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「誰かのために役立ちたい!」と思いながら、大きなお世話で人を傷付ける人達? [my opinion]

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夢を追い掛ける。例えば芸能人になるとか、

ミュージシャンになるとか、俳優になる。小説家になる。というと「カッコいい!」と思いがちだが、なかなか大変なものだ。

 まず、多くの人が寄ってたかって「現実を見ろ」「世の中甘くないぞ」と頼みもしないのに批判、説得にやって来る。親も、友人も、教師も、親戚も、ご近所さんもまず応援してくれない。「辞めろ」「無理だ」「夢はしょせん夢なんだ」「そんなことで食って行けるのか?」とコールを始める。

 僕もそんなことを言われ続けた1人。高校時代に「映画監督になる!」と決めてから、まわりからバッシングの嵐。皆は「お前のために言っている!」というが、邪魔されているとしか思えなかった。そして振り返ると、忠告(?)のつもりで「やめた方がいい。世の中厳しいんだ!」といった大人たちの誰1人、映画の仕事をしたことがなかったこと思い出す。

 それでいて「映画の世界は厳しい!」と言う

「映画監督になんて簡単になれないぞ!」と説教するのだ。不思議なのは大学受験で「早稲田を目指します」「慶応大学を受験します」というと、「おー凄いなあ。がんばれ」という人が多い。もちろん、その生徒の成績を知る担任や親なら「無理じゃないの〜」というが、ほとんどの大人は誉め称え、応援する。「世の中甘くない」「現実を見ろ」なんて言わない。

 もちろん、誉め称える大人たちが早稲田や慶応を卒業している訳ではない。とすると、おかしいのは自分たちが知らない芸能人になることは反対するのに、自分が卒業した訳ではない一流大学を受験するのは応援する。何が違うのか? たぶん、「早稲田や慶応なら努力すれば合格するだろう」という思いがあるのだろう。それに対して「芸能界は努力だけではいかない、運もあるし...」とか想像する。でも、それはヘンだ....。


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 芸能人が近所にいないということもあるだろうが、早稲田、慶応の生徒だって近所にゴロゴロいない。その意味では同じなのに、なぜ、芸能とか芸術というと反対するのか? 要は自分の想像し辛い世界に対する拒否感、不安感がそうさせるのだろう。

 見ていて不安なことを「やめろ」と言っているのである。そう考えて行くと、人の心理が見えて来る。「あなたのため」「現実を教えてやらなければ」といいながら、自分の知らないことを批判したり、忠告したりする。「正義を得たり!」というようにあれこれ言う。

 思い出すのがFacebook問題だ。

現在、休業中だが、一時期、同じことがあった。僕のアップした記事に対して、あれこれ言ってくる人が続出した。「ランチにハンバーガーを食べた」写真を上げると、「体に良くない」「野菜が足りない」と何人もがコメントする。数年前に「朝日のあたる家ーDVD発売は残念ながら出来ません」と記事にしたときも、「台湾なら安くプレスできる」「韓国も安い」「TSUTAYAに頼んだらどうだ?」とコメントが山ほど入った。

 お金がなくてDVDをプレスできないと言っているのではない。「メーカーが手を上げないので発売できないと伝えたのだ。個人でプレスしても流通には乗らない。それでは広くアピールできない。自己満足に終わり多くの人に見てもらえない。だから、映画館にたくさんの観客が行ってくれれば、メーカーが関心を持ち発売もあり得る」という記事。つまり「多くの人が映画館に行ってほしい!」という意味。なのに「韓国でプレスしたらどうか?」「台湾もいいぞ」と多くの人がコメントして来た。

 「TSUTAYAに頼んでは!」

という声もあったが、あそこはレンタル屋である。DVDを製造販売はしていない。そんなふうに残念ながらコメントの100%が当て外れと勘違い。もちろん、コメントをくれた方は「朝日」を応援してくれている。とてもありがたい存在。でも、映画館に行ってほしいと御願いしているのに、「韓国が安い!台湾がいい!」は意味がない。そんなコメントを書く労力と時間があれば、「映画館に行こう」という記事やコメントを書いてくれる方がよほど嬉しい。

 なぜ? 応援している人が何の役にも立たないことにエネルギーを費やす。これは先の夢を追う若い人に大人たちがあれこれ言うのと同じ構図ではないか? 「朝日」を応援してくれる人たち。DVD製造販売の業界をご存知ない。なのに、あれこれコメントしてくる。夢を追う若い人に「芸能界は甘くない」と知らない世界のことを説教するのと似ている。



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 どちらも、自分の知らないことをあれこれ言う。

そして、それが応援とか親切だと思っている。同じ構図。そこから分かること。人は「親切」のつもりで、自分の知らないことを、あれこれ言いたくなる。そして「私は役にたった。彼のために意味ある行動をした」と感じたいのではないか? 

 しかし、現実はどちらも、邪魔をしているだけ、無意味な批判をしているだけであり、本人のために何の役にも立たっていない。そんなことを繰り返す事で、本人から嫌われるような状況を作り出している。さらに言えば、嫌われたときに「親切で言っているのに!」とその人に対して憎悪を持ち。敵対心を持ってしまうことが多い。

 悲しいことだ。

この一連に悪意を持つ人はいない。「親切心」や「応援」しかない。それが結果的に絆が切れて互いに憎悪しか残らない。何が問題か? それは自分の知らないことをあれこれ説教したり、アドバイスしたりして、批判、忠告することだ。その裏に「親切心」があるとしても、本来、そこが間違っている。

 医者でもない人間が「調子が悪い」という友人に「それは糖尿病だから酒を控えた方がいい」なんてアドバイスするだろうか? それは親切ではなく、間違った忠告なのだ。それと同じことを、夢追う若者やFacebookの「友達」にしてしまう人がとても多い。

 では、なぜ、彼らは知らないことを忠告したり、説教したりしてしまうのか? その答えはすでに書いた。「人は誰かのために役立ちたい!」という思いがある。「困った人を助けたい」「迷える人を救いたい」「自分ができる何かを人のためにしたい」そんな優しい思いがある。が、その「思い」が強いので、自分が知らないことまで忠告したり、説教することがある。それが先の2つの例である。

 DVD事件に関しては求めていないことを提案したり、アドバイスしたりしている。つまり「何か役に立ちたい!」という思いが強いので、求められていないことまで、がんばってしまうのだ。それだけ聞くと「いい奴じゃないか!」と言いたくなるが、当事者は大変。頼んでいないことをあれこれ言われて、本当に頼みたいことをしてくれない。夢追う若者にしても、業界を知らない人から「現実を見ろ」と言われても嬉しくない。

 そこが問題。「役に立ちたい」「困っている人助けたい」という素晴らしい思いを人は持ちながら、往々にして、自分が知らないことでも何とか考えてアドバイスしたいと考える。しかし、そのことで相手を困らせる。そして拒否されると「親切で言っているのに!」「だったら勝手にしろ」と怒り出す。

 悪意はない。あるのは優しさ。

でも、そのために問題が起こる。悲しい話だ。どうすればいいのか?その人たちに「知らないことは言わないようにしましょう」と言っても理解できないだろう。そもそも親切のつもりだ。この状況。似たようなものを思い出す。地方での生活だ。近所の人や親戚のオジさんなんかが会うたびにこう訊く。「成績はどうだ?」「大学はどこを受ける?」「就職はどの会社だ?」「結婚は?」ーなんでそんなこと答えなければならないの?ということをズケズケ聞かれた。

 都会で近所の人がそんなことを若い人にあれこれ聞かない。なぜか? 田舎では昔ながらの近所付き合いあり、互いが顔見知りなのだ。***さんの息子さん。***社長の娘さんと、大人たちは子供のことを生まれたときから知っているのだ。だから、心配。だから、応援したい。だから、あれこれ訊く。もちろん、プライベート詮索したいという好奇心もあるが、基本、親切なのだ。でも、だから、あれこれ訊いて来る。

 Facebookも同じ。基本情報を見ればその人が何者か?分かる。毎日、ラインを見ていれば自然に親近感を持ち、応援して上げよう。教えて上げようという気持ちになる。おまけにコメントが簡単にできてしまうシステム。だから、あれこれ言いたくなる。地方生活とFacebook世界は非常に似ている。


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 そう。この2つは同じ背景だ。

忠告する人。される人は互いによく知る関係。だから、親近感がある。応援したい。傷ついてほしくない。だから、何かいいたくなる。それが役立つこともあるだろう。先のようなケースばかりではない。そんなアドバイスに感謝する人もいるはず。ただ、僕の場合は、学生時代にあれこれ大人から当て外れの忠告をされて、うんざりしていていた...。そんな環境のマイナス面を僕は強く感じてしまうのだろう。

 思うのは、もし夢を追う若い人がいるなら、あれこれ言って来る大人たちの言葉には耳を塞ぐべきだ。そのほとんどは当て外れなもの。僕の経験からはそう思う。もし、あなたが俳優を目指しているとして、大人たちがあれこれいう。その中に芸能界で働いた経験がある人がいるなら、俳優の友人を持つ人がいるなら、耳を傾けた方がいい。でも、それ以外の人たちの言葉を聞く必要はない。「親切心」からの忠告だとしても、それは何の役にも立たない。

 結論として思う事。

人は親切な生き物だ。が、同時に「人の役に立ちたい」という思いがある。それを満足させるために、自身が知らないことで忠告やアドバイスしてしまうところがある。それは相手に嫌な思いをさせるだけなのだが、本人は気付かない。相手を責めても理解されない。ということ。

 そう考えて行くと、先日再掲載した記事「Facebookは心癒される喫茶店か? それとも閉鎖的な田舎町か?」で指摘したように、言う側ではなく、言われる側が対処するしかない。つまり、Facebook大好き。一日何度もアクセスという友人もいる。現実の中で友達がおらず、淋しい思いをしている。だから、「誰かのために役に立ちたい」という思いも強い。それをネット世界で実践する。だから、あれこれ言われたくない人はFacebookをやるべきではないのだ。現実に友達が多い友人たちはFacebookに嵌っていないことが多い。

 あれこれ言われたくない人は地方ではなく、都会に住むべきだ。孤独死しても何ヶ月も気付かれないかもしれないが、近所の人と会うたびにあれこれ言われなくて済む。アパートで隣の人と会っても挨拶さえしない。でも、それはとても気楽。そのたびに「大学はどこ?」「就職は?」「結婚は?」「お子さんは?」とプライベートをあれこれ訊かれずに済む。

 そう書くと「淋しいですね」という人もいるだろう。

でも、自分の選んだ人生。本来、生き方を他人があれこれ言うべきではない。本当に役に立つアドバイスや忠告ならいい。でも、残念ながらそれはほとんどない。多くは知らないことを言っているだけなのだから。それがいかに「親切」からスタートしたことだとしても。当て外れな批判、誹謗中傷されるのであれば、最初から聞かない方がいい。

 そう考えて行くと別の問題に気付く。地方の生活やFacebookだけでなく、コミュニティやグループというのも、同じ側面があるのではないか? 人がいる限り、人は「誰かのために役だちたい」という思いがあり、行動をする。それがまた「知らないことを忠告する」という御節介になってしまう。それから逃れるには「アルプスの少女ハイジ」のオンジのように、山に籠もり。1人で生活するしかないのだろう。

 夢を追う人たちだけでなない。夢を掴んだ人たちも実は同じ大変さが待っている。それはまた別の機会に書くが、人の優しさと大きなお世話ーどう考えて行けばいいのか? 難しい問題。






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