体調悪化から1週間。快方に少しは向かっている。 [2022]
体調悪化から1週間。快方に少しは向かっている。
が、まだ良くない。この数日は外出せずに、おとなしくしている。FB記事執筆と「乙女たちの沖縄戦」宣伝は続けているが、集中力がなく他のことはできない。そこで体力も尽きる。
連絡せねばならない人もいるが、しばらく待ってほしい。あれこれ問い合わせがないのはありがたい。自宅入院状態だと言うのに「大丈夫ですか?」「病院は行きました?」と言うコメントを書き込む人が毎回いる。
本人は心配しているつもりだろうが、それは病人に返事を要求する連絡だ。「心配」ではなく「親切心」を被った嫌がらせとさえ言える。なぜ、寝込んでいる相手に返事を書く労力を求めるのか?そのことで時間を取らせるのか? それに気づかない人が意外に多い。が、今回はゼロ。助かる。
明後日はトークショー。それまでに復活せねばならない。少し遠い場所なので体力も必要。しかし、台風が新潟方面に戻ってきたとの情報。こちらの空もどんより。風も強い。雨も降り出す。沖縄市の上映は後2日。これで映画館公開は終了。今後はイベント上映。団体、サークルの希望で映画を貸し出し上映会をするあれ。
その話を書くと「ぜひ、うちの街でもやってください!」と言ってくる人がいるが、違う。自分達で会場を借り宣伝をし、映画を借りて上映会をするのだ。なぜか「***してください」「***を作ってください」とかコメントする人も多い。なぜ、人に要求するのか?自分から何か始めよう!と思わないのか? 与えられるのを待っている日本人性を感じる。あ、今度、それで記事を書く。
劇映画を実名で描く難しさ=「F50」「Minamata」自身への戒めも! [映画業界物語]
劇映画を実名で描く難しさ=「F50」「Minamata」自身への戒めも!
特定の映画を批判すると「そんなに嫌いなの?」とコメントしてくる人がいる。毎回、馬鹿すぎる!と呆れるが、好きだから褒める。嫌いだから批判すると言うものではない。
今回は自身への戒めでもある。こちらはドキュメンタリーだが、同じ沖縄戦が題材。特にドキュメンタリーにフィクションを持ち込んではいけない。勝手な解釈。未確認の事実を描くのはご法度。細心の注意を払った。それでも「ドキュメンタリー沖縄戦」の時は「***戦を描いていない」「***問題に触れていない」とか、あれこれ批判が来た。1時間45分の上映時間で扱えるものは限られている。自身が興味ある事件がないからと「それでは沖縄戦を描いたことにならない!」と言う輩もいた。
「米軍を美化している」と言う批判もあった。これは先の「島守の塔」で島田知事を美化しているとの批判に近いので詳しく書こう。批判の主は多少、沖縄戦を勉強したことがある人。もしかしたら特定の団体の人かもしれない。ある種の人たちは「日本人は犠牲者だ。俺たちは酷い目にあった!」と言う主張を繰り返す。それによって被害者の立場に自分達を置き、加害者の側面を隠そうとしている。アジアで日本軍が行ったことに目を向けず、沖縄、広島、長崎ばかりに目を向ける。
なのに僕は「沖縄戦」で米軍にも多くの犠牲者が出た話を伝えた。また、住民は米軍より日本軍の方が怖かったと言う話も紹介。それらを曲解。「米軍よりの作品だ!」と思い込み「美化している」と言い出したのだ。「米軍より」すら間違っているが、美化は何なのか? 米兵がおばあちゃんにチョコレートをくれた話を紹介したから? その後の専門家が「それも米軍の作戦」と解説している。
つまり、その人たちは「日本人は犠牲者だ!」と言う思いがある。その裏には「だから、アジアの人を傷つけない!」「守るための戦争だった」と当時の日本を正当化したいと言う思いがある人たち。そこまで行かなくても、物事の一部だけを見て「おかしい!」「事実ではない」と騒ぐ人たちもいる。その意味で「島守の塔」の問題点を指摘する時も、無神経なないものねだりではなく、嘘を持ち込んだ理由や背景を探り、作り手の意図を理解した上で、問題を考えたかった。(そのために監督の本まで読んだぜ〜)
あの映画の背景はとても大切な教訓となった。主人公の故郷から支援があるからと事実を曲げて偉人にしてしまう。ま、それ以前に知事を「素晴らしい人だ」と思ったところに問題はあるのだが、映画人は事実を描くよりどーしても感動を描こうとしがち。ドキュメンタリー作家ではない。フィクションの世界で仕事をしている。実際、僕が脚本を担当した「乙女」ドラマ編でも似たような意見が出た。
「再現ドラマはフィクションなのだから、自由な発想で作るべきではないか?」
と言うスタッフもいた。通常ならそれでもいいだろう。舞台は沖縄戦でも、主人公を架空の人物にして、戦争反対の思いがある。その葛藤を描く。あり。ただ、実在の人物にそれをさせると歴史の改竄と言われる。それが「島守の塔」だ。島田叡は実在の人物。その人が思っていないこと、やっていないことをやらせて美化。偉人にしてしまった。架空の人物を作り上げ、「住民を救う」と言わせる。その人物と島田がぶつかるならありだ。が、島田の故郷から製作費が出ている。だから彼を偉人にしてしまったのだ。
似たようなことをしている映画はある。「F50」は最悪だった。福一の原発事故。吉田所長は現実の人物。彼が事件以前にしでかしたことが全電源停止に繋がるのに、それを描かずにヒーローとして描く。でも、決して彼は悪人ではない。事故時の活躍は事実。だが、映画はその部分だけを描き、総理(菅直人)が怒り狂う場面ばかりを紹介した。印象操作で客は総理のために収束が遅れたと感じる。こんな風に事実とフィクションを混ぜて、制作側の意図する方向に観客を誘導することができる。(結果、事故を収束させたのは東電の職員。邪魔したのが菅直人という誘導。収束もしてない)
ただ、事実材の人物を登場させて大きな問題のない映画もある。「ワンスアポンアタイム・イン・ハリウッド」だ。スティーブ・マックイーン。ロマンポランスキー監督、ブルースリー、シャロンテート。チャールズ。マンソンが実名で登場。そこにフィクションを持ち込む。これはどうかなあ〜と言う気もしたが、エンタテイメントとして面白くできている。シャロンテート事件。「結末が現実と違うだろ!」と批判する声も聞かない。ただ、ブルースリーの娘からはクレームがついたと言う。「父はあんな嫌な奴じゃない」と。
「Minamataーミナマタ」も実在の写真家ユージーン・スミスを実名で描き、事件の当事者チッソも実名で紹介される。この作品への日本側からの批判があった。「あの場面は事実と違う」「***はおかしい」「社長は賄賂を渡していない」とか様々。さあ、先の2つと違い、この映画は難しい。僕自身はよくやったと思える。もう、多くの日本人が忘れていた水俣病を今一度、伝えたことは大きい。そのためには実名は大事。
ただ、映画で描く場合。全てを事実通りに描くと逆に繋がらない。真田広之さんの役。実在の3人を1人にしている。映画で3人も出て来られると客は覚えきれない。集約している。それを事実ではない!と批判するのはどうなのか? そして、批判する多くは水俣病に関心があり、知識がある人だ。映画により水俣病を多くに知ってもらうことは大事なのに、なぜ批判してしまうのか? ここに悲しい構図がある。
僕の「朝日のあたる家」を批判した多くは推進派ではなく、原発に反対し、よく勉強している人たちだった。「内部被曝に触れてない」「プルトニュウムの情報が少ない」「もんじゅの話がない」とか、先の「沖縄戦」と同じであれがない!これがない!この辺は知識の問題ではなく、映画表現を理解できていないことが背景。映画はだいたい2時間。登場人物の整理。簡略化は必要。ドキュメンタリー映画ではない。
その中でどう表現するか?が監督の技量。そんな表現方が理解できないので、重箱の隅をついて批判。あるいは批判することで自分の知識を誇り、映画の不勉強さを指摘したいという意地悪な思いもよく感じる。映画があまり専門的になり過ぎると一般の人は見てくれない。勉強した人たちが満足するようでは一般はチンプンカンプン。ヒットしない。その辺を考えずに批判する人が多い。
だが、一方で制作サイドもしっかり調べずに、「ま、こんなもんでいいだろう〜」と言う人がいる。「金がないから仕方ねだろう」とか、「**した方がドラマティックだしさ〜」と事実を曲げようとするスタッフもいる。そもそも、原作ものだって原型ないほど変えてしまうのが劇映画なのだ。「乙女」のクルーは皆、ドラマの人。だから、僕が厳しく言わねばならない。
「これが劇映画ー白梅の塔ーなら、いいでしょう。でも、ドキュメンタリー、元白梅学徒の方々が証言した後で、あり得ない脚色をした再現ドラマを見せることはできない。証言を踏み躙り、利用したことになる。事実を歴史を伝えるための映画なのだから、そこを踏み外してはいけない。いつもならフィクションとして許されるが、今回は違う!」
シナリオは僕が書いた。現場で勝手に変更したり、付け加えたりしないようにお願いした。監督もスタッフもそれを理解し、超低予算とわずか数日の撮影なのに、いいものを作ってくれた。事実通りにやろうとしても、金がなくて、時間がなくてできない事もある。それはどうすればいいのか?嘘で誤魔化すか?それはダメ。では、事実に近い形で対応。様様な努力をしてくれた。そして、女子学徒は皆、架空の人物にした。取材して聞いた方々の話から、複数を1人にしたり。病院壕には十数人いるはずだが、4人に物語を絞った。
事実通りに描くことが映画ではない。脚色することで伝わる事もある。複雑な構図をシンプルにする。紹介エピソードを絞る。だが、詳しい人が見ると「あれがない!」「それは事実ではない」と批判する。だから、難しい。100%の事実は伝えられない。何より演じるのは俳優であり、歴史上の人物ではない。また、人にはいくつもの面がある。家庭、職場。親として、息子として、夫として、それぞれに顔が違う。その全てを描くと多重人格に見える。そこも映画では考える。
個人的に思う事だが、「Minamata」は実名の必要がある。だが、「島守の塔」は実名ですべきではなかっただろう。そもそも、偉人でない人を故郷が応援するからと偉人にしたのが間違いの始まり。「ワンスアポン」も全面的な賛同はしない。が、僕が沖縄戦の劇映画を作るとき、どうするか?ただただ、リアルに歴史通り作ればいいと言うことではない。感動も恐怖も描かねばならない。これからの課題。