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「ブログに愚痴を書くな!」と言う勘違いな先輩=なぜ、人は自分の価値観であれこれ批判したがるのか? [心理を分析]

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「ブログに愚痴を書くな!」と言う勘違いな先輩=なぜ、人は自分の価値観であれこれ批判したがるのか?

ここしばらく「思い込み」が原因の悲しい事件やその背景を記事にしている。もう、かなり前になるが、その手の記事を読んだ業界の先輩が怒りの電話をしてきた。

「お前、ブログに愚痴ばかり書くんじゃない。恥ずかしいぞ」

はあ? 何が愚痴?と思ったのだが、悲しい話、やりきれない話、辛い話を読み先輩は「愚痴」だと解釈したのだ。そもそも、間違っているのは「愚痴」の意味。辞書を引くと書いてあるが

「どうすることもできないことを、あーだこーだと繰り返し嘆くこと」

僕が書いているのはそれではない。なぜ悲しい事件が起きたか? なぜ、その人はそんなことをしたのか? その動機、背景、理由を探る。分析する。その上でその事件を把握し、今の時代を照らし合わせて考えると言うのが僕の記事。「あーだ。こーだと繰り返し嘆いている」訳ではない。

だが、先輩は辛いことを人に伝えること自体が「愚痴」と思っているようだった。さらに古い人なので「男はグダグダ能書き垂れずに、行動しろ!」と言う。なので意図を本人に説明したら「文句を言うな!」とまた怒られた。

いつも気にかけてくれる先輩であり「文句を言うな」と言うときは、反論できず納得した時、照れ隠しでいう台詞なので分かってくれたとは思う。ただ、同じ映画界で働く先輩ではあるが、現場の人なので監督業、脚本家業というものを理解できていない側面も感じる。特に脚本家業は「喜び」「悲しみ」「憤り」「嫉妬」「絶望」「希望」そんなものを見つめる仕事。

人の感情。行動。対応。それはどのようにして決まり、どのように展開するのか? 心理学にも共通するものであり「嫌なことは忘れて前向きで行こう!」で済ませてはいけない。ことあるごとに、それらを把握することで、物語が書ける。「嫌なことは忘れて」ではなく、あれこれ考える。相手の立場になり、第三者になり、アメリカならどうだ? 江戸時代ならどうだ? と考える。

そのことで悲しみとは何か? 喜びとは何か?が見えてきて、物語が書ける。脚本家だけでなく、監督も同様。俳優が悲しみの演技をした時に、日頃から悲しみについて考えていないと、形だけでしか判断できない。同じ業界の先輩なら、監督や脚本がそんな仕事であることは分かりそうなのに、あれこれ言ってくる。

「そんなことを多くの人が読むブログに書くな! 恥ずかしいぞ。ノートに書け!」

と怒るが、名前を挙げて個人攻撃をしているのではない。仮名だったり、設定を変えてモデルが誰かわからなくして書く。記事を読んでもらうことで読者の反応も分かる。今はこんな事件に共感するのか? こんな言動が嫌われるのだ。と、リサーチにもなる。まあ、先輩は「男は黙ってサッポロビール」のタイプなのと、ネットを全くしない人なので、分からないと言うこともある。

業界の先輩が理解できないのだから、僕の行動、言動がカタギの人に誤解されたり、理解されないのも当然かもしれない。やはり、理解されることを求めてはいけない。それが大事な点なのだろう。


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