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なぜ彼らは否定し合ったのか? その根底にあるもの=戦時中を思い出させた都知事選? [都知事選 2020]

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なぜ彼らは否定し合ったのか?=戦時中を思い出させた都知事選?

今回の都知事選。最大の敵である小池百合子を批判せずに、ライバル候補者を批判。誹謗中傷する人が多かったのはなぜか? もちろん、自分が支持する候補への応援の一環ではあるが、それなら小池を批判するのが得策。また、ライバルの批判より支持する候補の魅力を訴える方が知らない人たちにはアピールする。

他の候補を中傷した場合。「へーーそんなに酷い奴なのか?」と思い、その候補に投票するのを止める人もいるが、逆に「あんな風に誹謗中傷する人が支持する候補って嫌だなあ〜」と思われマイナスになる場合もある。にも関わらず、ライバル候補への批判や中傷が多かったのは、それらの人たちは冷静さを失い、支持候補への熱い思いよりも、「ライバル候補が許せない」という憎しみを持ってしまったからではないか?

ただ、気にになるのは、その種の発言が多かった人たちが支持したのは、庶民の味方であり、どちらも多くの人に支持される実績ある候補。嫌われる自公の議員たちではない。評価はしても誹謗中傷する背景はあまりない。にも関わらず、汚い言葉で批判する人がいたというのは「憎悪」が背景にあったと思える。では、そんな庶民派の候補たちへの憎悪は、どこから生まれて来たのか?そこを考えたい。

思い出すのは「近親憎悪」ー国語辞典で意味を調べた。「親族どうし、または階層や性質などの似た者どうしが、ひどく憎み合うこと」つまり、近い価値観を持つからこそ、小さな違いが気になり、許せなくなるということだ。一般から見たら小さな違いなのだが、自分たちの価値観、理想。「これしかない!」ーある候補者に理想が重なる。「この人しかいない。他はダメだ!」逆に、ライバル候補には理想が一部重ならない。「こいつはダメだ。100点じゃない」でも、悪意はない。熱い理想に燃える人たち。何もせずに文句をいうだけの、選挙にも行かない連中とは違う。

ただ、熱いから、理想に燃えるからこそ。小さな違いが許せず。こうでなければならないという価値観を持ってしまい、100点を取らないと全否定という極端な発想に縛られてしまったのではないか? これは選挙や原発だけの話ではない。映画ファンの世界でも「映画は***でなければならない。ハリウッド映画なんて映画とは言えない」という高尚なマニアがいる。「スピルバーグなんてクソだ。ベルイマンのような作品を映画と呼ぶんだよ」という友人もいた。彼の価値観でしかないのだが、「でも、俺はルーカスの映画が好き」というと「お前は何も分かってないな。最低だ。2度とうちに来るな!」と縁を切られたこともある。

高校時代を思い出す。僕の周りは親も、教師も、同級生も「成績がいい」=「素晴らしい人」「成績が悪い」=「人として最低」という価値観だった。「成績が全てではない」というと「勉強が嫌だから言い訳するんだ!」と言われた。「落ちこぼれ」と言われた。これが戦時中だと、子供達はこう考えた。「大人になったら立派な兵隊さんになり日本を守る」そんな時代に「戦争なんて無意味だ」というと「非国民!」とのししられた。「戦争に勝つ!」が絶対的な価値観だったのだ。

そんな風に一つの価値観を絶対視することは危険。なのに、平和を願う候補たちを支持しながら、自分の価値観から離れられず、他者を否定、誹謗中傷するのはどういうことだろう? 戦時中の価値観とどう違うのか? 「こうでなければならない!」「我に正義あり」それはもう価値観ではなく、危険な思想だと思える。が、熱くなり真剣になると、それに気づかなくなる。まさに戦中の国民と同じ?と感じてしまう。


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