コロナ禍ではあったが、沖縄戦について勉強を続けたこの1年。 [2021]
コロナ禍ではあったが、沖縄戦について勉強を続けたこの1年。
Facebookの「1年前の今日」が毎日、掲示される。とうとう、1年前の今頃も「コロナ感染」の記事が出てきた。つまり、コロナが1年続いていると言うことだ。様々な仕事が中止、延期になり、あれこれ厳しい状態。ただ、それでも良い方に解釈すれば、この1年。かなり勉強ができた。映画製作の繰り返しであった15年。それ以外のことをする時間が全くなかったので、その時間ができたのだと考えることにした。
「ドキュメンタリー沖縄戦」を完成、公開したので、(DVDは未だに出せていないが...)ほぼ終了と思ってもいい。通常なら次の題材探しだが、「朝日のあたる家」の題材である原発事故も、映画を作ればおしまいということではなく、その後の展開も見つめることが大事。
今は汚染水を海に流そうとしているし、「F50」と言うプロパガンダ映画をテレビ放送して、多くがそれにダマされて感動。「東電社員が日本を救った」と印象操作されたりしている。それは原発再稼働の布石として利用しているはず。
同じように沖縄戦の勉強も続けている。戦闘自体の流れや実態は3年に渡る取材でかなり把握した。が、疑問が残った。その当時の住民の意識、生活、価値観等はどうだったのか? そして、沖縄戦を見つめるだけでなく、太平洋戦争、大東亜戦争、日中戦争、をも見て行くことで、さらなる意味や隠されたものが分かってくる。原発も簡単には勉強できない大きなカテゴリー(政治や国際問題も含まれる)だったが、沖縄戦はさらに大きなカテゴリーであることを感じた。
そして、原発を勉強した時に見えてきた裏で暗躍する人たちの存在。それらと同種の人たちが沖縄戦にも深く関わっていることが分かって来る。歴史の教科書にはまるで自然災害のように沖縄戦が書かれているが、そうではない。そして日本は単なる犠牲者ではなく、加害者でもある現実を避けているところがある。
その辺を追求することで、単なる歴史ではなく、現代、未来が見えてくるはず。実際、政府のコロナ対策は沖縄戦当時の住民対応と変わらない。どちらも最初から助ける気がないことを感じる。この1年。その辺をあれこれ勉強できたことはプラスと思える。まだまだ、沖縄戦は原発問題と共に見つめて行く。
マスコミがコロナ感染で恐怖を煽る理由? [コロナウイルス]
マスコミがコロナ感染で恐怖を煽る理由?
その報道番組。あるコーナーでは若い女性レポーターが街に出て、いくつもの店を回り、マスクをしていない人が何人いるか?を検証するものだった。ある居酒屋では「1、2、3、4、5、かなりの人がマスクをせずに話をしていますね〜」とレポート。街角ではマスクをしない人にインタビュー。「なぜ、マスクをしないんですか?」と質問。見ていて疲労感が込み上げる。
このコーナー。「マスクはせねばならない」という前提で作られているだろう。そして「不謹慎にもマスクをしない人がこんなにいます!」と告発。街角インタビューでは「マスクをしないのには不謹慎ですよ!どう考えてますか?」と糾弾。しかし、この番組は前提を伝えない。「この時期、マスクをしてコロナ感染を抑えなければなりません。それが守られているでしょうか?」とはいわない。
スタジオのキャスターが言ったのは「街角でどのくらいの人がマスクをしているか?検証してみました」だ。検証と言いながら、これは摘発や糾弾。言葉には出さないが「あんた不謹慎だよ」と指摘しているのだ。それによって視聴者は「いつでもマスクせねばならない!」という思いを強くするだろう。
そこがマスコミの汚いところ。クレームが来れば「あれは検証です」というが、実際にやっていることは「摘発」であり「糾弾」。お前らマスクもせずに何考えてんだ!感染したらどうすんだよ! と主張したいのだろう。しかし、おかしい。
感染したくなければ街に出なければいい。その人たちの責任は責めず、マスクをしない人を糾弾している。居酒屋で飲んだり食べたりで、いちいち話すたびにマスクはしない。また、客もそれを覚悟で来ているはず。それを「マスクをしない人たち」と指摘することにどんな意味があるのか?
北朝鮮なら分かる。「この店にいるお客。1、2、3、4、5人も金総書記のバッチをつけていません! 許せません!逮捕です」その番組がやっていることも、限りなく近い。いや、北朝鮮で金正恩を支持しなければならないというのは、あの国なら理解できる。が、日本で必ずマスクをする、というのはどういう意味か?
ウイルスはマスクを通り抜けること、医学的に正しい。ただ、飛沫感染が言われるので、唾が飛ばないという利点はあるが、「マスクでコロナは防げない!」は医学の常識。なのに北朝鮮のバッチのように「つけなければならない!」という意識が蔓延している。(先日の自転車オヤジもそう)それを推進しているのがマスコミ。
どうも、コロナに関しては疑問が多い。これは昨年から指摘していることだが、最近はマスコミの煽動が気になる。なぜ、コロナ感染で騒ぐのか? 一つは視聴率が取れるから。だが、それだけではないだろう。不安を煽ることで、マスクを強要することで何か別の目的があるに違いない。
どこからか指示されてやっている? それはまた次の話になるので、今回はこうまとめる。テレビを見なければ、コロナで怯えることはない。死亡者数も実は多くない。例年のインフルエンザの方が多く亡くなっている。何だか、これも沖縄戦がダブる。
米軍上陸前から県民にはアメリカ軍の恐ろしさを徹底して伝えた。「米軍に捕まると、男は鼻を削がれて、戦車で轢き殺される。女はレイプされて、殺される」県民は恐怖した。彼らが追い詰められた時、軍は自決せよと伝えた(それだけでなく日頃から、生きて虜囚の辱めをうけずと洗脳)。
県民は「アメリカ兵に辱めを受けるくらいなら自決しよう」と多くが集団自決した。そこには軍の思惑があった。足でまといになる。食料を確保したい。捕虜になり情報を米軍に喋らせたくない。そんな目的があったことも言われる。そのためにアメリカ軍を使い恐怖を煽った。実際は投降した県民を彼らは虐待してはいない。怪我を治療。食料を与えている。全て日本軍が流したデマだったのだ。
恐怖を使い国民をコントロールするのは国がよく使う手。その意味でコロナ感染の恐怖を異常なほどに報じるマスコミ。本当の目的は別にあると思えてしまう。ま、テレビばかり見てると印象操作されて分からないけどね!
なぜ、記事内容に即したコメントが少ないのか?=これでは連想ゲーム! [FB問題]
なぜ、記事内容に即したコメントが少ないのか?=これでは連想ゲーム!
先日、「僕のFB友達は思ったよりレベルが低いと感じている」「コメント欄を見ると、記事も読まずにコメントしているか? 読解力がないので、おかしなことを書くのか? 本当に鋭い人たちはコメントしない」と言う乱暴な記事をアップしたら、コメントが減った。hahaha。ただ、本当に最近のコメント欄は「落書きコーナー」に近かった。
通常、コメントと言うと、その人が書いた記事に対して、賛同、感想、感謝。批判(僕の場合はいらない)を書くのが普通。「私もそう思います」「なるほど、そう言うことですね」「私も同じような経験があります」「こんなことも言えますよね?」と記事内容に沿ってコメントする。が、このところは「バイデン はなぜ菅にハンバーガーを出したのか?」と記事を書くと「私もハンバーガー好きです」とコメントが来る。記事の意図を理解していない。
その理由は先に説明した通りだが、今回はなぜ、そんなコメントするのか? 何の意味があるのか?を考えてみる。思うのは、それらコメントは僕に対するものではない。通常は書いた本人へのメッセーを書くのだが、そうでないことが多い。例えば小池知事のことを書いたら「小池、許せない!」「緑の化物!」とか、僕が指摘する問題ではなく、小池に対する印象、中傷をコメントする。
「大統領官邸でハンバーガー」=>「私も好きです」「シグナルのスペシャルはなぜ面白くないのか?」=>「私も毎週見てました!」感想や意見ではなく、連想したこと、思い出したことを書いているだけ。つまり「考えていない」。記事の中の言葉から連想したことを言葉にしているだけ。そこから思い出した体験を上げる。感想、意見ではなく「連想ゲーム」(若い人は知らないかな?そんな番組が昔あった)なのだ。なぜ、考えて思いを文章にしないのか?
これ学校のテスト例えると「源氏物語と現代を重ねて、感想を書け」と言う問いに対して「高校時代に読みました」と答えるようなもの。これいつも指摘する学校教育の問題がある。考える力を育てない。答えを覚える教育。自分の言葉で表現せずに、三択。つまり、自分で考えて、自分の言葉で思いを伝える訓練がなされていない。
次にテレビ。先に洗脳装置としての役割を記事にしたが、考える暇を与えずに情報を送り込んでくる。報道番組でも賢そうなキャスターが、分かったようなことを言う。切り取り編集された映像でさらに誘導。決められた答えに導かれる。そんな番組をその昔、多くが何時間も見ていた。学校で「考えず」自宅でもテレビで「考えず」与えられることを受け入れるだけの生活が大学時代まで続く。そんな人たちに「考えて」「自身の言葉で表現しろ」といってもできないのが当然なのだ。
だから、連想した言葉をコメント欄に書き込む。本当は何か、自分の思いを書き込みたい。主張したい。伝えたいと言う思いがあるはず。でも、できない。その現れが意味不明、記事の無関係なコメントがよく来る背景ではないか? なんて書いたら、ますますコメントが減るなあ。いや、その方がいい。コメントするより、あれこれ考えることに意味があるのだから。
20%の新しさを人は称賛するが、それを超えると拒絶?理解不能になる [my opinion]
人の許容範囲。80年代、僕は映画学校で学んでいた。高校時代なら映画のポスターを見ると「おう、こんな映画が公開されるのか!」と感じるだけだったが、その頃になると、監督や俳優の記載だけでなく、配給やずらいどこなのか? あと、デザイン。コピー等も気になるようになった。
東横線の駅には渋谷の映画館で上映中の作品。ポスターが貼られていた。そんな中の1枚。何度も何度もデザインは目にしていたのに、それが映画のポスターだと気づかないものがあった。海外でも評価される監督。当然、僕は名前を知っているし、その作品も数年前から制作されていることを聞いていた。エキストラ出演した友人もいる。でも、その映画だと気づかなかった。
なぜか?その両隣の映画は認識していたのに? その映画ポスターのデザインがあまりにもアバンギャルドだったからだ。通常、映画のポスターのメインビジュアルは主演俳優。銃を構えていればアクションもの。涙していればラブストーリーや青春もの。そのパターンは今も同じだ。
車が弾けていればカーチェイスがある。野球やサッカーも衣装で分かる。そしてキャッチコピー。タイトルは大きめに上か下。
なのに、そのポスターはそれらの定義を全て無視。全体に意味不明のイラスト。赤と黒のイメージ。俳優の写真もない。映画のポスターとはとても思えない。拳銃も、車も、スポーツの衣装もない。まあ、そんなジャンルではないのだが、とにかく映画と分からない。と言ってスキーや観光のポスターでないのも分かる。当時、パルコの宣伝がwアレンやcベリーを使った斬新なもの(意味不明とも言える)が多く、話題を呼んだが、それに近い感じ?
あるいは美術展の宣伝?と言う感じだったが、よく注意してみると*月*日公開 ***監督作品と書かれていて、あー映画だ!と気付いたのだ。その間、数週間。さて、この事件をどう解釈するか? 当時、映画学校のシナリオ授業では講師がよく言った。「新しさがない!」「オリジナリティがない」なので、その辺が大事と思っていた。が、ポスターの場合。主演俳優の顔写真なし、拳銃なし、車なし、青春なし。意味不明のイラストはとても斬新なのだが、それでは映画ポスターと認識されない。
つまり、新し過ぎてもダメなのだ。結論から言うと、映画ポスターは20%くらいの新しさで、あとは従来の定義を踏まないと、斬新でも、人々が映画ポスターとして認知してくれないのだ。要は30%40%と新しいものを人は受け入れづらい。50%を超えるともう拒絶。認識してもらえない。業界でもよく「新しさ」と言われるが、その比率はせいぜい20%くらいなのだろう。
日本のテレビ局は完全に時代錯誤。生き残りは可能か? [映画業界物語]
本当にテレビを見なくなった。ドラマはもう何年も前から見ていない。以前に仕事した俳優さんが出演。お世話になっているスタッフさんが参加したものは録画して拝見するが、それ以外は本当に見ない。90年代は放送しているドラマは勉強のため、ほとんどを見ていた。が、次第に時代からズレていることを感じ。見る価値がないと思えた。
何より毎週、同じ時間にテレビの前にいなければならない連ドラ。録画すればいいのだろうが、「そこまでして見たい!」と思えない内容。似たようなストーリー。人気俳優をシャッフルするだけのキャスティング。そもそも週1放送で1話完結。あるいは「続く」というスタイルは60年代から続いているもの。その枠で新しいものはできない。
そこから分かったこと。テレビ黄金期で有頂天になった。大きな力を得た。巨額の富を得た。が、時代は変わり、内部腐敗が極まり、時代に即した対応ができなくなっているのだ。恐竜と同じ。あとは消えゆくだけ。それに気づかず、未だに勘違いが続いているということなのだ。どこの業界も同じ。「驕れるものは久しからず」となる。
2000年代に入り、アメリカは「24」という映画を超えたドラマを作り出した。見出すと止まらない。日本ではそれをdvdレンタルして、休みの日の一気に見るスタイルが流行った。そう。続きを1週間待つのではなく、見たい時に続けて見る。それが「プリズンブレイク」「HEROES」と続き、今はプライムビデオに引き継がれている。「コブラ会」を一気に見る!
(その元祖を20年経ってからリメイクした日本のテレビ局。それだけで分かる。その評価からも)
つまり、テレビ局側の都合で週1回の放送。続きは1週間待たされて、同じ曜日の同じ時間。録画する努力を視聴者に求めるスタイル。それがもう通用しない時代になっているのだ。なぜ、商業主義のテレビが自らは60年代のスタイルを続けて、視聴者に様々な努力を強いるのか? だから、多くが離れて行き、視聴率2桁がなかなか取れなくなった。若い人たちがテレビを見なくなってしまったのだ。
僕もそんな1人。本来、テレビドラマを見るのは勉強なのだが、学ぶものがほとんどなくなった。ただ、時々、超面白いものが出てくることがある。後で知り、dvdやプライムで見ることになったのが「半沢直樹」「鬼滅の剣」しかし、それでフォローできる。毎週、録画せねばならないほどのドラマは頻繁にはない。
この数年。日本のプライム業界も配信だけでなく製作を始めた。「全裸監督」がその1本。テレビよりも製作費が豊富。見たい時に見れる。cmなし。面白い。パート2も製作決定。アメリカではすでに量産されている。スコッセッシ監督の大作も製作はNetflixだ。この展開はもうテレビはドラマを作らなくていい!ということになるだろう。
ドラマはプライムで見る。テレビは報道だけ?いや、その報道もすでに信頼を失っている。日米ともにフェイクニュースのオンパレード。嘘と誘導のための広報機関。だったらバラエティ? それもYouTubeに奪われているようだ。そんな時代なので、テレビを見る必要がない。でも、ほんの時々。5年に1回くらい気になるドラマがある。先日も1本あった。そのことは別の機会に紹介する。
「マスク外すな!」と指示する見知らぬオヤジ=背景にある危険なもの?(改訂版) [コロナウイルス]
住宅街の道。1人で歩いていると、向こう側から自転車に乗ったオヤジ。髪は五分刈り。マスクをした70代。近所の人だろう。すれ違い様にこう言われた。「マスク、外すんじゃねえよ!」自転車なので一瞬の出来事。何か言い返してやろうと振り返るが、すでにオヤジの後ろ姿は小さくなっていた。
歩いていた歩道。とても広い。人が4人並んで歩ける。僕とその自転車オヤジ以外は誰もいない。見渡す限り2人。そんな場所でマスクをしないことを咎めるオヤジ? そもそも緑の狸によると「三密」が危険。室内で、多くの人が集まり、おしゃべり。食事。だから感染が起こる。だが、青空の下。室内ではない。人もいない。お喋りもしない。そんな環境でオヤジは感染が起こると思っていたのか?
何よりマスクでウイルスは防げない。医療用のものでないと通り抜けてしまう。ただ、飛沫感染ーマスクをすることで唾が飛ばないという利点はある。自身が感染している場合に移さずに済む。だが、室内ではない。三密どころか一密ですらない。自転車ですれ違うのは2秒くらい。「マスク外すんじゃねえよ」と指示する。どういう人なのか?
多分、彼の心理は「コロナが流行っている」「マスクをしなきゃウツる」「危険だ」というだけのこと。緑のおばさんの注意すら把握していない。ただただ、マスクしないと危険。コロナは怖い。多分テレビで仕入れた。今、テレビを見るのは50代以上の世代。若い人は見ない。ただ、情報番組ではかなり詳しく報じる。昨年から連日、緑のおばさんが登場して、カタカナ言葉を使って対策を説明している。
オジさん。その説明を把握できていない。理解できたのは「マスクしろ」「感染する」「危険」というだけだろう。にも関わらず、分かったつもりになり、すれ違っただけの人に「マスク外すな!」と指示。自身が把握できた中途半端な知識を押し付けた。どんな立場にいると思っているのか? 他人様にあれこれ言える存在と感じているのか?
似たような話はあちこちで聞く。電車の中でマスクで鼻を隠していない人に、見知らぬ他人が注意してもめたとか。それらの多くが年配の男性。頭が固く、情報を正確に把握しないくせに、他人に強制。「マスクしない」=「悪」という認識なのだ。彼らは「正義感」さえ感じているだろう。「分かってねえ奴が多いんだよ!」「言ってやらねえとわからないんだ!」それは正義ではなく、傲慢であり勘違いでしかない。だが、同じことが過去に起こっている。
戦時中。「非国民!」と決めつける人たち。戦争を反対するのではなく、疑問を感じただけで非国民レッテルを貼り、批判。粛清。「戦争はやらなければならないこと。日本国民の義務なのだ」という頑な思い。今、振り返れば矛盾だらけ。無意味。国が出した無茶な指示を国民が必死で守ろうとした。それと似ている。マスコミが発する「マスクをしよう」指示。疑うこともせずに、見ず知らずの他人にまで強制するオヤジ。時代は変わっても、多くの大人は国やマスコミからの指示を疑うことなく、受け入れ他人に強制する。
そんな1人が先に出会った自転車オヤジなのだ。もし、日本が戦争になったら、彼は先の時代と同じように「非国民!」「売国奴!」と国の指示に従わない他人を怒鳴りつけ、強制するだろう。いつの時代も多くの日本人は国とマスコミに簡単に誘導される。戦時中のことを調べるほどに、今の日本も同じであることを痛感する。
原発事故の悲しみを描いた映画「朝日のあたる家」2013年公開時の新聞記事。 [原発問題]
原発事故の悲しみを描いた映画「朝日のあたる家」
2013年公開時の新聞記事。
「朝日のあたる家」公式hp=> http://asahinoataruie.jp
予告編ー https://youtu.be/rP2ztda0kpg
大手映画チェーンからは上映拒否を受けたが、全国23館の独立系映画館が次々に手を上げて公開。大ヒット。その後、世界6カ国で上映。ロスアンゼルスの映画祭では優秀賞受賞。
日本各地で自主上映が2年ほど続いた。が、テレビでは未だに放映されていない。現在は宅配ゲオでDVDレンタル中。販売はamazon、楽天で。
原発事故を描いた映画「朝日のあたる家」に寄せられた感想(5) [【再掲載】]
kojikaneko生きぬくべえ! @suzupap 10月8日
俺も並木士郎さんみたいに、叫んじゃうとおもう。そのあとどうすればいいかわからない ( #朝日のあたる家 朝日のあたる家 監督対談 http://moi.st/14afaeb )
くろすけ @55kurosuke 10月8日
映画「朝日のあたる家」のパンフレットを、地元の図書館に貼らせてもらった。これを見て、映画を見に来る人がどれだけいるか分からないけど、関心を持ってくれるといいな。
hainori @hainori2 10月7日
@kiriyama99 上映され、この悲しみを少しでも多くの日本人に、いや世界中の人たちと共有してほしい。そこに日本最後の希望が残っていると思う。上映を続けてください。みんなで語り続けましょう!「朝日のあたる家」を観て、上映できること、上映をし続けることが希望への道と感じました。
kojikaneko生きぬくべえ! @suzupap 10月7日
『朝日のあたる家』もの凄くスタンダードなホームドラマだ。それが一瞬に転じる何でも無いような地震。靜にこっそり忍び寄ってくる国策という悪意。情報も無いままに蹂躙される運命。山本太郎さんの言葉が本当に刺さる。何も出来ないでいる自分がつらい http://coco.to/movie/35363
くろ (脱原発・脱被曝)命が一番大切 @tkurokawa31 10月7日
「朝日のあたる家」決して多くの人が見終わったわけでは無いはず。なんだか悲しい。原発事故の起こったこの国で国民の関心はAKBの総選挙?
みんなに見て欲しい、福島で何が起こったか何が起こっているか。民度が試されている…
tomomi @oddity_pure 10月7日
『朝日のあたる家』いしだ壱成のファンで彼の出てる作品なので見に行きました。未成年ファンには嬉しいシーンが。グレチキの北原雅樹くんも「じゅんぺい」役で出てます。私は静まり返った映画館で大爆笑をしてしまいました。
未成年ファンにはこれはお得な1シーンだと思います。是非^^
デラララ @ALALALED 10月7日
きのうは映画「朝日のあたる家」太田監督とのトークイベントに、反原発抗議参加者としてお話させていただいた。監督ご自身何度も参加された官邸前。その熱気に触発され、今回の作品を作るに至った経緯を直にお聞きして、その抗議の場にいた者として、決して無駄じゃなかったんだと報われた思いがした。
高木淳司 @heavyshoulder 10月7日
『朝日のあたる家』で描かれていることは、全ての核燃料の処分が終わらない限り、いつでも起こりうること。原発が稼働していなくても事故は起きる。この先数十年以上の長い間背負い続けていかなければならないリスク。
100bit丑密 @100bitushimitsu 10月7日
RT 映画「朝日のあたる家」多くの人が観たいと言う。が市民の寄付だけで製作した映画。TVCMや新聞広告を打てず、すでに上映中な事を知らない人が多い。劇場・上映時間・公開日等ツイートして頂ければ「もう上映中なんだ」と気づき劇場に行ってくれるはず。お願いします!
たま @tama1203 10月6日
【朝日のあたる家】を観てきた。太郎さんのセリフは全国の親たちへのメッセージの様で、私の心にもずしっと来た。現状に置かれている家族がテレビから現状とは違う報道を見ている姿、今なお福島にいる住人の方々もこんな感じなんだろうという疑似体験のようで・・途中からぼろぼろ涙が最後まで
5manson @5manson 10月6日
『朝日のあたる家』『朝日のあたる家』 パニック映画・家族/故郷の意味を知る映画だと思って多くの人に観てもらえればいいと思う。ただ地震大国で原発推進を掲げどんどん再稼働されていくことに疑問を持つ人が一人でも多くいてくれることを願う。 http://coco.to/movie/35363
亜悸 @akkieC 10月6日
朝日のあたる家は息子と観たんだけど「30まで生きられないかも」的なフレーズがめっちゃ効いて息子も再度褌を締め直し。荒療治でゴメン。でも君にはどうしたって海外に出て欲しいから。
デラララ @ALALALED 10月6日
@kiriyama99 今日は拙いトークを盛り上げてくださりありがとうございました。ブルース・スプリングスティーンの曲「マイ・ホームタウン」になぞらえたシーンのお話等々聞けて、監督の「朝日のあたる家」への熱い思いを知ることができました。今度は母を連れて観に来ようと思っております。
sachi @deEerens 10月6日
映画『朝日のあたる家』は原発の危険性や賛否に焦点をあてた作品ではなく、原発過酷事故が起きると「失うもの」を描いています。土地、家屋、仕事、家族人々の関係、故郷、文化、優しさ、心。そして、私達自身が変わらないと何度でも繰り返すと伝えています。失う「痛み」を伝えています。
C.012 @hikaru0508reo 10月6日
「朝日のあたる家」観てきました。朝から涙と鼻水の洪水状態。マスクしていて良かった。福島の人たちが置かれている状況を、今なお続いている状況を知らない人には是非観てもらいたい映画です。
亜悸 @akkieC 10月6日
朝日のあたる家を観てきた。上の娘が鼻血噴いて泣くシーンが一番キツかった。サイタマで息子が制服を鼻血まみれにしてベソかいて帰ってきた日を思い出して鼻の奥がツンとした。 http://p.twipple.jp/vQqMY