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山本太郎さんの街頭演説に絡む人=ムカつくが、次第に哀れに思えてくる? [心理を分析]

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山本太郎さんの街頭演説に絡む人=ムカつくが、次第に哀れに思えてくる?

太郎さんの街頭演説。絡んで来た人にマイクを渡して議論するというパターン。それをまとめた動画を見た。どこかの国の総理はヤジを恐れ、親衛隊で周りを固めて、批判が書かれたボードを見えないようにしたりと姑息なことをしている。対して太郎さんはヤジを飛ばした相手にマイクを渡して議論。よほど勉強した上で、相手に対する思いがないとできないことだ。

一つには極端な意見であっても、その人を説得するだけの情報と解決策を持っていることは大事。それができないようで、耳障りのいい抽象的な演説をするだけでは意味はない。太郎さんはそれを自らに課し、ヤジにも答えるという姿勢を取っているのだろう。

そんな問題ある人たちとの議論。動画を見ているとこちらの方が頭に来る。質問ではなく、誹謗中傷だったり、事実誤認。あるいは発言の意味が分からない。背景を説明できていない。思い込み。という人たちがとても多い。そもそも山本太郎は物凄く勉強していて、議員もやっていて情報もある。いろんなブレーンもいる。

対してヤジる人はテレビでニュースを聞きかじった程度。あるいはネットでチョコチョコっと情報を知ったレベル。そこで感じた不満。それも表面的な情報やデマを信じてしまい、それを太郎さんにぶつけているだけ。上から目線。本来、政府にぶつけるべき批判を彼に向けていたり。太郎さんはよく我慢して聞いているなと思える。

ただ、冷静に聞いていると、そのヤジを飛ばした人たちこそが生活が苦しい。10%の消費税に追い詰められ、もう10年以上給料も上がらないのに物価が上がる。なのにマスコミのフェイクニュースに振り回され真実を知らない。そんな人たちを救う政治をしようとする太郎さんに噛み付く。何とも悲しい。

その手の人。太郎さんが言葉を尽くして説明しても結局は納得しない。誹謗中傷を続けたり、同じ批判を繰り返したりで議論にならず。最終的にはマイクを投げつけ帰ってしまったり。それもまた今の日本人の姿を象徴しているように思える。


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「れいわ新選組という党名はダサい!」という人、もう見かけないよね?=背景を映画タイトルのつけかたで説明する [れいわ新選組応援]

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「れいわ新選組という党名はダサい!」という人、もう見かけないよね?=背景を映画タイトルのつけかたで説明する

「れいわ新選組」という党名が決まった時、そこそこ多くの人が反対した。「ダサい」「良くない」「似合わない」「令和なんて入れるな」あれこれ批判する人がいた。が、それらを見て思い出すことがある。映画の新作タイトルを考えるとき、会社員の友人に相談すると似たようなことがある。

「良くあるタイトルだ」「新鮮味がない」「インパクトがない」「見たいと思わない」等々

昔々はそれでまた考えたりしたのだが、最近では相談しないことが大事と分かった。会社員ばかりではない、業界の友人に聞いても同じことが起こる。というのは、人間の脳はまず「比較する」という習性がある。何か新しいものを目にした時、それが何であるか?把握するために過去の記憶と比較するのだ。

だから、パソコンを最初知った時。多くは「テレビ」と比較。パソコンは自分で情報を選べる。画像だけでなく、メールが出来、HPも見られると認知。これは特に意識しなくても脳が行う反応。だから、レーザーディスクの時も「絵の出るレコード」みたいな認識だったはず。過去と比べて何がプラスか?確認する。

そのため「れいわ新選組」と聞くと「れいわ」=「令和」を想像し、年号だろ?と考える。「あれは政権が無理やり決めたもの!気分悪い」(実は違う。天皇家の思いを託したものだろう)と連想してNOと思う。「新選組」と聞くと「幕末のあれかよ」と想像する。「山本太郎が出てた大河ドラマ?」とか連想。

つまり「比較」し、その言葉から連想するものを記憶から引っ張り出して、その印象を持つ。いいか?悪いか? それが脳の機能。しかし、最終段階で「れいわは年号だろう?党名にふさわしくない」とか、「新選組は反幕府勢力を切るグループ。政府側という意味?」とか貧しいイメージの連想をした人が多かったのだろう。

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あの党名は非常に計算されている。「れいわ」は令和時代に必ず言われる言葉。式典等では「令和2年2月2日」とか開会宣言で言われる。ニュースでも同様。その度に「れいわ新選組」がイメージされる。新選組は幕府の組織だが、追い詰めたのは長州と維新派である。現代のそれらを成敗するのが党の使命と謳っているのだ。

また、「れいわ」も「新選組」もすでに知名度のある言葉。それを使うことで覚えやすい。なのに政党というと「民主党」「国民党」「立憲民主長」「国民民主党」「自由党」と似たようなものばかり。どれがどれか分かりづらい。けど「新選組」なんて党はない。そして誰もが知る幕末の集団。でも、一字違う「撰」=>「選」

さらにトドメを刺すと、人は新しいものに拒否反応を示す。過去の似たようなものを持ってきて「似ている」「同じだ」と否定。受け入れようとしない。そのくせ全く新しいものを提案すると、意味が分からずキョトンとしてしまう。過去と比較できないからだ。映画のタイトルを相談した時もまさにそれだった。最初は拒否感があっても使い続ければ次第に拒否感はなくなり馴染んでくる。事実、今、「あの党名はなあ」という人はもうほとんどいないだろう。脳の閉鎖性に振り回されているだけということだ。



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あれこれ口を出したい人たち。その心は?=子供食堂で文句を言う大人たちから思い出したこと [心理を分析]

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あれこれ口を出したい人たち。その心は?=子供食堂で文句を言う大人たちから思い出したこと

あれこれ口出しをしてくる人たちの話。少し前に書いた。「子ども食堂」で貧しい子達に食事を振る舞う店主の、何もしない近隣の人たちが「自然食にしろ」「手作り出ないと」「勉強も教えろ」とか言いに来るという。店に集まりたむろする。

彼らはアドバイスをしているつもりなのだろうが、要は安易な承認欲求を求めているだけ。口出しをすることで、自分の存在をアピールしているのだ。深層心理では「俺たちも注目されたい、賞賛されたい」と思っている。それも努力せずに認められたい。だから行動せずに口出ししてくるのだ。

そんな連中はどこにでもおり、僕の周りにもた。学生時代に映画監督になりたい!といえば、頼みもしないのに友人、教師、親戚たちが「現実を見ろ」「子供みたいなことを言うな」「お前、才能があるのか?」「簡単なことじゃないぞ!」と説得しようとした。誰も「応援するよ」とは言わなかった。

「朝日のあたる家」の時も同じ。公開したら、反原発のおじさんが寄って来て「これじゃダメだ」「全部知っていることだよ」「初心者向けだね」「内部被曝が描かれていない」と批判して来た。「だったら、お前らも映画作れよ!自分たちが満足できる作品をやれよ!」そう思えた。

彼らは行動する者を批判することで「自分たちの方が上だ」と満足。「詰まらない映画を作った奴を諭してやったよ」と承認欲求を満たす。「俺はすげーんだよ」と勘違いする若い奴ならまだしも、60代70代のおじさんたちが、そんなことを言ってくる。本当に情けない。しかし、そんな奴はどこにでもいる。そして彼らは邪魔にこそなれ、何の役にも立たない。

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学生時代の僕にあれこれ言った大人の中には「俺も昔、小説家になりたかった。でも、なれなかった。それが現実だ。教えてやらねば」と思った連中もいるだろう。それは自意識。深層心理では「こんなガキが夢を実現したら納得いかない。甘いだけだ。俺がダメなんだから余程でないとダメなんだよ」と、その考えを正当化するためにも、成功して欲しくないと言う無意識が働いていることもある。

何れにしても相手のためではなく、承認欲求を満たすため、自分の敗北を正当化するため、であることが多い。そんな連中は本当に始末に悪い。余計なお世話だと言うと「お前のために言ってんだよ」と怒り出す。善意の第三者の振り。そして「親切で言っているのにあいつは失礼だ」と言い触れ回る。金目当て、悪意があるという以上に問題。だが、それが人の本質なのだ。

映画を作るときでも同じ、当事者でない人たちがガタガタ言ってくる。「それじゃダメなんだよなあ」「これもやらないとダメだよ」「分かってないなあ」映画を作り始める時も、作ってからも、そんな輩が寄ってくる。一時期のスピルバーグやルーカスはタイトルさえ発表せずに映画作りをしていたことがあるが、それは正解。大事なのは口しか出さない連中をいかにブロックするか?なのだ。

子ども食堂の記事=> https://citrus-net.jp/article/90752?fbclid=IwAR205erGKH6GMXEzF9sDpXZr75pRR7-lISyQ71d0ZVGkfL1kptSnBVs1PUQ


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昨年12月の那覇上映が大評判!「ドキュメンタリー沖縄戦」上映会、今回は南風原で 2月28日(金)18:30〜  [告知]

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「ドキュメンタリー沖縄戦」上映会@南風原 沖縄

2月28日(金)18:30〜 南風原町立中央公民館にて
入場無料 昨年12月に那覇で上映され大評判となった映画です。


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山本太郎さんの演説を聞いたことのない人のために =「れいわ新撰組」を立ち上げた理由?15分。 [れいわ新選組応援]



山本太郎さんの演説を聞いたことのない人のために
先の参議院選での街頭演説。新宿西口。

撮影 太田隆文

「れいわ新撰組」を立ち上げた理由?15分。


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状況把握力に欠ける日本人?=アメリカでもバッグを置いて席を取る?! [社会政治]

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状況把握力に欠ける日本人?=アメリカでもバッグを置いて席を取る?!

心理学用語ではないが、僕は「状況把握能力」という言葉をよく使う。日本人はその能力が低いことが多い。というか、その能力を育み鍛える機会がほとんどないからだ。日本では与えられたことを教えられた通りにするという教育。それ以前に自分の身の回りの状況を把握するという力を育てようという学科。いや、その発想すらない状態だ。

今、自分の周りでは何が起こっているのか? どんな状態なのか? 危険度は高いのか? 低いのか? 今後の展開はどうなのか? それらを察知し、分析するのが「状況把握」能力である。そもそも、これは野生の王国? サバンナで生きる動物に必要な力。ライオンの動向を知らないとシマウマはヤバイ。雨が降らない時はどうするか? 水が干上がったらどこで水分を摂るか? 野生の動物はそんな対応ができる。

あるいは漁師。天気、雨、風、波。それらを把握して漁に出れるか?中止か? また海の上で天候が変わったらどうするか? を長年の経験から理解している。が、陸の上で暮らす会社員だと、冷暖房の聞いたらオフィスで仕事をするので、雨や風でも心配ない。また、満員電車を避けたくても、午前9時までに会社に着かねばならないので選択肢は少ない。それどころか台風でも出社しなければならない会社もあるので、状況把握する必要がない。

言われたこと。与えられたことをするだけなので、その種の能力はいらない。もっと言えばその力があると、問題が予想され気が重くなるだけ。気づいても問題を避けられないからだ。そんな社会人を育てる教育。そして安全な日本で育ってしまうと、当然、その種の能力に欠ける。ロスアンゼルスに遊びに来た友人たちが、バッグをファーストフード店のテーブルに置いてカウンターに並んでしまう。

周りには危険な人がいっぱなのに、気づかない。散々、映画やテレビでLAは犯罪都市と言われているのに、東京気分。それは状況把握ができないから。日本ではないので注意せねば!という発想すら生まれないのだ。その辺の話。次回、もう少し詳しく書いてみる。


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状況把握する力がない人。令和時代を生き残れない?=「知らなかった」では済まない? [社会政治]

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状況把握する力がない人。令和時代を生き残れない?=「知らなかった」では済まない?

悪意のある人は分かりやすい。目的が人を貶める。金を奪う。と行動や言動から真意が見える。動機も恨みや金目的。昔ながらの犯罪者と同じだ。だが、仕事やプライベートでは、悪意がない人の方が問題を起こすことがある。このところ書いている「状況把握能力の低い人」だ。知能指数や学力が低いと言うのではない。自分の立場。自分がいる環境。周りの状態を把握する力が弱い人たちである。

安全な国・日本で長年生活していると危険察知の能力が育たず。海外に行っても日本と同じように店のテーブルにカバンを置いて離れたりする人が多い。それもまた状況を把握する力に欠ける状態なのだ。その場合は自分が被害を受けるだけなのでいいが、そのような人が会社やチーム。あるいは友人にいると大変なことになる。

地方で映画を撮るときに、町の顔役的な人に協力を頼むことがある。その人が一声かければ多くが応援してくれる。だが、町にはその人と敵対するグループがあるもので、そちらの顔役もいる。外から来るとそれが分からず、両方に協力を求めたりする。結果「何、撮影隊はあいつにも協力を頼んだのか!だったら応援はやめだ」と双方から言われてしまう。

町の状況を把握せずに、安易に応援を頼んだからだ。「そんなこと外部にいると分からないよ〜」と言うが、分からないからまず状況を把握するのだ。もし、プロデュサーが両方の顔役に頼み、断られたら、その町では非常に撮影が難しくなる。状況把握ができないP一人のために大変なことになる。

先に書いた外国の店でカバンを置いた話も同様。盗まれてから「そんなに危ないなんて知らなかったよ」と言うのと同じ。状況を把握しようと言う思いがないから。「知らない」では済まない。シマウマが「ライオンがいるなんて知らなかったんだよ」といっても出会えば食われてしまう。

しかし、多くの日本人は学校でも、会社でも与えられたことをするだけなので、状況を把握する!と言う発想が持てないことが多い。その意味で令和時代を生きるには、警告なしにいろんなことが起こり、変わっていくこの時代を生き残るには、状況把握能力がとても大切だと思える。


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