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境界性パーソナリティ障害 僕が映画作家として感じることー事実を見極める洞察力が大事? [境界性パーソナリティ障害]

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 あれほど応援していた相手、或いは親しくしていた人が

 手のひら返しで攻撃をしてくる。そして友人知人にもウソをいい触れ回り、信頼を落とされたりすると、例え相手が病気だとしても怒り心頭。何とか反撃して思い知らせてやりたい!と思うのが人の心理でもある。その種のコメントも頂いた。

 それらを読んでいて感じたことがある。ここまでは、自身で勉強した文献や専門家から聞いた言葉を紹介して来たが、今回は映画産業に関わるクリエーターとしての個人の意見を書かせてもらう。

 そのコメントを読み、思い出したのが、映画「セブン」

 キリスト教が禁じる7つの大罪を犯した市民を何の恨みもないのに殺してしまう事件を描いていた。最後に残された大罪は「怒」それを仕掛けられたのは主人公である刑事(ブラッド・ピッド)。つまり犯人はブラピを激怒させることで、犯罪を完結させようとしているのだ。

 さらに激怒して犯人を殺せば、それは犯人と同じレベル。職務として怒りを押さえて逮捕せねばならないのに、怒りに任せて殺してしまう。彼に犯人を断罪する資格はなくなる。

 結果、ブラビは犯人の思う壷に嵌るのだが......凄い物語だと思えた。これまでのアメリカ映画は市民を殺した無慈悲な犯人を追いつめ、ぶち殺すことで「めでたし、めでたし!」というものがほとんどだった。が、「セブン」の凄いところは、犯人を殺したら負けなのである。感情を爆発させ、職務を忘れ、人の命を奪う=殺人鬼と同じ。ということが証明されてしまうというテーマなのだ。


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 今回、境界性パーソナリティ障害を勉強して

 作家として感じたのは、患者が「セブン」の犯人と似た構図だということ。患者は自分に関心を持たせ、究極の形で愛されることを求める。だから、相手が仕事や生活に支障が来しても自分のために尽くすことを求めるのだ。それにより愛されていると感じ、無意識に心の傷を癒す。

 ただ、批判されても、困らない。自分の存在を認知しているから批判すると解釈。それによって絆が切れていないことを実感。だから、無視されると、批判し、攻撃して、自分の方に振り向かそうとする。

 ここが病気たる部分だと思うのだけど、批判、中傷されても喜びとなる。言い換えればアイデンティティの確認に繋がる。そして、相手を振り向かすために、想像もしない攻撃をしてくる。よくここまで腹立たしい批判やウソを触れ回るな!と思える。

 人が食べ物を食べないと生きて行けないように、患者は人から認知、愛されないと死にたくなる苦しみに襲われる。だから、考え抜いた究極の方法で振り向かそうとする。関係者は挑発され、さらなる批判をして、その応酬となる。喜ぶの患者だけ。関係者は傷つくばかりである。

 「セブン」と同じ構図ではないか? 

 犯人はブラピの刑事に究極の方法で「怒り」を呼び起こそうとする。それに挑発されて怒りを爆発。犯人を殺せば、犯人の思う壷であり、犯人の勝利だ。でも、人はなかなか怒りを押さえられず、感情に走り、事態を悪化させる。でも、耐え続ければ、ブラピの勝利なのである。これはもう、悪魔VS人間という構図。それがこの映画のテーマでもある。患者VS関係者も同じ構図だと思えるのだ。

 患者は悪魔のような、普通考えられない嫌がらせや誹謗中傷をしてくる。妄想が入っているので、ウソをいかにも真実であるように吹聴する。信じてしまう人も多く。特に「取り巻き」は月日をかけて洗脳されているので、患者の味方になり、攻撃してくる。患者は被害者を演じ、多くの人の同情を引こうとする。ターゲットとされた罪なき人が悪者にされ、批判される。でも、全ては患者の自作自演なのだ。「セブン」で嵌められたブラピを思い出す。


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 僕個人が考えていることだが、

 これまでのハリウッド映画のように悪いヤツがいる。やっつける。勝利! ハッピーという形はもはや成立しないのではないか? 現代を反映していないのでは?と思えていたところに、「セブン」という映画が登場。大いに納得したのだが、同じことが言える。患者に嵌められて、本当に屈辱的な思いをする。反撃したい。許せない。でも、その段階で患者の思う壷に嵌っているのだ。

 患者は怒らせて自分に関心を向けようとしている。激怒すればこちらが負けということ。これは人間性を試されているような気がする。「セブン」もそうだが、犯人の過去や背景。動機は何も描かれていない。というのは、たぶん人間ではなく、「悪魔」的存在として描いている。

 つまり、悪魔VS人間の物語であり。悪魔というのは人間の弱さや欲望につけ込んで来る存在。いかにして人間は打ち勝つことができるか?という、キリスト教的な物語なのだ。

 境界性パーソナリティ障害も同じ側面を感じる。

 言葉巧み近づいて来て、悲しい過去を告げられ、健気な行動に共感して、親しくなった「友人」。心ある人なら誰でも、そんな人を応援したくなる。だが、やがて「友人」は本性を現す。無理難題を要求。常識を超えたこよを求めてくる。或いは何気ない些細なことで激怒。想像を超える攻撃をしてくる。まわりを巻き込み、大きな騒動になり、多くの人が心傷つく。

真実を知る人は全ての元凶である「友人」=患者を憎むが、これは対人間の戦いではなく、対病気なのだ。患者は悪意でやっているのではなく、病気だから取ってしまう行動だ。それを理解し回避せねばならない。反撃すれば相手の思う壷。より多くの人が傷つくことになる。これは人としての知性や洞察力が問われているのだと思える。

 原発問題でも、安保法制でも、そうだが、筋の通らぬウソばかりの説明に納得して賛同する人が多い。戦争が始まれば被害に遭う国民同士が乗せられて批判しあう。

 戦争が始まるときも「ダマし撃ちをされた!」

 と騒ぎ立てて国民を怒らせ参戦する方法が繰り返し使われて来た。太平洋戦争も、ベトナム戦争も同じ手。話は大げさになっているかもしれないが、同じ構図だと思える。怒りにかり立てられて攻撃しても、報復の応酬となるだけ。

 ウソに踊らされて怒り、無実の人を攻撃しても結果、患者が喜ぶだけ。そして、戦争が始まり喜ぶのは、嘘で怒りを煽った人々。ウソの情報を信じて「許さない!」と怒った人たちは結局、戦火で被害者となるというのも同じ構図ではないだろうか?

 大切なことは何か? 真実を見極めること。ウソを見抜くこと。誰がシナリオを書いているのか? その目的な何か? 怒りで冷静さを失わず、自分はどうするべきか? それを考えることだと思える。境界性パーソナリティ障害の問題なら、その病状がいかなるものか?まず知ることが大事。怒りに震えて反撃することは報復の応酬となり、何も解決しない。今回は映画作家としての意見を綴ったが、この病気を勉強していて、そんなことを感じている。


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