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原発事故から10年。今日は3月11日 [原発問題]

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 あれから10年。この先の10年。


 Facebookは休止中だが、本日、3月11日のみ記事を上げる。明日からまた休止だが、思いを記録しておきたい。10年前のあの日、僕は4年がかりの映画を完成。東京公開がスタートしたことで安心。疲労が吹き出してダウン。過労で動けなくなり、自宅入院状態。

医者から「とにかく休みなさい。休める限り休みなさい。これ以上、仕事をすると過労死するよ!」と言われた。薬で治るものではない。体の全機能が低下。1日に1回。近所のスーパーにヘロヘロで買い物に行くのが精一杯。そんな時期だった。ちょうど今も似たような状態。今回は3年で2本の映画を制作。ダウン中。10年経っても同じことをしている。

 あの日に戻ろう。自宅入院状態、ベッドで寝ていたら揺れが始まる。いつものレベルでないことが分かる。部屋にある高層ビルのような本棚に囲まれたベッド。いくつかの本が落ちる。「ダメだ。このまま、本棚が倒れ、アパートが崩壊し、その下敷きになって死んでしまうのか?」 逃げる気力もなく、揺れる本棚を茫然と見つめていた。長く続いた揺れが収まり、死なずに済んだな....とテレビを付けてみた。

 各地の状況がリレーで報じられている。そんな時、東北の映像で印象的な建物に高い波が襲いかかるものがあった。「あれ・・・原発じゃないのか? あんなに波を被って大丈夫なのか?」と心配になったが、アナウンサーは何も説明をしなかった。あの津波が押し寄せたのは、地震が起こってから何分後なのだろう? その後、パニック映画の1場面のように巨大な津波が街を押し流す映像が流れ始める。


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 津波というと北斎の浮世絵のように大きな波が襲って来るもの?と思っていたら、そうではなかった。「海がやって来る」という表現が正解。大量の水が陸に上がってきて、全てを飲み込み、押し流していく。家が流される光景なんて初めて見た。しかし、その時すでに福島第一原発では全電源喪失。メルトダウンに向かって爆進していたのである。

 寝たきりだったので、原発報道もずっとテレビで見ていた。あれこれ考える。チェルノブイリ、スリーマイルズ島の事故があっても、「日本の原発は優秀。安全です」と言われていたが、同じような事態に陥ったのだ。それでもテレビに出ている人たちは「放射能は漏れていない」「炉心溶融は起こっていない」爆発があっても「爆発的事象」と表現。学者の中には「あれは東電側の作業の一つだ」と言っていた。本当かな?と思いつつも、「専門家が言うなら、そうなのだろう」と自分を納得させようとした。

 その後も伝わって来る情報の断片。何か?おかしい。自宅入院状態を脱し、近くなら歩いて行ける状態になった頃。リハビリを兼ねて原発事故を調べてみようと思った。まずは近所の図書館で事故後の新聞や雑誌を確認する。取材の基本だ。その段階で早くも衝撃を受けた。ある週刊誌記事のタイトルはこうだ。「放射能が東京にやって来る」やはり放射能は漏れていた。そして、福島第一原発から遙か離れた東京にまで流れて来て、降り注いだのである。その日の行動を思い出すと、自宅入院状態の僕は、何かの用で近所の郵便局に行っている。往復10分ほどの距離だが、その間、僕は降り注ぐ放射能の中を歩いていたのだ。

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 図書館にあ全ての新聞記事、雑誌を閲覧した。さらにネット。当時、注目されていたのは小出裕章さんが出演する「種まきジャーナル」。そしてTwitterでもあれこれ情報を探した。街で反原発デモが始まっていたが、ネット上ではそれを批判する者も多かった。そんなデモの先頭に山本太郎が立っていた。そのことで彼は仕事を干され、事務所を辞めることになる。僕なりに、あれこれ調べ、考えると、テレビ報道とは違い、原発事故は大変なことになっていることと思えて来た。

 セシムは日本中に拡散している。半減期は30年。プルトニュウムのことは報道されない。こちらの半減期は何万年だ。なのに「食べて応援」と福島物産展が各地で開かれ盛況。そんな中、小出裕章さんは情報を発信。山本太郎はデモの先頭に立つ。多くの人が自分ができる何か?をしている。同時に、「原発事故は大したことなかった」「放射能は漏れていない」と信じ切っている人も多い。原発問題を訴える人たちを批判、攻撃。「放射脳」「プロ市民ばかり」「黒く汚い奴ら」「福島差別」「不安を煽るな」何を考えているのか?と憤りを感じた。

 情報がない。マスコミが事実を報じない。でも、あれこれ調べればいろんなことが分かってくる。ただ、多くがそこまでしない。知りたいけど情報がない人たちがいる。そして、原発事故は進行中。さらに日本には54基の原発があること。それを推進するためのからくり。原子力ムラの存在。マスコミとの癒着。日本の現実が見えてきた。金儲けのために地獄に向かって一直線。これではいけない。どうすればいい。何か自分にできることはないか? けど、何もできない。小出先生のような知識もない。太郎さんのような知名度もない。でも、何かしなければ......考える日々。そうだ。僕は映画を作る仕事をしている。映画で原発事故を伝えられないだろうか? テレビはダメでも映画なら可能かも?

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 しかし、思い出す言葉がある。映画界では「原発の映画を撮ったら2度と商業映画は撮れない」そんな話がある。その段階でようやく意味が分かった。裏側のからくりに興味を持たれては困る人たち。会社。企業。政治家たちがいる。だから、原発映画を作らせてはいけないと言うことだろう。その昔、田原総一郎はテレビ東京のディレクター時代に「原子力戦争」と言う小説を書き、会社をクビになった。「東京原発」と言うコメディはあったが、「チャイナシンドローム」のような映画は日本にはない。そう言うことなのだ。

 だからと言ってそのままでいいのか? 僕は毎回、過労で倒れるまで映画製作に打ち込む。その時も過労で半年近く寝込んだ。下手したら過労死して311を体験せずに死んでいたかもしれない。それで死なずに、津波をテレビで見続け、原発事故に関心を持ったのも、運命かもしれない。僕の映画のテーマは「子供たちに伝える大切なこと」なのに、子供たちの将来を破壊し、健康をも奪う原発事故。その現実を知りながら、何もせずに、また、数年後に「子供たちに伝えたいこと」と青春映画を撮っていていいのか? 本当に大切なことを伝えずにいて後悔しないか? 毎回、映画作りは「遺作」と思ってやる。過労で倒れるまでやる。なら、原発映画が遺作というのはどうか?

 遺作にふさわしい題材ではないか? 死んでしまえば干されても、映画が撮れなくなっても問題ない。生きながらえて、後悔するよりいい。よし、決めた。日本で誰も撮ったことがない原発事故の映画を作ろう!そう決意した。そこから想像を絶する戦いが始まるのだが、その始まりが10年前の今日という日だった。

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その原発事故を描いた「朝日のあたる家」山本太郎さんにも出演してもらって作った。クランクアップの日は奇しくも2年後、2013年の3月11日だった。8年前の今日だ。そして「原発映画を作ったら...」と言われていたが、その後、また商業映画を2本も撮った。業界の噂なんてそんなものだ。ただ、年配の原発反対オヤジから多くの批判を受けた。「勉強不足だ」「全部知ってる」「内部被曝が描かれていない」「俺たちはチェリノブイリ時代から反対している」だったら、自分たちで映画を作ればいい。でも、彼らは文句を言うだけ。そんな現実も感じた。

そして「朝日」を作ったことで「ドキュメンタリー沖縄戦」に繋がる。「朝日」を見た団体からの依頼だった。そして分かったのは原発事故も戦争も同じ構図ということ。国が自らの政策を進めるために、国民を踏みにじり企業と大儲けするためのプロジェクト。両方とも同じ目的。それを隠し続けるマスコミ。そんな中で僕らは何を考え、生きていけばいいのか? 本当に大切なことは何なのか?それを伝える映画をこれからも作り続けて行きたい。10年前の今日という日が、そんな全てのきっかけとなったこと。改めて思い出す。


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