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この本。描いた事実には嘘はない。だが、その表現法は非常に危険。=あえて指摘しておく。 [緑のタヌキ]

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この本。描いた事実には嘘はない。だが、その表現法は非常に危険。=あえて指摘しておく。

この種の本を読むと、いつも引っかかる。この「女帝」でいえば書かれたことは、ほぼ事実であろう。情報通の知人から聞いた話とも符合する。ただ、この本は小池百合子を貶めるために、ノンフィクションではない表現法を多用している。そのことで読者に「小池って本当に酷い」と思うように誘導している。本来、それはルール違反。

多くの人が小池の問題に気づくのはいいこと。だからとルールを無視した表現法を使っていいのか?と思える。ノンフィクションには時々、この種のものがある。「日航123便墜落(撃墜)事件」の本でも近いものがあった。書かれていることはぼぼ事実。でも、それら指摘の裏付けがない。それでは本来、説得力を持たない。その本の問題点を挙げつらうことで中身も「嘘だ」と思われる可能性がある。

こちらの本も同様。その手法を使うと信頼性が損なわれる。また、本来、その手法は濡れ衣を着せる。デマを正当化する時によく使われる。白である人を黒だと誘導する。そのための手法だ。それを黒の人物を黒と証明するときに使うのは違うだろう。

具体的に説明する。例えば「小池は会見で機械のように原稿を棒読みするだけだった」というような表現がある。筆者はその会見の会場にいたということか?「機械のように」と言うのは印象。「人間味がない」「感情がこもっていない」「心がない」と言う意味でもある。その会見に著者がいてそう感じたのなら問題はない。

あるいはテレビニュースで見た。それならいいが、そのことは書かれていない。その場合は「私もテレビで見ていたのだが」と書くべきだが、その記述もない。かなり昔の会見に著書が、その場にいた可能性は少ない。しかし、何も説明がないので著者がその場で見た「事実」のような表現になっている。いないのに見たかのようは記述。読者は「小池は心がないから、そんな風に原稿を読んだんだ。そう言う奴だ....」と感じるはず。これは印象操作だ。

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また、「百合子はそう確信した」と言うような表現が何度かあった。これもおかしい。小説ならOKだが、ノンフィションでなぜ、小池の気持ちを著者が代弁するのか?インタビューして彼女がそう答えたのか? しかし、あとがきでもインタビューは断られたとある。会っていない。取材で彼女が認めたとしても「百合子はそう確信した」と言う表現はおかしい。「後日、小池はそれを認めた」だろう。なぜ、その時に小池がある事実を確信したことを断定して書くのか? 

正確にいえば「百合子はその時、そう確信したはずだ」である。小池の心の内を著者は想像するしかない。それを「確信した」と書くのはおかしい。つまり、これも誘導。読者は「小池はやっぱそんな風に思っていたのか.....汚い奴だ」と憎しみを持つ。もし「小池はそう確認したはずだ」と推論で書くと「でも、そうじゃないかもしれない。別のことを考えていたのかもしれない」と思う読者も出てくる。

つまり、この本はノンフィクションというより小説的な表現が多用されている。(だから映画を見ているような気持ちで読んでしまう)いつしか、小池が主人公となり、小説のように主人公の気持ちを著者が代弁しても(推論を断定にしても)読者は気づかず、それが小池の本音であると受け止めてしまう構成になっている。特に日本人は活字、文章を疑わずに読みがち。それが事実であると思いがち。

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さらにこの著者は自身の言葉で小池を批判しない。「私は許せない」「小池は嘘をついている」と書かない。それらは関係者の言葉で表現する。そのことで著者VS小池ではなく、被害に遭った関係者VS小池という構図にして客観性を持たせ、より小池の酷さを浮き彫りできる。そこに小池自身の思いまでも、著者が代弁するので、読書は確実にある方向に連れて行かれる。これも小説の手法だ。

映画のシナリオでもそうだが、悪役を悪役たらしめるための技法があり、結末に向かい様々な角度から悪行を紹介する。観客が「許せねえ」と思い、最後に主人公に打ち倒されることで観客は拍手をする。それとこの本は同じ構成になっている。(最後に打ち倒されないけどね)それは本来ノンフィクションでやってはいけないこと。ただ、嘘は書いていない。誘導と印象操作だけ。そして、この本を多くの人が読むことで小池の正体を知ることも大事なことだ。

表現に問題があることを指摘して「いい加減な本なんだ。誘導している! 嘘書いてんだ!」と騒ぐ人が出てきても意味がない。できれば多くの人に読んでほしい本。あるいは「お前は小池支持か!この本は真実なんだよ」と勘違いな反論も困る。僕も小池は問題だらけ。支持などしていない。が、昔はライターとしてインタビュー記事を書いたし、ドキュメンタリー映画を作っている。だから表現法がルール違反。本来やってはいけない形で小池を批判することには疑問を感じてしまう。

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以前に映画「新聞記者」についてのフェイクを記事にした。あれも政権の闇を切り込むという意味あるテーマのはずなに、宣伝で誘導と印象操作があった。それに気づかず、誘導された多くの人が「素晴らしい。政権に切り込んでいる!」と賞賛。だからそれを指摘した記事を書いた。素晴らしいテーマでも、印象操作の宣伝をするべきではない。この本も同じ。大事な事実を伝えるのに印象操作や誘導を使うべきではない。

ただ、著者に悪意があってのことではない。「小池は止めねば」という強い使命感で、入り込んでしまい断定したり、自分が見たことのような表現になったのだろう。非常に文筆力がある方なので余計に計算された誘導に感じるものとなったと想像する。ただ、この本を読み単純に「小池、許せねえ」と思った人たちを、同じ手法で白の政治家を黒だと思わせて「許せねえ」と誘導することも可能ということ。そこは注意せねばならない。

映画「新聞記者」検証=>https://cinemacinema.blog.ss-blog.jp/2020-03-26



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