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この記事。印象操作がある。フェイクニュースと同じ手法だ。 [れいわ新選組応援]

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この記事。印象操作がある。フェイクニュースと同じ手法だ。

山本太郎に対する批判記事。読むと白を黒と読者を誘導するフェイクニュースと同じ表現法がいくつもある。まあ、そういう記事は多いが、この記事を書いたは「れいわ」を応援してきたジャーナリストだ。ただ、次号では「苦言であった」というようなことを書いている。が、それをストレートに受け止め辛い。この記事。とても苦言とは思えない。記事を検証してみた。

文中より「半世紀余りにわたって永田町を見つめてきた老練ジャーナリストは『山本太郎の政治生命はこれで終わったね』とサジを投げた」

この表現。なぜ、名前を出さない? 「半世紀余りにわたって永田町を見つめてきた老練ジャーナリスト」と言う表現。「すごい人が山本太郎を否定しているだよ」と言う意味だ。が、ジャーナリストが発言するなら匿名にする必要はない。なぜ、隠すのか? 

スシローが総理批判をするなら匿名にせぬと、もう寿司をご馳走になれないから分かるが、ジャーナリストが山本太郎を批判して困ることはないだろう。それも半世紀に渡って永田町を見つめてきた老練の人だ。太郎が怖い訳が無い。何ら支障もないだろう。なのになぜ?と考えると、本当にこの人物は存在するのか?と思えてくる。筆者が批判するだけでなく「偉い人も否定しているんだよ」という強調のための創作ではないか?

これも以前に書いたが、その後が「とサジを投げた」と言う表現。なぜ、この表現を使うのか?「サジを投げた」言うのは「見放した」と言う意味。老練の人がもし実在するとすれば「これで終わった」と言っただけであり「今後は応援しない」「注目もしない」とは言っていない。つまり、「サジを投げた」表現は筆者による推測。それも「サジを投げたようだ」ではなく「サジを投げた」と断定。なぜ、老練の人の心中を筆者は知っているのか?これも否定を強調するためのに、推測ではなくより強い断定を用いたのだと思える。やはりその老練さんは存在しないのではないか?

この種の表現が文中にいくつもあり、次の号で「前回は苦言だった」というような弁解しているが、苦言というより筆者自身が他人の言葉を借りて(創作して?)「山本太郎はもうダメだ!」と否定したい記事のように思える。アンチ「れいわ」であればよく分かる記事だが、筆者は「れいわ」を応援するジャーナリスト。「次に政権を取る可能性がある」とまで、昨年の記者会見で言っていた。どのような思い出この記事を書いたのか? 苦言とは思えない。意味不明。。以上の点を注意して記事を読めば、あれこれ疑問を感じるはずだ。

これ=>https://tanakaryusaku.jp/2020/07/00023285?fbclid=IwAR3e8gc0m-ihugBY2f4nL6PMJW-1Dx0yJ0F7zldw3ahLV23sVstE06fib4E


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