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映画レビューに「突っ込みどころ満載!」と得意げに書き込む人たち。評論家気取りのコメント。=その背景にある悲しいもの。 [my opinion]

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映画レビューに「突っ込みどころ満載!」と得意げに書き込む人たち。評論家気取りのコメント。=その背景にある悲しいもの。

先日、amazonプライムで「ほたる」を見て感動したあと。一般の感想はどうだったのか?気になってyahoo!映画レビューを見た。何と!半分近くが酷評。それも意味不明のコメントが多い。要は物語に共感できなかっただろうことを、作り方が悪い、手法が古いと批判しているように思える。

いろんなサイトに映画の感想を書くページがあるが、特にyahoo!に書き込む人たちの映画鑑賞眼は低い。別にyahoo!が悪い訳ではなく、その種の人たちが多いということ。どんなコメント? 例えばこんな風なのが多い。

「突っ込みどころ満載。あれ?おかしいな。なんで?ということの連続!」

「展開が唐突! 何なのこの映画。展開に無理ありすぎ〜」

「物語にひねりがない。これでは子供でも先が読めてしまう。レベル低すぎ!」

ある。ある。と思うだろう。どのサイトを見ても必ずある。これらに共通するのは何だろう? そう。ほとんどが上から目線。得意げ。鬼の首を取ったような感じ。

「この映画ダメだなあ」「この監督は素人かよ」「これでは不合格」

という思いが感じられる。簡単に言えば評論家気取りなのだ。しかし、その映画を見ると、それほど酷いものでなかったり、力作だったりする。??? そこには2つの背景がある。彼らの心の闇を考えてみよう。

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80年代。僕は映画ファンであり、映画学校に通い、映画好きと毎日議論していた。「ぴあ」には毎週、読者の映画批評が載る。がyahoo!的な感想はあまりなかった。同世代の映画評論家さんはいう。

「本来、映画を見ていて、あれ? 何でこうなるんだろう? と思った時に、僕らは伏線を見逃したかな? 説明があったんじゃないか? と考える。映画というのはプロが作るもの。意味が分からないのは素人である自分が、しっかりと見ていなかったからだろうと考える。

でも、今どきの子は分からないことがあると、この映画は説明不足だ。ご都合主義で展開させてんだな〜と考える。つまり、分からなくなるのは自分の不注意や無知ではなく、映画制作側の、あるいは監督がバカだから分からなくなると解釈するんだよ」

その通りだ。しかも、おかしいのがそんな解釈をするのが20代とか30代の人たち。作っているのは50代とかの監督で、プロのスタッフ。映画というのは集団作業。例え監督がバカでも、シナリオや現場でおかしな部分が見つかれば、必ずスタッフが指摘する。誰も気づかずにオーケーなんてまずない。それを20代の映画ファンだけが気づく問題点ってあるかな?

実際にその映画を見ると、ちゃんと伏線が張られていたり、前の場面で説明されていたりする。それを見逃していたので、展開が分からなくなったのだろう。にも関わらず

「おかしい!無理あり過ぎ〜」

とコメント。考えれば自分は若く、素人。プロが作ったものが、そんなバカなミスをするはずがないと思うだろう。僕らの世代はそう考えた。が、今の子たちはそうは思わない。もちろん、映画監督にもバカな奴はいる。

でも、素人の映画ファンよりは多少、勉強し、いろんな経験をしている。そしてベテラン・スタッフも参加している。何十人もの目を通してシナリオはチェックされ、撮影される。それを素人の自分だけが見抜くなんてことがあり得ると思うのか?多分、その子たちはそこまで考えていない。自分が理解できないことに出会った時、単純にこう思う。

「私にものを見る力がないのではなく、説明不足の相手が悪い!」

なぜ、そんな解釈をするのか? 考えてみる。今時の子たちは、僕らの子供時代以上に管理教育が進んでいる。ひたすら与えられたことをするだけの教育。やるべきことは教師や親から指示される。宿題をしろ。勉強をしろ。教室では静かにしろ。寄り道をしないで帰れ。守らないと厳しく注意される。


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言われたことさえしていれば問題はない。つまり、考える必要がない。自分で判断しない。なぜ、この学科を勉強するのか? なぜ、この宿題が出るのか? なぜ、こんな規則があるのか? 考えない。背景を想像しない。疑問を持たない。駅のホームに立てば、

「電車が来ます。白線まで下がって下さい」

とアナウンスがある。ショッピングセンターでは

「エスカレーターから乗り出して顔や手を出さないでください」

と館内放送。ますます考えない。やってはいけないことはあちこちで言ってくれる。学校や家庭でも指示が出る。考えずに言われたことだけしていればいい。そんな環境で育った子たち。考える力はなく、与えられたことしかできない。映画を見る。伏線がある。伏線というのはナレーションで

「この主人公は銃マニアである。その証拠に部屋の壁にはモデルガンが飾られている。これは大きな伏線になるので、画面で大写しにはならないが、観客の皆さんは覚えておいてほしい」

なんて説明はない。伏線というのはそれとなく描くものだ。だから、見逃しがち。若い子は気づかない。展開がある。伏線が生きる。が、伏線に気づいていないので分からない。

「なんで、こうなるの? 何の説明もなかった。この映画おかしい!」

となるのだ。考える力がない。しっかり言われないと分からない。想像力がない。問題が起こると背景を考えず、安易に相手が悪いと思ってしまう。似た例がある。


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子供が池に落ちた。親は子供を叱るべきなのに、池に柵がなかったことに激怒。自治体を訴えるという話を時々聞く。これも同じ。子供に危険を察知する力が育っていない。それを教えていない。にも関わらず、落ち度は子供ではなく、柵を作らなかった自治体という。

映画の伏線に気づかず展開が分からなくなると、自分に「見る力」がないのではなく、映画が説明不足だと解釈する。いずれも「考える力」が育っていない。

「言われないと分からない。悪いのは自分ではない。注意してくれないから分からない」

管理教育が行き届いた中で育った結果ではないか? もう一つの悲しい背景がある。今の教育では個性はほとんど認められない。学校の教科にないことができても評価されない。そんな中で若い子たちは何をアイデンティに成長するのか? 背が高い。イケメンだ。巨乳だ。家が金持ちだ。最新のゲームを持っている。いろいろあるだろう。

でも、それらは自身の努力で手に入れたものではない。そして成績が悪くて、一流大学に行けなかった人たちには、どこか劣等感が漂う。自分なんて大した存在ではない。どうでもいい人間だ。社会に必要とされていない。そんな思いがどこかにある。


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成績は悪かったが、本当は何かできるはずだ。自分にもいいところがあるはず。誰にも負けないものがあるはず。でも、今の時代にそれを見つけるのは大変。そんな人たちが映画を観る。伏線に気づかず、あれ?と思う。展開が唐突だ。或いは物語がストレート過ぎる。そんな時。

「突っ込みどころ満載だなあ。何だこれは。説明不足だし、この監督はバカだよな?」

「考える力」がないので、そんな解釈をする。そして、無意識にこう感じる。

「僕は結構、鋭いんだな。プロの作った映画の欠点を見抜いた。プロってバカなんだな。俺の方が優秀だよ...」

人を批判すると、自分が偉くなった気がするものだ。優越感を感じる。次第に上から目線になる。

「隠しても俺には分かるんだよ。そんなことじゃダメだろ?」

その誇らしい気持ちを伝えたくて、感想を映画サイトに書き込む。「俺って凄いだろう?」そんな思いを込めて。日頃、誰にも褒められない。必要とされないダメ自分から逃れ、自分の優秀さを誇るために。それも楽して、いい気分になれる。

それが理由で映画レビューはその手のコメントが多い。が、そのほとんどは勘違いや見る力がない人たち。多くは厳しい管理教育で育った人たちだろう。それが映画レビューに

「突っ込みどころ満載!」

「唐突な展開!」「捻りがない!」

などと、ワンパターンの表現で勘違いなコメントを書き込む人たちの背景だと思える。




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人はなぜ、本質を忘れて優越感に浸りたがるのか? 大切なのは問題を多くの人に伝えることだ。=「朝日のあたる家」で出会った悲しい原発オタク? [原発問題]

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人はなぜ、本質を忘れて優越感に浸りたがるのか? 大切なのは問題を多くの人に伝えることだ。=「朝日のあたる家」で出会った悲しい原発オタク?

沖縄戦。ナレーション原稿書きをスタートする。今回はドキュメンタリーなので、かなりな量のナレーションがある。それが各シーン内で収まる分量か? 内容が伝わるか? その辺を考えながら、書いていく。すでにナレーションが必要な尺をある程度取っているが、それをさらに正確にする。映像が長ければ切る。ナレーションが読み切れなくれば伸ばす。ただ、ナレーションが長過ぎるのも問題だ。その場合はナレーションを直す。

事実を正確に丁寧に伝えることは大事だ。しかし、専門家向けの資料ではない。詳しく説明することで観客が混乱することもある。ドキュメンタリーの場合は専門性よりも、シンプルに事実を伝えることが大事と思える。文献なら前のページに戻って読み直すことができるが、映像の場合はそれが出来ない。情報を詰め込むことはマイナスなのだ。「朝日のあたる家」の時も、年配の親父にこんなことを言われた。

「この映画は初心者向けだね?」

自分は原発に反対しているというそんな観客がいた。そもそも劇映画だ。初心者向けも中級者向けもないのだが、その人はかなり原発問題を勉強しているのだろう。だから

「この程度の情報は知っているよ。もっと専門的なことを盛り込んでくれないと勉強にならない」

といいたかったのだろう。個人の感想としては理解できる。だが、この人が満足する映画になっていたら一般客には???となっただろう。専門的になり過ぎるからだ。これが「漫画で見る原発事故入門」なら「中級編」「上級編」と作ればいい。しかし、「朝日」は原発事故を勉強してもらうための作品ではなく「悲しみ」を伝えることを重視。何よりも劇映画だ。

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そのために原発事故の情報は盛り込むが、専門的に勉強して欲しいという作品ではない。もし、そこで興味を持てば自身で勉強すればいいことであり、それを映画に求める必要はない。「朝日」を見れば原発事故によって

「近隣の家族がどんな目に遭うのか?どんな思いをするのか?」

が分かることが一番であり、セシュムやプルトニュウムの専門的な知識やメルトダウンのメカニズムを知ってもらう必要はない。

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同じく沖縄戦もまず、悲劇であることを伝えるのが目的であり、そこに学術的な徹底検証を数多く持ち込む必要はない。「朝日」が原発事故に関心のない人たちでも、観れるように作ったように、「沖縄戦」もすでに勉強して知識がある人たちに向けて作るより、強い関心を持っていない人たち見て、あれこれ知ってもらうことが大事と考える。

なぜなら、原発問題も沖縄問題も多くの人が知ろうとしない。詳しく知らないという状況がある。そんな人たちに見てもらい感じてもらい、より関心を持ってもらうことこそが目的なのだ。

すでに勉強していて事情通の人たちに、より深い知識を提供するための作品ではない。どちらの層が多いか?といえば、明らかに前者。そんな人たちに見てもらうことに意味がある。思い出すこと。原発問題でも関心を持ったばかりの人を、詳しい人が批判。

「お前は勉強が足りない!」

そんな話をよく聞いた。要は

「俺は311以前から関心を持っていたのに、お前らは無関心だった。事故が起こってから騒ぎやがって...」

と上から目線。そして「俺は詳しいんだぜ」という自慢。そのために原発問題に興味を持った人がやる気をなくし、原発反対という人を嫌うようになったという話も多い。批判する相手を間違っている。原発反対なら推進する人たちを批判するべきであり、関心を持つ人たちをバカにすることではない。「初心者向け映画」と言った人も

「俺はしっかり勉強しているんだぜ。映画を作った奴は不勉強だ...」

という思いがあっただろう。しかし、そんなことより、いかに多くの人が原発問題に興味を持つか?こそが大切なはず。原発を優越感の材料にしている人たちがいること。要はガンダム・マニアがモビルスーツの名前を数多く知っているのを自慢するのと同じ。

「あんた百式も知らないの? メタスは? 勉強不足だね〜」

みたいなもの。年配の親父がそれと同じでは悲しい。同様に、今回も沖縄戦を熟知した人たちではなく、全く知らない人。興味のないひと。少しだけ関心がある人をメインに、分かりやすく、現実を伝えるのが目的だ。2時間ほどで、沖縄戦とは何か?が分かるようになっている。春の完成を目指す。



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