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あの総理の正体は見抜けても、加害者を応援する人は多い? [社会政治]

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あの総理の正体は見抜けても、加害者を応援する人は多い?

「あの総理。本当に許せねえ! 何であんな奴を支持するんだ。バカじゃないか?」

とという人たちがいる。僕の周りには結構多い。というか、ほとんどがそうだ。逆にいうと、あの人を支持し、期待している人は本当にいるのだろうか? Twitter等を調べると、賞賛している人たちはいるが、どうも「お仕事」の人たちではないか?と思えるし、支持率60%と言っても(年末にかなり落ちたが)マスコミの発表する数字なんてフェイクではないか?地方新聞等が調べた10%20%が真実ではないか?と思える。

ここまでは僕の周りにいる人たちは皆、ガッテンしてもらえるだろう。多くが「何であんな人を支持するのか?分からないようね。騙されているんじゃない?」という。同じことを25年ほど前にも感じた。オウム真理教による「地下鉄サリン事件」の時だ。僕の周りだけでなく、多くの日本人はこういった。

「何で、あんな怪しい教団を信じて、信者になったか?分からないよね。僕なら勧誘されてもオウムに入らない自信があるな」

その発言はおかしい。当時、毎日のように報道されていたオウムがどれほど酷い団体か?というテレビ番組を見た上で「入らない自信がある」といっても無意味だ。犯人を知っているミステリードラマを見て「犯人はすぐ分かる」と自慢するようなもの。それも「ロス疑惑」と同じようにオウムのスキャンダラスなところばかり、視聴率を取るためのテレビ番組を見て、オウムを把握したつもりになるのは、ごまかしの経済指数を見て「総理。さすがだな」というのと同じ構図だ。

森達也監督の「A」や「A2」を見れば当時のオウム報道がどんなものであったかがよく分かる。その逆。良い部分だけを報じれば、視聴者は総理支持になるということ。NHKで流される国会答弁は見事なくらいに、問題ある箇所を切り落とし編集されたもの。それだけ見れば「野党の批判に明快に答える頼もしい総理の姿」を作り出すことができる。それを見て支持する人たちがいる。そんな人たちを批判する友人たちもいる。が、他の側面では同じように誘導されて、加害者を応援し、被害者を中傷している姿をよく見る。

考えてほしい。あんたが批判する人は本当に問題ある人なのか? あなたが応援する人は本当に素晴らしい人なのか? マスコミ報道に惑わされてはいけない。イメージ作りや、噂に左右されてはいけない。見た目に騙されてはいけない。しっかりと疑ってほしい。


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真実と虚栄の間に...加害者を応援し、被害者を踏みつける日本人? [社会政治]

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真実と虚栄の間に...加害者を応援し、被害者を踏みつける日本人?

1980年代前半に「三浦知良事件」というのがあった「週刊文春」で「疑惑の銃弾」というタイトルで連載されたLAでの殺人事件。「ロス疑惑」とも呼ばれた。そして保険金疑惑事件の真相を追求したもの。当時を知る人なら分かるが、今から考えると異常な事態であった。逮捕もされていない市民を実名報道。犯人だと断定するかのような記事やニュースが連日のように流れた。マスコミは三浦氏を追い回し、彼は生活が成り立たなくなる。一般人はテレビや雑誌を見ているだけなのに「あいつが犯人だ。酷い野郎だ」と信じていた。

僕もまさにその一人だったが、今の商売を始めた頃から、裏の裏を考えるようになり、また、いろんな事件や騒動を取材すると、言われていることとは違うことを実感。マスコミ情報を信じる危険性を学んだ。昨年見た森達也さんの「A」を見ても感じたが、報道は真実を伝えない。それよりも、おもしろかしく、視聴率や売り上げ部数が上がることを重要視する組織なのだ。今では流石に「ロス疑惑」的な報道はされないが、限りなく近いことは今も続けている。また、それ以上に酷いことがネットの世界ではある。実名を挙げ、住所や顔写真まで晒して、相手を中傷する人たちも多い。

そんな中で、注意して情報を選択せねばならないことは誰しも気づいているはずなのに、トランプ大統領の「フェイクニュース」という言葉があちこちで使われるようになったのに、デマやフェイクを安易に信じてしまい、振り回される人が多いこと。痛感する。本当に問題ある人は応援したり、庇ったりして、本当は犠牲者である人を加害者だと思い込んで攻撃したりする。

ネットもあまりやらない会社員の友人と話すと、そのことを思い知る。「小沢一郎は悪人だ」「トランプはとんでもない!」と未だに思い込んでいる彼らに何度、その背景を説明したことだろう。でも、仕事が多忙でテレビニュースさえ見れない。Yahoo!ニュースを見て世間を把握した気になる彼らが真実に気づかないのは当然だとも思える。

が、ネットをやり。Twitterでもかなりのフォロワーがいて、いつも鋭い意見を述べているTwitter有名人たちでも、そのことに気づかず、その人が加害者だと気づかず、可哀想な被害者だと思い込んでいることがある。その加害者にエールを送り、本当の被害者を批判。彼らさえも気づかないのなら、僕の友人たちが総崩れなのも当然だろう。その光景。まるで三浦知良事件を彷彿。要は田舎の噂話と同様、根拠のないデマを疑わず、鵜呑みにして、皆で批判する。

「疑惑の銃弾」から40年も経つというのに、日本人はまだ同じことを繰り返している。そんなリテラシーの低さを、キャリア官僚たちに利用され、権力に踏みつけられ蹂躙されていることに気づかない。何もしようとしない。リテラシーがないので、コロっと騙され利用されてる。何が真実なのか?何がフェイクなのか? それを見抜く力。令和時代を生き抜く鍵だと感じている。


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原発事故を描いた映画「朝日のあたる家」ー上映拒否が続いた頃。嘘で誤魔化し原発を避けて通る人たち。 [思い出物語]

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原発事故を描いた映画「朝日のあたる家」ー上映拒否が続いた頃。映画館の呆れた言い訳? 原発を避けて通る人たち。

2013年。原発事故の悲しみを描いた映画「朝日のあたる家」を製作、監督。山本太郎さんも出演。完成したが、上映拒否をする映画館もあり、物語の舞台となった静岡県では1館のみの上映となった。その時、静岡県のある方から、こんなメッセージを頂いた。

「朝日のあたる家、上映してほしいです。地元静岡の***劇場は私が直接、支配人に会って、上映をお願いしてきます!」

その方は原発反対している団体の主婦。「朝日」の上映を望んでくれている。訪問後に再び連絡を頂いた。映画館側の主張は以下の通り。

 ①映画配給会社の系列の関係で上映できない(詳しくは話せないと支配人はいう)

 ②「朝日のあたる家」の内容に問題があると判断したわけではない

 ③ 反原発団体が上映するなら、劇場を有料で貸す。

呆れてしまった。①の系列の関係で上映できないは明らかなウソ! 配給会社にも確かめた。「上映してほしい」と劇場側にお願いしたが、半年後に”上映できない”との返事があったとのこと。系列問題は昔のこと。今は存在しない。「系列問題」というは、こうだ。

昔は東宝系、松竹系、東映系と分かれていて東宝の映画は松竹の映画館では上映できない。ということがあった。が、今は東宝のシネコンで松竹映画が上映され、系列問題は存在しない。そんなありもしない過去の話で「上映できない」と回答をしている。「詳しくは話せない」というのも、詳しく話すとウソがバレるからだ。

劇場がやる気があれば上映できる。

では、なぜ、そんなウソを着いたのか?劇場を訪ね上映を懇願した方が反原発支持者だからだ。回答の②で上げているが「内容に問題があると判断したわけではない」がそれを物語る。原発が題材だから断ったのではないといいたいのだが、系列の問題がない以上。上映はできる。

しかし、原発関係者からクレームが来るのが怖くて上映したくない。それでウソを言ったのだ。なのにその支配人。上映拒否をしながら、上映を懇願にいった反原発団体には「上映するなら、会場を貸す」といったそうだ。

隣の町では「朝日」を上映して記録的なヒット。

上映すれば大ヒット間違いなし。でも、原発関係者からクレームがあると怖いので、反原発団体に主催させて上映、何かのときには責任を逃れができる立場でいながら儲けようということ。それも会場費がバカ高い。公共の施設で上映すれば、その10分の1以下の費用で上映できる。それが静岡県のある映画館だ。

この件。詳しく書いたのは、映画館だけでなく、多くの会社や企業。団体が同じようなパターンで、原発を避けて通ろうとしているからだ。原発問題に関わると、何か言われるかもしれない。クレームがくるかもしれない。怖い。だから、避けて通る。

でも、それでは恥ずかしい。だから、ウソの理由で上映できないと説明。推進派が怖い。同時に反原発の人たちも怖い。そんな人たち、そんな会社がまだ数多く存在する。

だが、本当に怖いのは原発推進派ではない。

その映画館から遠くない場所にある「世界で最も危険な原発」なのだ。同じことは沖縄戦にも言える。多くのメディアが避けて通る。映画化された作品も数本。原発と同じ構図だ。それを3年に渡る取材。沖縄戦がいかに理不尽で残虐なものであったか? 

「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」を作った。沖縄で秋に完成披露試写会を行うとのこと。ぜひ!見てほしい。

特報=> https://youtu.be/Wv5MK0fRauI


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なぜ、人は議論するのか? 相手の顔も知らないネット上で言い合うことに意味はあるのか? [FB問題]

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なぜ、人は議論するのか? 相手の顔も知らないネット上で言い合うことに意味はあるのか?

Twitter。僕がフォローしているアカウント。いつもいいコメント。「なるほどな!」ということを政治に対し、政府に対し、政治家に対して意見している。あの短い字数でうまくまとめてある。その人のフォロワー数は8万人。視聴率に近い数字。多くの人が彼を支持するのも分かる。

が、常に批判ツイートが来ている。「アホちゃうか?」と思うようなものも多い。何でもいいから批判してやれというものから、重箱の隅を突くものまで。読んでいても呆れるものが多い。にも関わらずアカウント主はしっかり反論し、イチャモンを論破する。

短い字数で分かりやすく、なるほど!という文章を返す。もう、名人芸だなあと思えたりする。しかし、批判する人たちは何を考えているのか?意見が違う。間違っているということを指摘するが、自分は本当に正しいのだろうか? 自分の指摘に間違いはないか? という戸惑いが感じられない。twitterは当然、多くの人が見る。言い換えれば多くの人が集まった街頭で議論するようなもの。あまりにバカな指摘をしたら笑い者になる。なのに、その躊躇が感じられない。

ハンドルネームを使っているということがあるだろう。笑われても、素性はバレない。しかし、それは覆面をして議論するようなものだ。アカウント主は実名を出している。職業柄、多くの人が知るある種の有名人。その人にあれこれ絡むのは、どこかに「あいつを論破してやる」とかいう、昔の道場破りのような思いがあるのか?  

本来、議論するのは別の考え方を知るのが目的。でも、日本人はすぐに感情的になり、人格攻撃を始めたり、罵倒したりする。また、自分の意見を押し付けようとする人もいる。何よりネット上で相手の顔も年齢も職業も分からない人との議論は無意味だ。互いの立場が分かった者が実際に会って話してこそ、まともな議論ができる。

だから僕はネットで議論をしない。賛同する人は賛同してくれればいいし、反対の人は反対でいい。意見が違っても反論して来ずに自分のFacebookで書けばいいと思っている。大切なのは誰が正しいか?ではない。その意見をどう実現するか? どう推進するか?だと考えている。



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役所の職員はなぜ、熱く仕事をしない人が多いのか? [社会政治]

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役所の職員はなぜ、熱く仕事をしない人が多いのか?

宣伝のことを書いていて、前々から思っていた件の謎も解けた。以前、ある映画で役所が協力してくれた。行政の応援はありがたい。が、マイナス面も多かった。彼らがやることは何かトンチンカンで、意味のないことに力を入れて、必要なことをやらない。

決して悪気はないのだけど、プラスにならないことの方が多い。足を引っ張り、トラブルを起こすこともあった。が、彼らは良かれと思っている。その背景にあるものは何か? 簡単にいうとそれが「お役所仕事」なのだが、なぜ、そんなことになるのか?考えてみた。

いろんな例があるのだが、分かりやすいものを紹介。映画完成後、ポスターを持って役所に行くと「あちこちに貼らせてもらいます!」と言ってくれた。が、映画が公開されても役所が貼ったポスターを1枚も見ない。大きな街ではない。街をうろつけば目に付く。見つけたのは皆、地元の実行委員会の方が貼ったもの。役所とよく仕事をする友人に聞くとこう教えてくれた。

「通常、ポスターを貼るというのは、多くの人に映画の存在を伝えるため、映画を見てもらうためですよね? だから、なるべく人の目に付くところに貼ろうとします。が、役所の連中は違って、”映画を見て欲しい”ということより、”ポスターを貼りました”という行為をしたことが大事なんですよ。上司から”君、ポスター貼って来たか?”と言われた時に、”はい、やりました”と言えることが重要。

どこに貼ったか?ではなく、どこでもいい、言われた通りに貼ったということが大切。だから、人目に付く場所に貼った方がいいよな?とは考えない。貼りやすいところに、面倒でないところに、どこでもいいから貼るというのが彼らの発想。毎回、路地裏とか人が滅多に通らないところによく貼ってますよ。それでも貼ったは貼った。上司から叱られれない。目立つところに貼って市民からクレームが来るより、目立たないところで、クレームなしの方が都合いい」

なるほど。価値観も意識も違うのだ。「街の魅力を紹介する映画だから、市民に見て欲しい」というのが通常の発想なのに、映画をアピールしようなんて考えていないのだろう。しかし、担当者が怠け者ということではないらしい。役所というのはそういうところで「市民のために働いていますよ」と見せかけながら、いかに時間をかけて少量の仕事をするか?が大事。1日済むものを1ヶ月かけて作業する。それが役所だと言われた。

1日で仕事をかたずけると、別の仕事を指示される。仕事量が増える。給料は変わらない。だから、時間をかけて最低限の労働力でかかった方が得。残業に持ち込んだ方が得!と考えるのだ。もちろん全ての職員ではない。思いのある人もいる。が、役所のシステムが多くの職員をやる気のない人間にしてしまう。頑張っても何の得もない。だったら、できる限り手を抜いてやろう。そう考えてしまうのだという。まさに黒澤明の「生きる」の世界だと思える。

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日本人は合理性より、無意味な習慣やルールを大切にする?=その陰で大儲けする連中がいる。 [my opinion]

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日本人は合理性より、無意味な習慣やルールを大切にする?=その陰で大儲けする連中がいる。

合理性、論理的ということ。僕の中ではかなり重要だと。再確認することが多い。カバンでもセンスやデザインも重要だが、機能性(つまり合理的)も大事。収納したものが素早く取り出せるバッグでなければ!と思う。

反対に習慣とか慣習というのには拒否感がある。合理的でないからだ。正月に神社に行くとかしない。お参りしたからと神様が何かしてくれるのか? それ以前に神様は存在するのか?いたらなぜ、不幸になる人を助けないのか?とか思ってしまう。そんなスタンスなのでトラブルもよく起こす。

             *

製作会社でシナリオを書いたとき。社長が的外れな意見を言うと、社員Pは「なるほど〜そのアイディアはいいですね」と持ち上げ、それをシナリオに入れとと言う。が、僕は入れない。必要ないからだ。それで面白くなるならいいが、浮いてしまう。大事なのはいい物語を作ること。社長のご機嫌を取ることではない。

「大人しく、ハイハイと言っておけばまた仕事がもらえるんだよ」

と関係者には言われるが、そんな習慣のある会社で仕事をしたくない。こんな性格なので、無意味な習慣やルールが多い地方社会では生活できない。近所だから仲良くするとか、親戚だから親しく付き合うとか、それは昔々の、皆が百姓だった頃の習慣だ。

意味もないこと。無駄なこと。必要のないことが嫌。そのせいで高校時代。勉強することに意味がないことに気づいてしまった。10年学んでも話せない英語、暗記するだけの歴史、社会では使わない連立方程式。そんな意味ない授業に1日の大半を使うこと。とても無駄だと思えた。その理由はのちに解き明かす。

             *

サラリーマンになるため。と言うのなら無意味な勉強でも、別の意味も出てくるが、僕は会社員にはなりたくなかった。だから無意味なのだ。それならプラスになることをしたい。そんな高校生だった。アメリカ留学をして気づく。アメリカ人の発想はそれに近かった。合理的。無意味な習慣やルールに縛られない。留学生活の中で何度も痛感した。

銀行に預けたお金は24時間、365日、いつでも引き出せる。だって、自分の金なのだから。なぜ、銀行に手数料を取られるのか?なぜ、8時以降は引き出せないのか? なぜ、銀行の都合が優先されるのか? 合理的ではない。でも、日本はそれだ。

日本には無意味な習慣やルールが溢れていることに気づく。高校の頃からイラついたのは、そのためではないか? 日本をダメにしている背景もそこではないか?そして影で大儲けしている連中はそれを利用しているのではないか? いろんなことが見えて来た。また、別の機会に続きを書く。



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「モーニングショー」日本が貧乏国になっているという話=新しい価値観を受け入れない企業が潰れていく? [社会政治]

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「モーニングショー」日本が貧乏国になっているという話=新しい価値観を受け入れない企業が潰れていく?

20年前に大儲けしていたよく聞いた名前の日本企業名は消え、現在のベスト5に並ぶ、好調の企業は皆、新しい会社ばかり。玉川さんがダメになった企業の説明をする。

「学閥とか、派閥とか、年功序列とか、過去の括りで社長を決めているようではダメだということです。若くても、女性でも、外国人でも、優秀な人材を据えて、過去の価値観を抹消して、今の実用的な考え方でビジネスをしなければ生き残れないということなんですよ」

なるほど、その通りなのだが、それを司会の羽鳥さんがパネルでこんなエピソードを紹介。「そんな発想で会社改革をしようとしたある会社」「幹部から猛反対」「不採用」そこでゲスト・コメンテーターが解説。

「幹部クラスの50〜60代は若い連中や女性、外国人を上司に迎えたくない。若い奴らが自分より高給と取るのを許せない。そんな嫉妬が改革を阻むんです」

なるほど、特に最近、差別問題が激しいのはそのこともあるのかもしれない。過去の価値観にしがみつき、未だにベルトコンベアに乗っている気分で、何もしなくても定年まで行けると考える世代(僕の前後だけど!)その人たちが改革を止めているのだ。サラリーマン社会だけではない。映画の世界も同じだ。

黒澤明、木下恵介、山田洋次、という巨匠たちなら無茶を言っても受け入れるベテランスタッフも、若手の要望は拒絶することが多い。新しい方法論、価値観、そんなことを撮影現場に持ち込むと、猛反発を食い、昔ながらの映画撮影を強要する。僕が監督業を始めた頃は、そんな感じだった。若い監督、女性監督、嫌がられた。

「何も分かってねえなあ。映画の勉強したのかい?」

そんな態度で古い方法論を振り回すベテランがいた。良質な映画を作る前に、それらの旧時代のスタッフと戦うことでヘトヘトになった。同じことが一般企業でも起きているのだろう。しかし、玉川さんが指摘するように「ITを理解しない社長がいない会社は伸びない」と同じで、映画でもデジタルを活用できない監督は、安定価格で良質な映画を作ることはできない。

黒澤明の時代ではない。何十億も賭けて映画撮影はできない。フィルムにこだわっていては経費がかかるばかり。映画は芸術だが、同時にビジネスだ。一般企業も映画界も同じであること痛感する。


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太田隆文第1回監督作品「ストロベリーフィールズ」出演:佐津川愛美・芳賀優里亜・東亜優・谷村美月・若手俳優たちの名演に涙が溢れる! [思い出物語]

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「ストロベリーフィールズ」(2005年)

出演:佐津川愛美・芳賀優里亜・東亜優・谷村美月・波岡一喜・三船美佳

若手俳優たちの演技に涙が溢れる!

昭和40年代を舞台にした女子高生の幽霊ファンタジー。

カンヌ映画祭2005 フィルムマーケット招待作品
ジャパン・フィルム・フェスティバル・LA 201111招待作品

監督ブログ=>http://t-ota.blog.so-net.ne.jp

夏美と理沙 教室.jpgT0004682.jpg谷村=マキ.jpg4人一緒.jpg





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「向日葵の丘 1983年 夏」予告編ロングバージョンー高校時代を過ごしたあの夏の日。 [「朝日」予告編]



「向日葵の丘 1983年年 夏」予告編ロングバージョン。

常盤貴子、田中美里、藤田朋子。芳根京子。

豪華キャストのノスタルジー物語。

一緒に高校時代を過ごしたあの夏の日。

忘れられない悲しみが今、感動の涙に変わる。

太田隆文監督作品、第4弾(2015)


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