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都知事選で思い出した話。「朝日のあたる家」を一番批判したのは反原発を唱える人たちだった? [都知事選 2020]


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都知事選で思い出した話。「朝日のあたる家」を一番批判したのは反原発を唱える人たちだった?

今回の都知事選。何度も書いたがライバル候補を批判するだけならいいが、誹謗中傷する支持者たちが多く残念だった。それがネトウヨレベルの人たちなら分かるが、日頃は鋭い意見をツイートしている人まで、そのレベルに下がっていた。そして罵詈雑言をいうのではなく、間違った情報による批判。デマをもとにした発言。それがとても悲しかった。現政権を批判するときは、正確な情報を探し出し発信したり、「なるほど!」という指摘をするのになぜ、あんなレベルになってしまったのか?

また、事実を踏まえていない人もおり、彼らは「熱さ」と「思い込み」だけで応援しているのではないか?という気もした。一方、当選した小池の支持者はというとネットでの応援者はほとんど見られず、テレビでの感染対策パフォーマンスで「知事、頑張ってるなあ」と評価した人と、あとは組織票ではないか? もちろん、候補者の公約に賛同し、まっすぐに応援し、ライバル候補を中傷したりしないマットーな方が圧倒的多数なのだが、いつもはリテラシーある一部の人たちが何かを無くしているように感じた。

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思い出すこと。「朝日のあたる家」を作ったとき。一番注意したのは原発推進派からの攻撃だった。「原発映画はタブー。監督は2度と商業映画は撮れない」と言われていた。それを覚悟で監督。なんらかしらの圧力、嫌がらせはあると思っていた。しかし、意外なところからの批判に驚かされる。原発反対を訴える人たちから一番批判が多かった。「不勉強だ!」「内部被曝が描かれていない!」「福島の事故と同じ展開。ありえない!」(あえて、そういているのだが)そんな批判を数多く見かけた。中には直接、僕自身に言いに来る人たちもいた。

誤解なきように言うが、一番応援してくれたのも原発反対の人たち。彼ら彼女らの応援なしにあの映画の成功はなかった。どの町でもチケットを売ってくれる人、宣伝してくれる人、メディアに告知してくれる人。本当に支えられた。が、同じく原発反対!と唱える人たち。こちらは少数ではあるが、その人たちがあれこれ批判していた。推進派からの批判もあったが、反対派からの批判が遥かに多かった。「朝日」は原発事故の悲劇を全国に伝えるものだ。それを同じ意思を持つ一部の人たちがなぜ、批判するのか?当時は理解できなかった。

その後、分かったこと。一部の人たち。彼らには「原発の反対はこうあるべきだ!」という頑な思いがあった。ある人は「危険性を訴えるだけではダメだ。これからは内部被曝の怖さを伝えねばならないのに、この映画はまるで触れていない。これでは意味がない!」と考えた。またある人は「この映画で描かれたことは全部知っている。こんな初心者向きの映画では何の意味もない。努力が足りない!」と不満を持った。多くの人が原発に対する知識がない時期。基本的なことを伝えることが大事と僕は考えたのだが、その人は自分の知識を基準にしてそれ以下だからダメだと判断したのだ。

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また、別の人は「俺はチェルノブイリから反原発を訴えているんだ。それが福島で事故があった途端に映画にしやがって、遅いんだよ!」と怒る。が、あの当時、僕はまだ学生であり監督業には就いていない。批判するなら映画会社にどうぞ!と思える。何より当時は今以上に原発映画はタブーの時代。なのに、長年、原発に触れない映画、テレビに対する怒りを僕の作品にぶつけていた。

こうして見ていくと、原発事故を描くこと自体を批判しているのではなく、その描く対象、レベル、時期を批判していた。言葉にはしないが原発事故を映画にすることは良しとする。「まだまだ努力が必要がですね〜。そんなことじゃダメだな!」という意味だ。ただ、この目線は教師が生徒に対するものと同じ。師匠が弟子を叱責するときのものに近い。熱い思いのある人たちなので「もっと努力しろ!」と言いたいのだろう。だが、彼らは師匠でも先生でもない。勘違いをしている。

確かに彼らの方が早い段階から原発を反対してきただろう。チェルノブイリ以降から、福島の後でも非常に深く勉強し、知識を持っている。それなら文句を言う前に、チェルノブイリ直後に自分たちで原発映画を作ればよかったのだ。「朝日」の後にでも自分たちが気に入る原発映画を作ればいいのだ。僕は金持ちだからあれが作れたのではない。多くの人の協力で寄付を集めて制作した。どこの企業からも一切の投資は受けていない。彼らも同じようにやればいい。監督を雇って撮らせればいい。誰もそれをせず「あれがない!」「これが足りない!」「努力が足りない!」と高いところから批判するばかり。

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「こども食堂」と同じ構図。貧しい子供達のために無料で食事を提供するこども食堂。その店に近所の大人たちがやってきて「手作りの料理にすべきだ」「自然食品がいい」「勉強も教えるべきだ」と自分たちは何もせずに、あれこれ提案と指示ばかりする。やがて食堂のオヤジは愛想尽きて「こども食堂」をやめてしまう。何もしないくせに口だけ出す。そして自分たちは正しいことをしているつもりでいる。「朝日」を批判した反原発オヤジたちも同じ背景だった。

話が長くなったが、都知事選に戻る。今回、リテラシーがありながらライバル候補をあれこれ批判していた人たち。同じところに陥っていると思える。ライバル候補の公約や言葉の中に、自分が望む全てがないと批判。先の「朝日」批判も、都知事選の誹謗中傷も、どちらも100点を求めている。あの候補は90点だからダメだ。あの公約は10点減点。「はい。アウト!」みたいな感じ。何の見返りも求めず、完全にクリーンで、自分の理想通りの公約を掲げ、一切の誤解を持たせない。そんな候補を求めているように見えた。そのレベルに達していないと否定。攻撃。批判。同じ目的を持つ仲間を潰しているだけではないか? 候補者には100%の理想を求める必要はない。現実の中でできる何かを探し、70点でもまず勝たせて、応援によって理想に近づける。そういったことも大事ではないか?




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