乙女たちの沖縄戦、上映劇場 8月19日現在 [2022]
乙女たちの沖縄戦、上映劇場 8月19日現在
大阪シアターセブン 19日(金)で終了
名古屋シネマテーク 19日(金)で終了
横浜ジャック&ベティ26日(金)で終了
沖縄市ミュージックタウン音市場 9/12(月)~9/22(木)
「乙女たちの沖縄戦」への批判コメント③ 古臭い手法を要求する人? でも、大切なのは観客が見やすいこと [乙女たちの沖縄戦]
「乙女たちの沖縄戦」への批判コメント。新しい表現を理解できず古い手法を要求する人? 大切なのは観客が見やすいこと?③
あれこれ批判コメントを読むと、事実を知らないのに、その真偽を調べもしないで「違う!」「おかしい」と指摘する人をよく見る。また、映画的な表現を理解せず、トンチンカンな批判をする人もいる。今回紹介するのは次のコメントだ。
感想「インタビュアーの映像はモノクロで字幕つき、証言者がカラーというのも理解に苦しむ。証言と質問者の部分は別撮りしたのだろうと思われるが自然な形のインタビューにした方がよかったのではないだろうか。インタビュワーの部分の下に字幕が入る意味もわからない」
要はテレビのインタビューと違うので違和感を持ったということだろう。ただ、違和感を感じるがその理由を把握できておらず、その映像表現を理解もできなかったようだ。その辺を解説する。インタビュアーは若い女優。日頃からその種の仕事をしている訳ではない。
「えー」とか「あのー」とかいう言葉をどーしても連発する。アナウンサーのように明快な質問はできない。また、戦争体験者から辛い話を聞くので、相手を思い、失礼のないように遠回りな表現もしがち。そんな様子を延々と撮影し、観客に見せるとどうだろう?
「気遣いは分かるが、もっとストレートに聞けよ!」と観客は思うに違いない。だが、撮影現場にいれば分かるが、そんなストレートに質問はできない。友人が死んでいった辛い話を「で、どう感じたんですか?」なんて質問ができる訳が無い。質問が言葉にならない。言い淀む。そんな連続を映像で見せられても観客は苛立つばかり。肝心なのは証言者の言葉。どんな体験をし、どんな思いを持ったか?を観客は知りたいのだ。
だからこそ、インタビュアーの質問部分はスチールにした。モノクロにすることで強い印象を持たないようにした。そのことで観客には証言者の話に集中してもらう。聞き手がどんな顔で質問したか?どんな言葉で聞いたか? どんな声質でリアクションしたか? そんなことに観客は関心ない。だから簡略化した映像表現を用いた。が、これは決して斬新な手法ではない。
新聞、雑誌のインタビューでは「問い」の部分はこんな風に表現することが多い。「ーーーその事件で一番、辛かったことは何ですか?」だが、実際のインタビューでは記者が「いろいろとお辛いことがおありだったと思うのですが、その中で特に辛かった経験は何でしょうか? できる限りでいいので、教えていただけますか?」と最大限、相手を気遣いながら質問する。
でも、紙面に掲載されるときは先のような短く端的なものなる。なぜなら、記者が気遣い、丁寧に質問したという事実を長い文字数を割いて活字にする必要はないからだ。読者が知りたいのは聞かれた側が何を答えたか?である。それと同じ手法を今回は映像表現で使用したのである。
テレビでは昔でいえば久米、古舘。今なら小川、金平というキャスターが直接インタビューすることがある。この場合はインタビューというより対談に近い。久米さんがどんな顔で聞いたか? 小川さんがどんなリアクションを示したか?に興味を持つ多くの視聴者がいるからだ。
だが、同じニュース番組でも、記者やデレクターが街角で質問することもある。その際に彼らの顔は映し出さない。カメラの横にいて、写るのは証言する人だけ。質問もテロップで「そのとき見たものを教えてください」とか出るだけ。つまり、視聴者の興味は事件の証言者が何を見たか?であり、記者の声やリアクションではないからだ。
同じように今回の映画で大切なのは体験者の体験談。インタビューするのが初めての女優が辿々しく質問する姿を伝えることではない。その様子に10秒、20秒と時間を使うのなら、少しでも体験者の言葉を紹介することの方が大切。
テレビでの証言だと多くは15秒ほど。対して映画は長く紹介できる。とは言え、3時間のインタビューでは観客が疲れてしまう。なら2時間の映画で少しでも体験者の言葉を紹介したい。なのに延々と女優の不慣れたな質問を見せる意味はあるだろうか?
それよりも少しでも多く体験者の言葉を紹介。質問する女優の存在が邪魔にならないように白黒スチールにした。さらに質問をテロップにすれば4〜5秒で内容を伝えられる。肉声で質問すれば短くても10〜15秒かかる。遠慮しながら気遣いながら質問すればもっと長くなる。映画のリズムも壊してしまう。
そんな手法をある文芸評論家の方は絶賛してくれた。これは嬉しいもの。つまり多くの観客はその手法に気づかず、女優の不慣れなインタビューを気にすることなく体験者の言葉に聞き入るから、そんな手法であることにさえ気づかない。
その意味で感想の人はそこに気づいたのは鋭いと言えるかもしれないが、その意味を理解できなかった。だから「インタビュアーの映像はモノクロで字幕つき、証言者がカラーというのも理解に苦しむ」と疑問と批判を始めた。
「証言と質問者の部分は別撮りしたのだろうと思われるが」という想像をし、「自然な形のインタビューにした方がよかったのではないだろうか」と古い手法を使うことを提案している。さらに「インタビュワーの部分の下に字幕が入る意味もわからない」とまとめる。
多くの人はそれがよくある表現でなくても、見やすさ、分かりやすさの表現を受け入れ作品世界に入って行く。が、この方は報道番組の先に紹介したようなパターンに慣れきっていたのか?それと違うスタイルということで拒否感を持ったのかもしれない。
別の例でいえば、エアコンがタイマーで切れるのは便利。それを「何でタイマーが付いているのか分からない!?」というような批判と同じようなものに思えてしまう。多くのは便利なので、あれこれ邪推せずに受け入れるのだ。観客が余計なことに阻害されず、証言者の言葉に集中できる表現。ドキュメンタリーでは大切。
報道番組での証言はほんの僅かしか放送されないので、映画の特徴を活かし少しでも長く、そして多くの証言を紹介したかった。だから報道番組スタイルではなく、新聞等の活字インタビューの表現を持ち込んだのである。
「乙女たちの沖縄戦」へのコメント② 事実を知らずに思い込みで批判?そこを解説 [乙女たちの沖縄戦]
「乙女たちの沖縄戦」へのコメント。事実を知らずに思い込みで批判?そこを解説②
映画に対する感想や批評というのは自由。ただ、本質を理解せずに的外れな批判したり、偏見や先入観で誤解して文句をいうのは困りもの。とは言え日本の教育を10年も受けると「考える力」が育まれない。そこで作品の真意、表現法の理由を解説することで、本来の意味を気づいてもらう記事を書いている。今回、取り上げるのはこちら。
感想「全編に通じてウチナーグチ(沖縄の言葉)ではなく標準語になっている。聞きやすいのだが90才を超える証言者は自然な言葉で話した方がリアリティがある。ドラマパートにもいえる。NHKニュースのような標準語では無機質なものに感じる」
もし、この感想が沖縄出身で高齢の方なら分かるが、どうも沖縄の事情を知らない人が想像で発言しているように思える。もし、証言者がウチナーグチで話したらほとんどの人が何を言っているか理解できない。僕も沖縄を訪れた時、カフェに集まる地元のお年寄りたちの話をそばで聞いたことがあるが、全く分からない。九州弁や関西弁なら他府県の人でもほぼ理解するがウチナーグチはほとんど外国語。
この感想を書いた人はそのことを知らないのだろう。リアリティどころか何を話しているのか?全く理解できないので、字幕スーパーをつける必要さえある。観客は字幕を読み、文字で内容を理解するしかない。それを「リアリティがある」とは言うのか?
また、沖縄では基本、標準語を話す。若い人はウチナーグチを話せない人が圧倒的に多い。おばちゃんたちが孫と話すときは標準語で話す。同年齢同士でも標準語で話すことが多いようだ。それが沖縄の現状。
また、この映画の聞き手は東京から来た若い女優さん。当然、標準語で質問する。その人に対して証言者がウチナーグチで答えるのは不自然だし、聞き手も何を言ってるのか理解できない。インタビューが成立しない。この感想の人は、そうなることを想像した上でコメントを書いたのだろうか?
もし、ウチナーグチで答えるなら通訳が必要だし、映画には字幕スーパーも必要。映画館で字幕を読むことが「リアリテイ」を感じることか? そこで本当にリアリティを感じるのは沖縄の年長者だけになってしまう。映画は多くの人に見せるもの。多くが理解しやすくなる努力が必要。感想者がいうのは現状を理解しない上に、取材もしづらい、普通しないことを要求する指摘なのだ。
何より若い女優にウチナーグチで答えるのは、おかしい。たとえば日本語が話せるアメリカ人が、英語のできない日本人に英語で答えるようなもの。不親切であり、奇異な状態。それどころか証言者は日頃から標準語を話しているのに、あえて多くが分からないウチナーグチで答えてもらうのを「リアリティ」とは呼べない。
この感想者はウチナーグチを関西弁と同じように、聞けば誰でも分かる言葉と思っているのだろう。関西の人は日頃から関西弁。それを無理して標準語で答えてもらうのは「リアリティ」をなくす。が、それと今回はまるで状況が違う。なのに思い込みだけで「リアリティを無くす!」と、ネットで発信してしまった。その感想に賛同して「いいね」を押す人までいる。困ったちゃんは意外にいるのだ。
映画を見て「***がおかしい」「リアティがない」「ツッコミどころ満載」というコメントを良く見るが、本人の思い込み、想像力のなさ、事実を知らないで批判していることが多い。付け加えると「リアリティ」という言葉を使う批評の多くは、その意味を理解してない。作品にイチャモンをつける前にまず、自身の知識が正しいか?を考えることも大切である。
「乙女たちの沖縄戦」への批判① 想像力が足りない人たち?そこを解説。 [乙女たちの沖縄戦]
「乙女たちの沖縄戦」への批判。想像力が足りない?そこを解説。
前作「ドキュメンタリー沖縄戦」では「はあ?」というような的外れな批判。勘違いのコメントをそこそこ見ることがあった。感想や批評というのは自由だ。ただ、本質を理解せずに的外れな批判したり、偏見や先入観で誤解するのは問題。
なのだが、いつも書いている通り、日本の教育を10年も受けると「考える力」が育まれない。そこで作品の真意、表現法の理由を解説することで、本来の意味を理解してもらい、「なるほど、そういうことか!」と気づいてもらう記事を前回は書いた。今回もその種のコメントをいくつか見つけたので、解説してみる。
感想「体験者の背景を白一色(注・町の会議室を借りて取材したので背景が白い壁になっている)にせず彼女たちの部屋で取材すれば積み重なる個人の歴史の情報が、背景から読み取れて物語の奥行きが出たのではないか?」
いち観客としての素直な疑問でありアドバイスなのだろう。だが、ドキュメンタリーは観客のことだけを考えて作ることはできない。プロの俳優が出演するドラマではない。一般の方が話をしてくれる。実名で登場する。プライバシーが大切。顔を晒して体験を語ることで批判を受けることもある。それを承知の上で出演してくれる。俳優が映画に出るのとは違う。作り手はその辺のしっかりと配慮しなければならない。
もし、自宅の撮影となると、撮影クルーがプライベートな環境に踏み込むことになる。みず知らぬ他人が大勢押し寄せる。部屋の片付けもせねばならない。お茶くらい出したいと考えるだろう。出演し証言して頂く体験者に、それも90代の方にそんな労力を要求すべきだろうか? 何も言われなくても、ご本人はそんな気遣いをせずにいられないはずだ。それを想像せずに作り手が「重なる個人の歴史の情報が、背景から読み取れて物語の奥行きが出るから」と自宅での取材をお願いするのは無神経でしかない。
もちろん、自宅での取材OKの方もいる。が、「それは困る!」という方もいる。また、以前には「戦争の話をすると家族が嫌がる」「取材スタッフが何人も来られると家族が不機嫌になる」という方もいた。なので、頭から自宅取材をお願いするのではなく、体験者がどこで話をしたいか?を最優先にして場所を決める。取材を受けたばかりに、後で家族から叱られたり、部屋の片付けをせねばならなくなるのは取材側に想像力がないと言える。その辺はしっかり配慮せねばならない。
取材事情を知らない観客は「部屋で撮ればいいのに!プライベート感じられてより伝わる!」とか見る側の好奇心や知識欲を満たすことを先に考えてしまいがちだが、取材する側が同じではいけない。しかし、テレビのワイドショーでは芸能人に対して本当の無神経な突撃取材をする。それを視聴者は深く考えずに笑いながら見る。想像力が麻痺していくのだろう。
また芸能人は取材されるのも仕事の内。それでも人権侵害と言える取材もあり、取材する仕事をする者としてはムカつく。そんな光景に慣れてしまった一般の方が、深く考えずに「自宅で取材すればいいのに」と考えるのも分かるが、自分が取材されたら自宅で証言するかな?と考えれば見えてくるはず。ワイドショーであっても、FBへのコメントであっても、その辺を考えると、いろんなことが見えてくるはずだ。