は見てくる!

原発事故の悲劇を描いた映画「朝日のあたる家」(山本太郎さんも出演)を撮ったことで、いろんな人たちと出会った。反原発に人生を賭ける人たちから、学者、ジャーナリスト、政治家、首長、元総理、評論家、経済学者、また、情報通の方々から、その後も原発以外のことも教えていただく。そんな情報を時々、記事にしてFacebookでアップしている。

と言うのも、世の中にはデマが溢れている。それらが本当なのか?検証する記事も時々書く。国民の目をそらすためのフェイクニュースが溢れる。国会議員が言ったから、学者が指摘しているから、と言うだけで信じてはいけない。友人の話でも疑った方がいい。悪意はなくても、出所に問題ある場所かもしれない。そして「私は新聞記者じゃないから、本当のことが何か?は分からないよー」と言う友人もいる。

でも、現実に照らし合わせ、他の意見と比較することで、真実に近づくことはできる。前後関係。流れ。誰が一番得をするのか?と言うミステリーで犯人を探す時の基本も大事だ。また、平和な時代に長く生きていると想像力が欠乏する。安全な国ニホンに住んでいると、アメリカ旅行の時、マクドナルドでバッグをテーブルに置いてトイレに行ったりする!日本の発想だけでなく、海外からの視点でも考えてみる。

被害者の立場に立つ。同情するだけでなく、加害者の立場にも立ってみる。どんなメリットがあるのか? リスクは何なのか? そして何より論理性、整合性。思い込みは厳禁。都市伝説に当てはめたり、作られた陰謀説に無理やり合わせて「これだ!」と考えない。想像や妄想に陥らず、論理の飛躍に注意して考えれば、真相に近づくことは可能。

原発事故もそうやってアプローチしていたら、いろんな人たちによって真実が暴露され、電力会社が隠していたこと。原子力ムラが密かに進めていたことは国民の知るところとなった。今回のコロナウイルス騒動もいろいろ裏があると思える。考えれば、いろいろ見えてくるはずだ。(2020・2)

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原発事故を描いた映画「朝日のあたる家」が映画館公開された頃−2013年@東京 [再掲載]

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 多くの映画館が2013年に

 「朝日のあたる家」の上映拒否をしたとき。

 市民の応援が始まった。

 その声を聞いて手を上げてくれた映画館がある。

 「だったら、うちでやりましょう! これは素晴らしい映画です。

 日本人が今見るべき映画です」

 それが愛知県のコロナグループであり、

 大阪のシアターセブンであり、

 横浜のジャック&ベティ。札幌のシアターキノだった。

 心ある人たちは映画館主にもいる。

 映画界もまだまだ捨てたもんじゃないこと。

 痛感した。感謝。

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ズレてしまった友人たち=古い価値観でしか世の中を見れない。誘導されても気づかない? [再掲載]

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ズレてしまった友人たち=古い価値観でしか世の中を見れない。誘導されても気づかない?

この1〜2年特に感じること。同世代の友人たちが鋭さをなくしている。凄くズレたことを堂々と発言する。いつの時代の話?ということを持ち出す。誘導されていることに全く気付いていない。論理性のないことを信じてしまう。過去の価値観で判断する。ついこの間まで、原発事故の時は電力会社やマスコミのフェイクを見破って批判していたのに、今ではコロッと騙されて、乗せられて、利用されている。自分の意識で批判しているようで、誘導されていることに気づかない。

もしかしたら、彼らが正常で僕がズレているのかも?とも考えた。が、似たような思いを綴るFacebook記事を見つけた。同じことを感じている。僕の周りだけではないようだ。同世代たちは新しい情報を積極的に取り入れようとはしていない。テレビ新聞の情報しか知らない。ネットもやるが新しい情報はスルーしているようだ。いや、アンテナに引っかからないようだ。だから、気づかない。そして過去の価値観で考えてしまう。

ただ、考えてみると僕の世代は間も無く60代。すでに50代。高校時代は50歳というともうジジイと思えていた。あの頃の親の世代が40代。教師でも30代。その辺でさえ「ズレてる」「分かってない」「バカか?」と思えていた。まさに「大人は判ってくれない」と感じていたのだが、それはやはり年齢が大きく影響していた。

若い内は感性のアンテナが鋭く、新しいもの、時代の流れを敏感に感じ取ることができる。が、歳を取ると錆び付いて、新しい動きを理解できなくなる。友人たちも30歳を過ぎた頃から「もう流行を追うのはやめた」などと言い出した。「流行を追う」のではなく「時代の流れ」を感じることが大切。それを勘違い。時代についていけなくなる自分を嘆くのではなく、時代についていく=流行を追う=そんなことはもうしない=俺は大人なのだ。という理屈でアンテナを閉じてしまう奴が増えていった。

40代になると、その兆候はさらにひどくなり、「俺は流されない」「流行を追う奴はバカだ」「新しいものをありがたがるのは愚か」と時代の新しい流れを拒否するようになって来た。そこからさらに10年。ズレてしまうのは当然であり、僕らが10代の時、バカだ。愚かだ。ズレていると思った大人を超えた年齢に同世代が到達したということなのだ。考えると、それは当然のことであり、仕方のないことかもしれない。ただ、話をしていたり、その人のFacebookきじやツイートを読んでいて、悲しい思いをするだけだ。

では、私はどうか? 偉そうなことを言いながらも、間も無く60代突入。アンテナが錆び付いていないはずがない。若い人から見ると「時代遅れのジジイ」に思えるはずだ。ただ、映画屋という仕事をしているので、どうしても時代を見つめ感じなくてはならない。これも流行を追うのではない。時代の流れを感じる。そこからズレたものを作っても観客には受け入れらない。が、他の業界は70年代。80年代の方法論で、当時の価値観であっても通用する仕事もある。そのことでアンテナが錆び付いても困らない環境にいるのだ。

その意味で倒産の心配がない公務員、大手企業に勤める人たちは時代に置き去りにされやすい。それは分かる。が、見ていると原発反対を訴えていた若者、ミュージシャン、アーティスト、芸能人等さえも大きな力に誘導されて、利用され、本質を見抜けていないことが多い。これはアンテナとは別の問題かもしれないが、時代の流れを理解できていれば誘導されたり、騙されたりしない。

思い出すのは地方に住み、昔ながらの仕事をするお年寄り。自民に誘導され「やっぱ自民でないと〜」といい「安倍さんはよく頑張っている!」と応援してしまう。高度経済成長の時代は自民でも良かったが、今は国民を食い物にして私腹を肥やす人たちの集まりに過ぎない。時代と共に政党も変わるのに、それに気づかない地方のお年寄り。その構図に似ている。

原発反対の友人たちも、もう50歳前後。安倍という巨大な敵がいなくなったことで、次は何を目標にすればいいか?という喪失感もある。今は仕方なく菅を批判しているが、誰も分かるダメさ加減。力が入らない。その力を間違った方向に向けている人がいる。そっちを叩いてどうするの? 政治中毒のネトサヨはそれが生きがいだが、心ある行動力ある人たちまでもが、大きな力に誘導され、見えていないことが多い。原発事故で日本人は目が覚め、もう騙されない。誘導されない!と思ったのが、こんな僅かな期間で戦中と同じ状態にまで、引き戻されているのに驚きと悲しみを感じる。

「いやいや、ズレているのはお前だよ!」ーと言われそうだし「最近、監督、言ってることがおかしい」と実際に言われた。が、その友人は仕事が忙しく世の中の進展をまるで把握していない。過去の常識でしか思考できていない。同時に、世の中の価値観が急激に変化している。ついていくのも大変。この100年で最大の変化が進んでいるかもしれない。

これまで「白」と言われていたものが「黒」と呼ばれるようになりそう。「その変化を見つめよう!」という気がなければ気づかない。「世の中、簡単には変わらないよ」と思っていたら置き去りされる。いずれ答えは見えてくる。今は巨大なフェイクをいかに見抜き、何を価値観として掲げるか?それを考える時期だと思えている。


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「結局、自民が圧勝だよ...」と言う多くの日本人。印象操作にかかっている!=そのカラクリを解説。 [再掲載]

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多くの日本人が印象操作にかかっている!=そのカラクリを解説。2021-10-21

この数日、衆議院選挙について数人の友達に聞いてみた。「今回もいつもと同じ結末なんじゃない・・・」という人が複数いた。「いつもと同じって?」と聞くと、自公が過半数で政権を取るということらしい。ならば、その理由は?と聞くと誰も答えられず「何となく・・」と答える。

完全に与党による印象操作にかかっている。「どうせ投票しても無駄だ」「だから棄権する」「投票しない」という思っている。友人たちは気骨のある連中だが、そんな彼らが与党の誘導にかかるのだから、多くの人が同じように思ってもおかしくないだろう。解説する。

まず、安倍=>菅政権に以降。何ら日本はよくならなかった。支持率は安倍時代よりも悪くなり、これでは勝てないと先の総裁選に菅は出なかった。つまり、衆議院選で大敗して政権を失うかも知れないという恐れがあったのだ。それほどに国民は菅政権を支持していなかった。その勢いで行けば次の衆議院選では与野党逆転という可能性もあるはず。

にも関わらず、友人たちはなぜ、「いつもと同じ結果」などというのか? まず、岸田が総理になったこと。すでに馬脚を現し、3Aの傀儡であることは暴露されている。が、総理が交代したことで菅、安倍は過去にことになり、あの時代の怒り忘れた人たちが増えた。思い出すのは毎回、自民が圧勝した記憶。だから「いつもと同じ結果」という。その意味で菅を下ろした自民の戦略は正解なのだ。

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が、大きい印象操作がまだある。「毎回、自民が圧勝」というが、そうなのか? これはマスコミによる誘導がある。先に参議院選。その前の衆議院選。確かにマスコミは「自民圧勝」という見出しで大手新聞も報じた。が、よく数字を見てみると、衆議院選挙でも参議院選挙でも自民の議員は前回より減っている。公明も同様。

つまり、回を追うごとに自公を支持する人たちは減っているのだ。それを把握されては困る。マスコミの出番。細かい数字を上げず「自民圧勝」とヘッドラインに大きく出す。ニュースも同じだ。そのことで、自公共に議員数が減っているのに、国民は「結局、与党が勝つんだな。。」と印象付けられ落胆する。馬鹿らしくなり、次からは投票に行かなくなる。印象操作に見事に掛かるという訳だ。

マスコミは公正中立だと思うから誘導される。彼らは権力者の広報であり大本営発表。そのフェイクニュースを信じているから、政府が都合のいいように考えてしまう。僕も昔は朝日新聞だけは反自民だと思っていたが、この数年、そう見せかけておいて実は政権の瓦版屋であることを痛感している。

思い出すこと。朝日でさえ、選挙前に「自民圧勝の予測」などとデカデカと見出しを出していた。あれも印象操作。「選挙に行っても無駄だ」「どうせ自民が勝つんだ」という誘導だったのだ。当時からなぜ、こんな見出しを出す必要があるのか?と思っていたが、あちら側だと思えば納得する。

そして朝日といえば、8区問題。嘘を報道して山本太郎をバッシング。与党の影の用心棒とも言えるエダノは暗躍しているが、太郎はヤバイ。彼は真剣に政権交代を考えている。だから、イメージダウンさせるために批判記事。それも嘘を交えたもの。朝日の正体が見えてしまった。彼らも与党の用心棒なのだ。

そんなマスコミは自公が勝つように、誘導するのが昔からのお仕事。それにはまってしまった国民が数多くいる。僕の友人たちも同様だ。今回の選挙は大きい。いつものようにはならない。エダノがいるので政権交代は無理だろうが、自公はさらに議席を減らすだろう。そして、れいわ、共産は躍進すると予想する。立憲は枝野のためにイメージダウン。議席を減らすかもしれない。その責任でエダノが党首を辞めれば日本は少し良くなるだろう。

そんな展開も可能なのに「いつもと同じ結末」という人たちが多い。完全に洗脳され、戦う気力をなくしている。政府の思う壺だ。それが今の日本人。目を覚ませ、時代は変わろうとしている。日本が変わるチャンスが目の前にある。マスコミを信じるな。そして投票に行こう。

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人と違うことをする。新しいことを始めると、止めに来る大人たち。それがムラ社会ルール。日本がダメになった背景!? [再掲載]

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「将来、映画監督になる!」


高校時代。そう言ったら多くの大人たちに反対された。親、教師、親戚、先輩たちが「子供みたいなことを言うな!」「現実を見ろ!」と意見し、止めようとした。何ら迷惑がかかる訳でもないのに? 大人たちはあれこれ言って邪魔をした。

背景にはまず「優しさ」がある。「この子は現実を知らない。世の中をなめている。将来、後悔し嫌な思いをしないように止めねば」との思い。同時に新しい何かをしようとする人を阻害し、潰そうとする心理も感じる。それこそが「村社会」ルール。人と違うことをする。新しいことを始めると排除。「優しさ」からスタートしたように見える「お節介」は、村社会の安定を維持するためのメカニズムなのだ。アメリカ留学中にも、同じ発言をした。

「将来は映画監督になりたい!」

反応は日本とは180度違った。アメリカ人たちは「凄い!」「いいぞ!」「がんばれ!」「応援する!」「ハリウッドの友人を紹介するよ!」誰もが前向き。忠告したり、説教する人は1人もいなかった。

なのに日本はなぜ? 考えた。日本の多くは狭い村。その中で誰かが勝手なことを始めると、いろんな弊害が出る。秩序が乱れ、安定が壊れる。だから始める前に止める。真似たり、あとに続いたりする人も出て来る。子供たちにも悪影響がある。だから潰しておく。長い年月で出来上がった田舎特有のメカニズムではないか? だが、奇妙なのは個人としては「村の調和のため」とは思わず「本人のためだ!」と思い説教し、止めようとする。

江戸時代頃から続く村社会。その習慣。それが今も日本人の中で生きているだろう。さらに学校教育。同じ制服を着て、同じ髪型。同じ学科を勉強して、同じように良い成績を求める。そんな学校生活のあとは、サラリーマン生活。同じようなスーツを着て。似たような髪型で、スタンドプレーはしない。目立ってはいけないという社会生活の中で、新しいことをしてはいけないという意識が育つ。

結果、彼らは前例のないことをする者がいると、その行動を止め、潰し、排除。誰が指示しなくても、自発的に新しいことをする人を淘汰する。それがムラ社会ルール。学ばなくても村社会で育つと、それをマスターしている。それが日本人。そのことで個人が間違っている、違うと思っても一致団結。みんなで突き進み、経済大国となった。だが、激動の時代になるとアジアの国々に追い抜かれた。新しいことをすると潰される環境では新しい時代に乗れない。それが今、日本をダメにしている背景ではないか?



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日本人はなぜテレビを見なくなったのか?=局の怠慢、慢心。没落するのが当然の背景? [再掲載]

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テレビは長らく大きな力を持って来たが、やはり、その立場にあぐらをかき努力を怠った。その間に時代は変わり、視聴者のニーズも変わる。にも関わらず今も昔と同じスタイルを変えようとしない。終焉を迎えるのも当然のだ。昔はその番組見たさに学校が終わったら飛んで帰る!と言うことがあった。が、仕事でどうしても帰れないと言うこともある。登場したのはビデオデッキ。タイマー録画できる。

これは視聴者側の努力。「その番組が見たい!」と言う強い思いがあった。しかし、テレビ局は安易な番組作りを始める。人気タレントを並べるだけ。似たようなドラマを繰り返し放送する。また、テレビというのは最大公約数的な番組が多い。多くの人が楽しめるもの=視聴率が取れる。が、2000年代に入り趣味嗜好の多様化が進む。

例えばスポーツ。昔は野球だけで皆、喜んだ。それがサッカーがブームになる。プロレスも多様化し、全日本と新日本だけではなくなった。誰もが喜ぶ番組というのがなくなり、小さなサークルがたくさん出来て行った。ドラマでも昔は木村拓哉や中山美穂が出れば視聴率が取れたが、今は誰が出たからと番組を見るということが減っている。

そんな趣味の多様化にテレビというメディは対応出来なくなって行く。それにも関わらず人気俳優に依存するドラマ。人気タレントにお任せのバラエティ。クオリティはどんどん下がって行く。趣味の多様化にも対応できない。多くが見たい!と思うもの自体が存在しなくなる。高視聴率が取れないのも当然。

そのことで細分化に対応できるCATVや衛星放送が登場する。時代劇専門、日本映画専門、スポーツ専門、科学番組専門、どれも昔のテレビのような視聴率は取れない。が、様々な趣味の人たち、小さなグループには支持された。こうして従来の番組から離れて行く。

そして視聴者はタイマー録画するほどの番組がないことに気づく。また、オンタイムで見れない番組を録画して見れること。80年代は便利!と感じたが、次第に面倒になる。新聞で見たい番組を探し、日時をセットする。あとで気づいても、もう見れない。

昔なら「仕方ない」だったが、現代人は忙しい。朝から晩まで安い賃金で働く。土日も仕事ということがある。新聞を読む暇もない。テレビガイドを買うのももったいない。そんな人たちに「番組を見たければ毎日、新聞をチェックして、タイマー録画しな!」というのがテレビ局側の姿勢。しかし、町では買い物したい時に買い物ができる真夜中も営業するスーパーやコンビニがある。銀行のATMだって今は24時間引き出せる。なぜ、テレビだけが視聴者が局の姿勢に合わせて、努力せねばならないのか?

局の怠慢。何を放送しても高視聴率を取っていた頃のスタイルを変えず、努力を怠っているということ。その上、番組レベルも下がっている。そんな時に登場したのがamazonやNETFelixだ。見たい時に、見たい番組が、どこでも見れる。スマホやiPadでもOK。電車の中でも見れる。様々なジャンルの番組がある。テレビでは放送されていない面白いドラマ。現代の日本人事情に対応。金を払っても見たいと思う。

こうして地上波のテレビは無料でも見たくない。録画してまで見ないということになる。シンプルにテレビ局の怠慢、慢心だ。この20年の生活スタイルの変化にも対応せず、番組レベルの向上にも努めず。タレントに頼り、大きな圧力には屈して、視聴者よりスポンサーにばかり顔が向いていたこと。それが不要のメディアにしてしまったのだ。

さらにYouTubeの台頭。「報道ステ」よりユーチューバーNEWSの方が面白い。そして、視聴者は何が事実で何がデマなのか?を考えながら見るようなる。その意味でもテレビはもう見る価値がないと言える。いつの時代も努力しない者は淘汰される。



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21世紀を生き延びるのに必要なこと。健康だけではない。新しいことを受け入れられるか?そこが大事。 [再掲載]

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若い頃。友人がいいことを言った。

「20代までは新しいことをすぐに受け入れる。
 30代になると努力が必要になる。
 40代になると拒否し始める。
 50代になると怒り出す」

これ名言だと思う。脳が次第に老化していく様を表している。記憶力もそうだが、新しい習慣、新しい機械、新しい価値観を受け入れらるか?をそれぞれの世代がどう反応するか?も分かる。

CDが登場した時に、僕は20代後半。友人にはCDを嫌い。レコードに固執する友人がいた。早くも新しいものに対する拒否感を持ったのだろう。90年代に入りパソコンが普及。この時も会社のベテランたちが「あんなものはなくても、仕事はできる!」と反発した話をよく聞いた。

Eメールができず、50代の社員が20代に教えてもらうと言う風景もよく見た。僕が30代の頃。シナリオを書き売り込みに行くと、40代以上のPは「詰まらない!」と言うより「よく分からない」と言った。バカではない。映画界で働く第1線のPだ。今なら理由は分かる。

僕のシナリオはSF。当時、日本ではSFはマイナー。子供向けだと思われていた。アメリカでは「スターウォーズ」「ターミネーター」「マッドマックス」と言う映画が大ヒット。SFが主流だったが、日本の40代以上は受け入れることができなかった。もちろん、新しいものを脳が受け付けないのだ。実践したのは大林宣彦監督くらい。

30代前半の若手は理解してくれたが、上が理解できない。「日本でSFは無理ですよ」とさえ言われた。それから30年。今や日本でもSFは主流。タイムスリップもオーケー。「シグナル」だってSFだ。ようやく、そんな時代が来たが、僕も50代。先の格言で言うと「新しいものと出会うと怒り出す」世代。かなりやばい。

編集ソフトを使うのはかなり苦労している。若者のようにすぐに覚えられない。カメラもそう。若いスタッフに教えてもらう。PCもどうにか使っている程度。どのソフトも完全に使いこなせてはいない。

昔は、20代までで覚えたことが、定年まで活用できた。年上の人は若者より知識があった。が、今は違う。年取るほどのダメ。新しいツールを使えない。機械だけでなく、価値観や生活スタイルも変わっているのに、同世代は未だにテレビを見て、新聞を読んで世間を理解した気分になっている。

YouTubeで動画を見る者は少ない。レコードが売れてると聞くと「やはり、いいものは変わらない」と懐古趣味に浸る。NetflixやAmazonプライムを見る同級生はほとんどいない。今もTSUTAYAに行くらしい。なるほど、新しいものが受け入れられないだけでなく、怒りすら感じるのだろう。僕は仕事柄、無理して受け入れるが、次第に同世代とは話が合わなくなってきた。

健康や体力が大切と言うことでジョギングをする年配者は多い。が、頭の方を気にする人はまだまだ少ない。特に男性はアウト。21世紀を生き延びるために必要なのは、体力だけでなく、新しいものを受け入れ、理解する力も大事。そう考えると、日本の政治家。多くがアウトであることも分かる。不況になると公共工事ーいつの時代の話と思える。


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カテゴリー分けしたがる日本人=なぜ、自分の目で見て判断しないのか? [再掲載]

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カテゴリー分けしたがる日本人=なぜ、自分の目で見て判断しないのか?

ある地方のラジオ番組に出た時、こう聞かれた。「監督はどちらの出身ですか?」「その質問、絶対に盛りませんよ」捻くれ者の僕はそう答えた。でも、DJは聞きたがるので「和歌山県です」と答えた。すると和歌山について質問を始めるのが「よく知りません...」と答えるしかない。そうなんだ。幼い頃に数年住んでいただけで、他の街の方が長い...。「ほら、盛り上がらないでしょう?」というとDJさん困っていた。なんと意地悪なゲストだ〜!

人は生まれた街で育つ、思い出を作ると、彼は思ったのだろう。だから、故郷について訊いた。が、僕は例外。和歌山生まれだが、親の仕事の都合で関西を転々とした。そして、どこの街に住んでも「お前は変わっている!」と言われた。その後、横浜の映画学校に進学。クラスメートに言われた。「関西人は変わっている」

その後、LA留学。こういうアメリカ人がいた。「日本人は変わっているなあ」結局、どこへ行っても変わり者(ただ、アメリカ人はカテゴリー分けする人は少ない。人は皆、違うと思っている)それを皆、「関西人だ」「日本人だ」というカテゴリー分けしたがるが、どの街でもどの国でも「変わり者」と言われた。関西人だから日本人だから変わっている訳ではない。そもそもが「変人」なのだ。

なぜ、人はカテゴリー分けしたがるのか?政権を批判したら「左翼」、アニメが好きなら「オタク」、何で分けたがるのか?「ブルーカラー」「ホワイトカラー」「落ちこぼれ」「反日」「アベガー」本当に下らない。昨年の夏、れいわ 新選組が2議席を獲得。話題になった時も、ある雑誌がこんな見出しをつけた

「左派ポピュリズムの台頭」ーはあ?何それ? 何でそんな分け方するの?「山本太郎のれいわ が2議席獲得」でいいだろう?あんたは昆虫学者か!その理由。あることで気づいた。多くの日本人は「考える力」が弱い。分類してあげないと分からない。自分の目で見て、その人を理解し把握することができない。

昔のドラマでいえば「正義の味方」「悪い奴」という分け方。時代劇なら「正義の侍」と「悪代官」ー今の時代、もうそんなドラマは存在しない。なのに現実社会では未だにカテゴリー分けしている。従来の分け方では分類できない人物や事象が次々に出てくるのに、分けたがる。「考える力」を育てる教育をしていないこの国では、そうやって分類してあげないと理解できない人が多いのだろう。

それをレッテル化して悪用する人たちもいる。アニメーションを見ていたら「オタク」。政権を批判したら「左翼」「反日」。少し前は原発に反対すると「プロ市民」とも言われた。戦時中の「非国民」「売国奴」と同じ。レッテルを貼って貶めたいのだ。「一流大学卒」=「賢い」「関西人」=「面白い人」というのも同じ。関西人でも面白くない人もいる。一流卒でもバカがいる。

そんな分類をしている人は「考える力」がない人だということにも気づく。理解力があればカテゴリー分けせずに、自分の目で見て判断できる。それができない人がマスコミ、政府等に誘導されてやすい。現実を把握できないことが多い。今、日本人に一番必要なのはやはり「考える力」なのではないか? ところで最近は「映画監督」という肩書があるので、こう言われる「映画監督って変わってるな」ーはい。それは正解。常識あると出来ない仕事なので!


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同調圧力について =日本人の十八番? [再掲載]

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同調圧力について

日本という国は「皆と同じでなければならない!」という同調圧力が強い。学校でも同じだ。僕は高校時代に日本の教育に疑問を持った。「将来、役立たないことをなぜ、授業で教えるのか?」「10年勉強しても英語を話せないのは、教育が間違っているのでは?」そういうと、教師にも同級生にもこう言われた。

「そんなに勉強が嫌なら学校を辞めろ」「お前は勉強をしたくないだけの怠け者だ!」

どちらも答えになっていない。戦時中も同じだ。「この戦争に意味があるのか?」と疑問を持とうものなら「非国民。売国奴!」とバッシングされた。

「お前は戦争に行くのが怖いから、そんな言い訳をしている。臆病者だ!」

これも答えになっていない。この両者の共通点は何か?というと、目的や意味は置き去りにされ、決めたその目標を貫徹することになっている。そしてどちらも国策。意味や目的ではなく「戦争する」個人にプラスか?意味があるか?ではなく「勉強する」「大学へ行く」になっていることだ。そして多くの人がそれに対して疑問を持たず従う。疑問を持つとバッシングされる。その国策の推進力となったのが同調圧力なのだ。

時代が変わっても、日本人は同じ意見を持ち、同じ方向に進まないと同調圧力に攻撃される。皆、同じで関係性を乱してはいけない。空気を読み、「違う」と思っても同調する。そんなところが今も日本人にはある。

2021年の記事。再掲載

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