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「来週後半に、ある発表をする予定。ふふふ......よろしく!」 [2017]

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「来週後半に、ある発表をする予定。ふふふ......よろしく!」

  2017年4月 11日







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「朝日のあたる家」ーTSUTAYA東京笹塚店でも レンタル中! [【再掲載】]

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「朝日のあたる家」ーTSUTAYA東京笹塚店でも

レンタル中!


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俳優業ーもの凄い責任と期待に、応えなければならない人生を賭ける仕事。 [映画業界物語]

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俳優ーというとかっこ良くて、

或いは美形の人たちがお芝居をする仕事。多額のギャラをもらい、皆にチヤホヤされる存在と羨む人が多いだろう。でも、現実は違う。恵まれているのは本当に一握りの人たちうであり、ほんとんどはアルバイトをしながら俳優業を続けている。

オーディションで合格すると、或いは出演依頼が来るとアルバイトを休み。撮影に参加する。1週間の撮影であっても時間をかけて役作りをせねばならない。台詞を完璧に覚えるのは当然。その役はどんな性格の人で、どんな経験をして、なぜ、そんな行動を取るのか?その背景や心理を徹底して考える。シナリオには書かれていない部分まで想像しないと、役を演じることはできない。

これが舞台なら何ヶ月も練習があり、

その間に演出家から指導を受けて役作りができる(とは言え、舞台も映画も俳優の責任がとてつもなく重いのは同じだ)。が、映画の場合は監督と会えるのが衣装合わせのみということが多い。そこで衣装を決めながら、短い時間、役について話をする。質問をする。説明を受ける。それだけで次は撮影なのだ。

もし、俳優が役の解釈を間違ったまま撮影に臨んだ場合。監督に「全然違う!」と言われる。その段で役柄を直すのは至難の技。まず不可能だ。だからこそ、真剣に役作りをし、撮影に臨む。そこで勘違いな役を演じたら、「あいつはシナリオが読めないんだよな。何であんな役になるんだよ!」と思われ二度と、依頼は来ない。

こんなケースもある。撮影直前に親が入院した。命に関わる病気だ。気が気で無い。でも、俳優は役作りをし、撮影に臨まなければならない。「親の死に目に会えない」といわれるのが俳優業。親が死んでも、その日の撮影や舞台は行われる。多くのスタッフ&キャストや観客が集まるので、自分の都合で欠席はできない。小さな役でも、その1人が現場に行かねば撮影も、舞台もできないからだ。

だから、親が危篤でも俳優は病院に駆けつけられない。

見た目は派手な仕事に見えるが俳優業というのは、過酷な仕事なのである。自分1人がいないだけで、皆が迷惑するだけでなく、多額の費用も飛んでしまう。映画撮影でも、舞台でも、個人で賠償できる額ではない。また、何よりも舞台ならお客さんを裏切ることになる。芝居を楽しみに時間を割いて来たのだから公演中止にはできない。撮影なら、共演者にも迷惑をかける。相手がいなければ芝居はできない。

だから、親が危篤であることを隠して現場に行く。しかし、そこで演技に集中できず、台詞を思い出せなかったり、気持ちの入らない芝居をしてしまったら大変なことになる。監督はからは厳しい注意を受ける。それでも集中できず芝居ができなければどうなるのか? 黒澤明監督なら「撮影中止!」そう怒鳴って現場から帰ってしまう。が、それならラッキー。別日に撮影ができる。が、ほとんどの映画撮影は延期なんてありえない。その日の撮影はその日に撮らないと巨額の赤字になるからだ。

芝居が駄目でも撮影はせねばならない。

だが、俳優が集中できない状態では監督が何をいっても駄目だ。特に役作りが中途半端で撮影に来ていたらもう終わり。駄目な演技を撮影するしかない。あとでスタッフが悩む。ラッシュを見る。やっぱり駄目だ。使いものにならない。「俳優***さんは駄目だ!」では済まない。映画自体のクオリティを落としてしまう。そうならないように監督はその俳優の力量を把握し、信頼して依頼するのだが、ときは親の病気、彼氏に振られたという理由で、芝居ができなくなる役者がいる。そのために映画自体がとんでもない危機に見舞われるのである。

撮り直しをするには多額の予算がかかるので駄目。他の俳優のスケジュールも全て調整せねばならない。実質的に無理なのだ。できるのは、その俳優のシーンをできる限りカットすること。物語が壊れない程度(それが難しい)に切る。小さな役ならそれが可能だが、それなりの役だと厳しい。が、1人だけ素人のような芝居をしている場面があると、映画全体を駄目にしてしまうのだ。

カットするということは、

その俳優と共演した、同じ場面に出ている俳優の演技もカットせねばならない。その日の撮影や照明の努力も無駄になる。その場面にしか出ていないエキストラの人もカットされる。もの凄く多くの人が犠牲になる。

さらに、その俳優を応援している人たちも悲しむ。「***ちゃんの出番を楽しみにしていたのに、ちょっとしか出て来ない。どうして?」家族が病気で演技に集中できなかったと知れば、同情するかもしれない。でも、他の俳優だって多くの人が応援している。がんばって演じた場面が、1人の共演者のためにカットされる。その俳優にとって一生で一度のチャンスだったかもしれない。償うことはできない。その人の人生を潰すことにもなる。絶対に許されないこと。多くの人に迷惑をかけ、映画自体を駄目にすることに気づかないようでは俳優失格。もう仕事を続けてはいけない。

親が危篤ということだけでなく、

撮影の日に高熱が出て動けないでも同じ。彼氏に振られたなんて理由にもならない。つまり、何があろうと撮影日には最高の状態で、役作りを完全にして臨まなければならないのだ。見た目にカッコよく、可愛く、皆にキャーキャーいわれて、気楽な商売だな?と思えるかもしれないが、俳優たちは多くの人の期待と、もの凄い責任を背負っている。裏切ることなく、それに応えねばならない。人生を賭けねばできない大変な職業。それが俳優業という仕事なのである。


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俳優残酷物語③ー俳優業は人生を左右する素晴らしい仕事 [映画業界物語]

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俳優は出演依頼があればまず、シナリオを読み、自分の役を把握する。どんなキャラで演じようか? どんなふうに台詞を言おうか? あれこれ考える。そして台詞を覚える。どんなに長い台詞でも、覚えなければならない。ベテラン俳優になると、撮影現場にはシナリオを持って来ない人がいる。それでは現場で「あそこ何だっけ?」とシナリオ台詞を確認できない。

だが、それは「完全に覚えている!」という自負であり。自分を追い込んでいる人たちなのだ。黒澤組の俳優は皆そうだったと聞く。驚いたのは僕のデビュー作「ストロベリーフィールズ」の主人公4人も現場にシナリオを持って来ていなかった。恐るべし天才4人少女!と思ったものだ。

事実、彼女らは10年経った今も第1線で活躍している。本物は若い頃から違うことを痛感する。台詞を覚え、演技プランを考えるだけではなく、体調管理も大事。撮影の日に「風邪を引きました」なんて言えない。そのために多くの人に迷惑をかけるし、撮影できないと、何百万という製作費が無駄になる。

メンタルコントロールも大事。撮影直前に恋人と別れて、塞ぎ込んでいても撮影では全力を出さなければならない。会社員なら上司に「落ち込んでないで仕事しろ!」と叱られただけで済むかもしれないが、撮影ではそうはいかない。

親が危篤でも撮影があれば会いに行けないのが俳優。「その日は欠席させてください」なんて絶対に言えない。そのためにどれだけの人が迷惑するか? 大変なことになってしまうからだ。これが舞台なら、その日の何百人という観客はどうすればいいのか? 個人の事情で休んだり、落ち込んだりできないが俳優業である。

俳優というと奇麗で可愛い存在と思いがちだが、実は人生を賭け、魂を削り芝居をする仕事なのだ。いや、自分の人生だけでなく、人の人生も左右する仕事だ。例えば、親が病気で心配しながら地方ロケに参加した。だから、集中できない。いい芝居ができない。結果、耐えられない芝居と判断されカットとなる。

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本人は自業自得である。が、その場面で共演した他の俳優のシーンもカットされる。俳優ならまだいい。その種のことは覚悟している。が、エキストラの人はどうか? 僕の映画なら市民俳優の人たちも、その俳優のせいで一緒にカットされてしまう。もしかしたら、人生で一度限りの映画出演かもしれず。たぶん、そうであることが多い。よほどでないと映画に二度三度出演する一般の方は少ない。

なのに、その俳優のために、人生で1回きりの映画出演を奪うことになる。友達や家族に「俺、映画に出たんだよ。俳優の**さんのそばにいたから絶対に映っている!」楽しみに映画館に家族と行くと、その場面がカットなっていた。ということもある。

その俳優が親が病気で心配と、力を出せなかったせいで、その人が人生で一度きりの映画出演を台無しにしてしまったのだ。自分の人生だけではない、人の人生まで壊してしまう。おまけに、その人は「自分が素人で下手だからカットされたのかも?」と悩むかもしれない。でも、原因はプロの俳優であることは分からない。

そんなふうに俳優の責任というのは、もの凄く重い。恋人に振られた、親が病気だというのは個人にとっては大きなことだが、それで芝居ができなくなるのなら、役者を辞めるべきなのだ。その苦しみと痛みに耐えて芝居をするのがプロの俳優の仕事なのだから。自分が潰れるのは自由だが、一般の人の人生まで巻き添えにしてはいけない。

その意味で僕は俳優には厳しい。でも、それは同時に監督である僕にも言えることだ。親が危篤でも、恋人と別れようが、いや、自身の体がボロボロで過労死寸前でも、詰まらない映画を撮ったときの理由にはならない。何があろうが、最高の作品を作り上げるのが監督の仕事なのだ。


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俳優残酷物語①ー素晴らしい演技をしても撮影後にカットされることがある? [映画業界物語]

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一般の人は「撮影された場面は全て使われる!」と無意識に思っていることが多い。だが、実際は苦労して、時間をかけて撮影した場面でも、映画館で上映されるときはカットされることがある。

「それは演技が酷かったからでしょう?」と思うかもしれないが、そればかりではない。素晴らしい演技をしても映画本編に使われない幻のシーンとなることもあるのだ。映画はリズムは大切。トントントン。トトトトン!というように、理屈ではなく、リズムで見せて行く事も大事。だから、シナリオ上では重要なシーンでも、撮影をして繋いでみると、そこだけテンポが悪いと、その場面ごとカットすることもある。

他のシーンにも出ている俳優はいいが、その場面しか出ていない俳優もいる。その場合。撮影に参加したにも関わらず、映画には登場しない。という残酷な結果となる。その俳優の演技が下手でカットされたのなら、本人の責任でもあるが、何も罪はないのに出番が完全カット。映画には出ていないことになる。

リズムやテンポだけではない。映画の上映時間も関係する。2時間を超える映画は映画館が嫌がる。1日4回上映ができなくなるからだ。2時間を超えると1日3回上映となり、儲けが減る。当然、映画会社も儲けが減る。だから、編集時に2時間以内にするように会社は指示することがある。

2時間10分の映画なら「10分切れ!」と言われたりする。完成版が2時間10分だとすると、すでに無駄なシーンやテンポの悪いシーンはなかったりする。演技の酷い役者のシーンも、すでにカットしている。そこから10分を切るのは本当に厳しいのだが、そんな理由でバッサリといくつかの場面がカットされることこともある。

となると、それらシーンに出ている俳優も映画に出ていない事になる。真夏に暑い日に撮影したシーンでも、体調が悪い日に無理して参加していても、一世一代の素晴らしい芝居が出来た場面でも無惨にカットされる。

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そして、それら場面に参加しているエキストラ。太田組なら市民俳優の方々も一緒にカットされることになる。そのときは本当に辛い。「あーー、この場面で後ろにいる***さん。何度も差し入れくれたなあ〜。県外から参加してくれたのにカットしなきゃいけない....」ということがある。

もし、それが映画館の都合で、上映時間を短くしろというのなら戦うが、映画のテンポを失わず、完成度を高めるためのカットなら、涙を飲んで切らねばならない。その場面を残せば、映画のリズムが失われ、或はダラダラとして観客を退屈させることになるからだ。クオリティも落ちる。そんなときは涙を飲んでカットする。

俳優さんはカットされることがあることを承知している。かなりショックを受けるが、理解してくれる。が、一般の方は撮影に参加すれば自分は絶対に映っていると思い映画館へ行く。でも、映っていない。それを考えると、本当に辛いが、それもまた映画作り。

主役だろうが、大物俳優だろうが、それは同じ。バッサリとカットされることがあるのも映画。でも、それはより良き作品を作るために大事。分かっていても毎回、胸を痛める。

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日本の企業映画はいかにして作られ? なぜ、詰まらない作品が多いか? [【再掲載】]

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映画館で毎日上映されている映画。

有名俳優が出ていて、それなりに製作費がかかったあれ。基本的には映画会社が企画し、スタートする。最近では、テレビ局。ビデオメーカーが企画した作品の方が多い。或いは、製作会社が企画したものもある。いずれにしてもプロデュサーという肩書きを持つ社員が企画会議で、こんなプレゼンをする。

「ベストセラーの****を原作にした映画を、人気のタレント*****を主演で映画にしたいと考えます」最近はマンガ原作が多いが、まず、その版権を押さえる。「少年ジャンプ」では新連載が始まったとたんに各社から映画化、ドラマ化依頼が来るので、「***というマンガが人気!」といわれてからではすでに手遅れ。

というのは、映画にするにはベストセラーということが不可欠なのだ。せめて人気作家の作品であること。最低でも書籍になっていなければ、企画会議では絶対に通らない。つまり、知名度のない作品を映画化すると、タイトルからまず伝えて行かねばならない。そのためには膨大な広告料が必要だが、ベストセラー原作だと「ああ、あれね! 映画になるんだ」といって覚えてもらえる。

映画会社にとって大事なのは

「内容が面白いかどうか?」よりも「作品や作家に知名度があるか?」が重要なのだ。幸い、ベストセラーであれば、面白いからこそ売れた訳で、そこもクリアーできる。でも、逆にいえば、どんな面白いシナリオがあっても、原作ものでないと映画化はまずされない。

もし、無名の新人ライターが書いたシナリオがもの凄く面白くて、映画化すればヒットしそうだとしても、映画会社は決して採用しない。まず、先に上げた知名度がないからだ。

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例えば若いPが「このシナリオ面白いですよ!映画化しましょう」

と提案しても、こういわれるだろう。「その映画がヒットする保証はあるか? 原作が500万部売れていれば、10%の50万人が映画館に来るという計算ができるが、原作がなければ、そんな計算もできない。何よりお前がそのシナリオを面白いと思うだけで、一般の人は興味を持たないかもしれないだろう」

もし、その若いPが何らかの手段で映画化しても、ヒットしないと「お前が面白い、絶対にヒットするといっただろう?」と責任を追求される。だから、バカらしくなり、そんな提案をするPはいなくなる。さらに、ベストセラー原作を提案して、ヒットしなかった場合は「500万部売れたマンガを原作にして駄目なら仕方ないですよ」という言い訳ができる。だから、若手Pも次第にオリジナル・シナリオを提案することはなくなる。

この構図の基本的な問題点は、

映画化の決定権を持つ重役たちがベストセラー原作の知名度のみにこだわるということだけでなく、シナリオを「読む力」がないということだ。そして「これは当たる!」という商売的な勘がないということ。だから、売れた原作ものに頼る。或いは頭が古くて、新しいものが理解できないか? いずれにしてもシナリオを「読む」力も、時代を「読む」力もないということなのだ。

もうひとつ、「俺は命をかけて、この作品をヒットさせる!」という思いもない。成功させるより、失敗したときのことを先に考えて、まず逃げ道を作る。「ベストセラー原作で駄目なら仕方ない」自分には責任がないと弁解できるようにしているだけだ。

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同じことは他にも言える。

「人気タレントが主演だから」「有名アーティストが主題歌を唄うから」「テレビシリーズの映画化だから」みんな、ヒットするからというより、万が一ヒットしなくて責任を追求されないための提案なのである。真剣に映画を売って会社に大損失を与えたら、窓際に飛ばされる。そうならないようにPたちは「人気ブランド」にすがるのである。これが多くの日本映画が作られる経緯だ。


作品内容そのものより。ベストセラー原作、人気タレント、有名アーティストの主題歌を重用視。それぞれが相反するものでもおかまいなし。そうして決まった企画をテレビ局、レコード会社、コンビニ、メーカーと、いろんな企業から出資を募り、映画化。撮影に入る。

「この作品を作りたい!」とか「このテーマを伝えたい」という思いはほとんどない。がビジネスなので、それはいいとしよう。それならがんばって儲けてもらいたいのだが、単に人気のカードを揃え、多くの金を集めて、大宣伝して上映しようというだけの発想。料理だって高級食材ばかり集めたからと、おいしい料理が作れる訳ではない。映画も同じだ。

が、次第に観客もそれに気づき始めている。

テレビで大宣伝しても、ヒットには繋がらなくなってきた。食品でも、車でも、テレビでも、何でも同じ。作り手側が作りやすい、都合のいいものを作り、冒険も、チャレンジもしない。リスクも負わないでいるようでは、いい物はできず、消費者は満足しない。映画も同じだ。でも、まだまだ、映画会社やテレビ局は、相も変わらず、「人気カード」集めに右往左往しているのが現状だ。


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時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか? [【再掲載】]

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【時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか?】


最近、いろいろと考えることがある。ネットが普及したことで、それまで情報発信の最大手といえたテレビが、いかに都合のいい情報だけを流していたか?が分かって来た。特に311以降。報道番組でさえ、商業主義であること。それは新聞も雑誌も同じだが、疑ってかからないと、ある種の人たちに利用されているだけだと思える。

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ここ数年、スマホについて考えていた。当たり前のように使っていたが、実は必要ないのではないか?と思えている。例えば、友人と喫茶店等で会うと、まずスマホをテーブルの上に置く。電話がかかってくると「ちょっと、悪い!」と電話に出る。急ぎの用ならいいが、聞いていると単なる友達からの連絡。なぜ、時間を裂き、交通費を使って新宿や渋谷まで出て来た友人(私)と話しているのに、それを遮り電話に出るのだろう?

或は、複数で話していると、必ず誰かがスマホでメールやFacebookのチェックをする。これも急ぎの仕事で、常に連絡があるというのなら分かるが、そうではなく。人の話を聞きながら、何かメールが来ていないか? ニュースはないか?とスマホをいじっているだけなのだ。

家族でテレビを観ながら食事する人たちはいる。しかし、友人と会っているとき、電話に出たり、メールやFacebookを確認するのはどうなのだろう? 何か優先順位を間違っていないだろうか? また、若い人たちは友達からメールをもらったら15分以内に返事をするという。でないと、友達関係がむずかしくなるからとか。或は、何かで知り合った人がよく「Lineで繋がってもらっていいですか?」と訊かれる。

これには背景がある。かなり昔に書いたが、今の日本人。若者だけでなく、異様なほど絆を求める。「友達」「仲間」であることを確認しようとする。それは無意識にアイデンティティの確認になっている。寂しさや孤独感の解消に繋げようとする。「こんなにたくさんの友達がいるんだ」という思いで自分の存在を確認。一昔前のプリクラも同じ。Facebookがこれだけ流通したのも同じ理由だろう。1000人友達がいる。と自慢するのも同じ理由だ。

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確かに、一人一人と連絡を取り合わなくても、**君はどーしている? ***ちゃんは今日も仕事か?と近況を知れるのは便利だが、いつの間にか、それも自己確認の強迫観念となり、一日に何度もFacebookを見てしまう。最初は便利からスタートしたメールやFacebookにいつの間にか振り回され、スマホが生活の中心になり、依存症になっている人が多いことに気付く。

その背景にあるのは不安感。1人ぼっちじゃないか? 私だけ置き去りになっていないか? 僕のこと誰も気にかけてくれてないのでないか? アイデンティティが確認し辛い時代。その不安を癒すのがメール。それをバージョンアップしたのがFacebook。Twitterも同じだ。「渋谷ナウ」とか意味もなくtweetするのも「私は渋谷にいるよー。私のこと。みんな忘れないでねー」という心のメッセージだと思える。

自分の存在を、理解、確認、してもらうための行為。スマホはそれを外出しても確認できるツールとして無意識に認知されたことで、普及し、流通した側面が大きい。もちろん、先に書いたことは潜在意識での話であり、それを意識している人は少ない。そして僕の説明もかなり乱暴であり「俺はそんなじゃねえよー」と反論したい人もいるだろう。しかし、人の根源的な欲求に「人からの認知」というものがあり、それを巧みに利用したのがFacebookなのだ。

Facebookによって「友達」が増えたように感じるが、現実の代償作用でしかなく本物の友達ではない。なのに多くの人は現実の「友達」と同じ対応やアプローチをし、求めててしまう。そこですれ違いが起き、互いが傷つく。起きなくていい問題が起こる。仮想現実の中に癒しを求め、さらに孤独感を増幅しているような気がする。

そんなことを書きながらも、僕自身もスマホ依存症になっているように思える。最初は映画宣伝のツールであり、書いた記事や情報の反応を知るために、頻繁に確認作業をしていた。が、考えてみると1時間おきに確認をする必要はない。その夜にまとめて見ればいいのだ。なのに気になって、何度もスマホを見てしまう。

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先日も書いたが、その記事執筆や情報発信に毎日4時間以上が取られている。映画宣伝は間もなく終了する。そして、いずれ書くが今回の宣伝活動を通じていろんなことを感じた。次のステップに上がらなければならないと思えている。そのために、今後も4時間も時間をネットに費やしていてはいけない。スローダウンして行かねば...と考えている。

そしてスマホを持ち歩き、いつでも連絡が着く。必要性が本当にあるのか?と感じ始めた。待ち合わせのときは便利だし、撮影前ならスタッフからの緊急連絡もあるが、通常はない。なのに、スマホを持ち歩くと、外出中に何度もネットを見てしまう。昔は雑誌や文庫本を持ち歩いて読んでいたのだが、今はスマホを見る。電車に乗っても漫画雑誌を読んでいる人はもうほとんどいない。

何か大きな力で、スマホという端末を与えられて身の回りや友達関係に執着することで、大切なものを見逃しているのではないか? 目を反らされているのではないか? そんな思いがあり、先日、スマホを解約した。そして、考えているのがFacebookの存在。映画宣伝の上ではとても有効だったが、いろいろ面倒なことも多い。

Facebookを有効活用しているつもりだったが、ふと気付くとFacebookに振り回されているのではないか? と思えて来る。このことはまた機会があれば書くが、どーも、日本人は機械によって大切なことを見失っているように思えている。それはまだ具体的には書かないが、物語のテーマにもなるので、あれこれ考えている。「向日葵の丘」を観てくれた方は何となく想像が着くだろう。

そんなことをあれこれ考えているのだが、時代は変わり、環境が変化する中、僕らはどこへ向かうべきなのか? 問われる段階に来ていると思える...。





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朝日のあたる家ー本当に圧力はなかったのか? [【再掲載】]

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2013年の記事より

 映画界では原発事故を題材とした映画を作ることはタブー

と言われている。実際、”朝日のあたる家”を作ってみて、それを痛感した。企業はどこも製作費を出さない。大手映画館は上映拒否。なるほど、確かに原発映画を作ることは生易しいことではなかった。おまけに”そんな映画を監督したら二度と商業映画を撮れなくなるぞ!”と先輩たちに脅された。

 ただ、それら障害のほとんどは圧力ではなく、自粛が理由。企業側に立てば、その筋から”出資したらマズいことになるぞ!”と脅されなくても、自粛して出資はしない。ややこしいことは避けて通る。映画館にとっても同じ。何人もの支配人から、ここだけの話。と事実を聞かせてくれた。

 それが現実なのだが、

マスコミ取材ではよく”圧力はなかったですか?”と質問され、先の経緯を説明した。原発問題に関心があるのに、そんな映画を撮ろうとしない後輩監督たちにもそう話した。圧力はなかったと。だが、原発問題に詳しい友人と話したとき、こう言われた。

 ”もしかしたら、朝日のあたる家が映画館で公開されることを快く思ってない人たちもいたかもしれない。ただ、太田監督に圧力を掛ける手だてがなかっただけじゃないかな?”

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 つまり、圧力というのは、

怖い人を雇って自宅に押し掛けるようなものではない。脅迫罪や暴行罪にならないようにして、証拠を残さないようにして追いつめ、都合の悪い行為を押さえつけ、止めることだ。それをマスコミに嗅ぎ付けられ、公表されてはいけない。圧力をかけるのも、なかなか大変なのだ。

 一番圧力を掛けやすいのは、テレビに出ている人。推進派=>スポンサー=>テレビ局=>プロデュサー=>出演させない。という流れで圧力をかけられる。だから、タレントは原発問題に触れたがらない。原発問題を厳しく追及する人ならスキャンダルを探され、暴露されて、社会的に葬られる。

 だが、僕の場合。

テレビの仕事はない。会社にも属していない。だから、圧力のかけようがなかったのではないか?と友人は指摘する。映画人のほとんどはフリー。クビになることはない。おまけに、僕の場合は企業から仕事依頼は来ない。なので、仕事を止めるーというパターンが使えなかったのではないか?ということ。ま、実はそんなことではなく、小物だし、知名度もないし、影響力ゼロなので、誰も問題視しなかった...というのが本当のところからもしれないが。


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 ただ、冤罪という手は有効。電車内で突然”この人、痴漢です!”と見知らぬ女の子に言われて逮捕! 社会的に葬る。もし、僕がそんなことになれば、”嵌められたんだ..."と思って頂きたい。が、そうなるのであれば、”朝日”がかなり影響力を持ったということであり、ヤバい!と思う人たちが多くなったということ。それはそれで映画の威力を証明したことにもなる。

 ま、いずれにしても、原発映画はもうタブーではなくなった。

過敏に反応する必要がないことも実証された。これからはドキュメンタリーだけでなく、原発を題材とした劇映画がどんどん作られるだろう。ドキュメンタリーは真実を伝えると思われがちだが、それでは伝えられない真実もある。

 プライバシーに触れること。実名では語れないこと。あまりに残酷過ぎても、ドキュメントでは駄目。でも、劇映画ならそれを伝えることはできる。映画だけではない。真実を、現実を、本当のことを伝えること。大いなる第一歩になるはずだ。





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「過去を振り返らず、前向きに生きること!」は間違っている!? [【再掲載】]

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業界の先輩から連絡が来た。

 「太田! お前のブログを読んでいると、愚痴ばかり書いているが、もっと前向きに考えないと駄目だ!」

 そんな指摘をされた。はあ?何? 「愚痴? どこが?」先輩の文章をよく読むと、過去の映画であった大変なエピソードや事件をブログで紹介したことを言っているようだ。

愚痴? 前向きに考えないと? 

 意味が分からない。しばらく考えて、やっと分かった。先輩は過去にあった悔しい事件や情けないできごとを語ることを「愚痴」と解釈しているのだ。だから、「いつまでもクヨクヨ悩んでいないで、過去のことはさっさと忘れて、前向きに生きろ」といっているのだ。

 先輩以外にも似たようなことをいう友人はいる。「終わったことをいつまでも言っていても仕方ない。前に進もう!」一見、正しい意見のように思える。どうも日本にはそんな発想が正しいという思いがあるようだ。

 実際、歌謡曲でも「立ち止まるな 振り向くな」とか

 「Don't look back」とか似たような発想のものが多い。一般的に考えても、後ろ向きより、前向きの方が好感を持たれ、支持される。「過去は忘れて前に進もう」は正しいと思われる。しかし、僕はそうではない!と昔から思っている。

 というのは「終わったことをいつまでも言っても仕方ない。前へ進もう」とよく言う友人。一見、前向きながんばり屋のように思える。でも、実際は彼が目指したこと、志したことは何も実現していない。なぜか? 何年も注目していると分かった。

 彼は「終わったことを言っても仕方ない!」と考えて

 「なぜ、失敗したのか?」「どこに問題があったのか?」「どうするべきだったのか?」は考えず。次のことを始めてしまうのだ。そして似たような理由で失敗。また、次のことを始める。

 「終わったことを言っても仕方ない!」というと、サッパリとしていて男らしいと思えるかもしれないが、彼の場合は「反省しない」「原因を調査しない」「問題を分析しない」ということ。彼にとって「終わったことをいっても仕方ない」というのはそういう意味なのだ。学生時代から友人たちを見ていても「愚痴っても仕方ない」「後悔しても何も変らない」という奴に限って、同じ失敗を繰り返し、結局、目標を達成していない。

 僕は失敗したら、こう考える。

 「原因は何か?」「誰に責任があるのか?」「その人をなぜ起用したのか?」「問題は彼の実力のなさか? 責任感のなさか? それとも家庭の事情か?」「僕自身に責任はないか?」「人を見る目が自分になかったのではないか?」「では、あの場ではどうすればよかったのか?」

 全ての関係者の状況を再確認し、僕自身がどう判断し、対応するべきだったか? それもあらゆるケースを考え直す。さらに、人だけでなく、予算、時間、天候、等の影響はないか? 何がどうすれば、問題を収拾し、乗り越えることができたか?改めて想像する。

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 もし、似たような事件が起きたら、

 そのときに考えた方法論を実践する。でも、うまく行かなければ、そのときと、次のときと何が違ったか?また分析、把握して次に繋げる。事件直後だけでなく、何年経っても事件のことを思い出し、時間が経ったことで冷静に見つめ直すことができるので、また分析する。

 もし、単に「**君のせいで大失敗した。許せない〜」と言っているだけなら、先輩が指摘するように、愚痴だ。でも、それだけではなく。その状況を分析し、次の反省に繋げるならば、それは愚痴ではない。なのに先輩は「過去の失敗談」や「苦い話」を書くだけで「愚痴をいうな」といっているのだ。

 付け足すと先輩は「人のせいにするな!」

 とすぐにいう。責任転嫁はいけないが、本当に問題があったのは誰か?を客観的に分析し、なぜ、その人が問題を起こしたか?を理解し、僕らに何かできなかったか?を考えることが必要。だが、先輩は過去の失敗を話すと「愚痴をいうな」問題ある人物の話をすると「人のせいにするな」と怒り、話を終わらそうとする。

 先輩にしろ、友人にしろ、意味をはき違えている。失敗を反省すること。分析することは「愚痴」ではない。それをしないこと前向きというより、愚かなだけ。責任が誰にあるか?を明確にすることは「人のせいにすること」とは違う、同じ失敗を繰り返さないために大切なことだ。

 8月が来る度にマスコミは「終戦記念特集」をするが、

 あれは「愚痴」だろうか? 二度と悲惨な戦争を繰り返さないために、当時の日本は何を間違い、なぜ戦争に参加し、どんな悲劇を起こしたか?を分析、反省するためのものだ。

 同じように僕は、よりよい映画を作るために、機会あるごとに過去に起きた事件を再分析し、反省し、同じ失敗を繰り返さないように自分を戒めながら、その種のエピソードを書く。そのことを学んだのは実はスピルバーグ監督である。

 映画監督というのは傲慢な人が多く。自分は絶対に正しいと思い込んでいる。が、彼の映画を見ると以前の反省に立った演出がかなりある。完成後に問題点を分析して、次はこうしよう!とか考えていることが分かる。

 日本では「終わったことをいつまでも言っていても仕方ない。

前に進もう!」というと、正しいと思われがち。だが、それは違うと考える。何度でも反省して、問題点を把握した上で、同じ失敗を繰り返さないようにすること。日本という国自体が過去の愚かな失敗を繰り返そうとしている現在。そのことを余計に感じてしまう。大事なのは反省と分析。過去の愚行は忘れてはいけない。前へ進むのは、それからではないか?




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