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自分の価値観を押し付ける人たち。なぜ、人はそれぞれ違うことを認めないのか? [アクセス数300超え記事紹介]

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映画撮影を終えると、お世話になった方々に挨拶まわりをする。本来、それは監督の仕事ではなく、製作担当がするのだが、僕の場合はスタッフが集まる前に、1人でロケ地に乗り込み。いろんな人を訪ね、応援を求める。そんなことを1−2年続ける。だから、本来、製作担当が行くべき挨拶まわりに僕も同行する。感謝の気持ちと無事撮影終了を伝えるためだ。ただ、スタッフから言われる。

「監督は早く東京に戻り、編集作業を始めるべき。そして少しでも早く完成させて、応援してもらった人たちに見てもらうことこそが大事。最初は監督と出会ったことで、応援してくれた方々でも、その後、製作担当に引き継がれた仕事。それを監督が何十人もの人を何日もかけて訪ねるのはどうか? 建築業でも、ビルを建てたからと、社長が関係者を訪ね挨拶をしてまわったりはしない。それは現場担当がやるじゃないですか?」

確かに、その通りだ。が、僕は1人1人の顔も名前を知っているし、何度もごちそうになったり、いろんなことを教えてもらったりしたので、感謝の気持ちを伝えたくて、お礼参り(?)をしているのだ。が、いくつもの町で映画を作りをすると、あれ?と思うことも出て来る。

ある街での撮影後、いつものように地元の方と製作担当と、僕の3人でお礼参りツアーをした。その中で、ある弁当工場を訪ねることになる。そこは大量のお弁当をもの凄く安い値段で提供してくれた。お礼を言わなければならない。

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そのとき地元の方はいった。「俳優とスタッフ全員でお礼に伺いましょう。監督と製作担当さんだけでは失礼ですよ」ん?ちょっと待ってください。弁当を扱うのは製作担当。だから、本来は彼のみが挨拶に行く。僕も本来なら行かない。が、その工場の社長とは何度かお会いしているし、感謝の気持ちを伝えたかった。なのに、地元の方はスタッフ&キャスト総出で行ってほしいという。

「俳優もスタッフも弁当を食べたんだから、お礼に行くのは当たり前だろ!」

何でそうなるのだろう? まず、映画の世界では、俳優&スタッフに弁当を出すのは製作サイドとして当然のこと。それが映画界の決まり。ただ、製作担当者としては、超破格の値段にしてもらえたことで、製作費を節約大助かりだった。だから、製作担当者がお礼に行く。僕も感謝を伝える。

しかし、その地元の方の考えはこうだ。何かをごちそうになったら本人がお礼をいうべきだ。という一般的な発想なのだ。確かに、地元の家に呼ばれて、夕飯をごちそうになれば、呼ばれた客はお礼をいうのが当然。

ただ、映画撮影にその構図は当てはまらない。例えるなら、農家がある社員食堂に超破格で野菜を卸した。その食堂で社員が食事をした。お礼に行くのは社員食堂の担当者だ。食事をした社員はいつもと同じにご飯を食べただけ。なのに、社員も全員、お礼に行けというのと同じになる。

そして、もし、それを実行すれば、バスをチャーターして、1日スケジュールを空けて、皆でお弁当工場に行かねばならない。宿泊費も1日分プラス。当然、俳優事務所はクレームを付けるだろう。

「なぜ、うちの俳優に挨拶まわりをさせるのか! それはスタッフの仕事だろ?」

弁当を出すのは製作サイドの義務。演技以外のことをさせるなら、追加ギャラを寄越せというところも出てくる。結果、全員で行くことで、せっかく破格の値段にしてもらったのに、相当の出費をせねばならない。だったら、通常の業者から弁当を買った方が安上がり。

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でも、その地元の人は映画界の事情が分からない。できれば、先の社員食堂の構図を想像してくれればいいが、スタッフもキャストも皆、撮影隊のメンバーとひとくくりにしているので、全員でお礼をいいに行ってほしいと主張するのだ。事情を説明すると、無理であることは理解してくれた。「じゃあ、監督と製作さんだけでいいよ」といい、彼は弁当工場の社長に平謝りしていた。

挨拶まわりを全て終えて、帰京しても、あとからクレームが来ることがある。「撮影終了から1ヶ月。なぜ、挨拶に来ない。あれだけ応援したのに失礼な!」と言われたこともある。なんで1ヶ月? と思ったのだが、その人の業界では1ヶ月後にあらためてお礼をするのが習わしなのだそうだ。

だが、こちらは編集の真っ最中。その上、製作担当はすでにプロジェクトを離れて、別の仕事をしている。おまけに、別の業界のしきたりを映画作りに押しつけられても困る。こちらは撮影終了。完成。公開。を区切りに挨拶に行っているのだ。もちろん、先方には先方の習わしがあるのだが、それを映画作りにも当てはめて、怒られても困る。

宗教の違いで戦争をする国がある。同じ反原発を訴えながら、些細な違いで互いを批判しあう人たちがいる。推進派を攻撃するなら分かるが、反原発を主張する同士が中傷し合う。どの分野も自分の価値観を絶対だと信じ、それを押し付けようとする。方法論が違えば、自分なりのやり方で進めばいい。違う相手を否定する必要はない。自分の価値観を相手に押し付ける必要はないのだ。

このブログでも、自分と意見が違うからと長々と批判コメントして来る人がいる。が、それは自分のブログで書けばいいこと。なぜ、人は他人に意見や価値観を押し付けるのか? そんなことをときどき考えてしまう。


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柿田龍丸

初めまして柿田です。知人の貼ったボーダーのリンクから興味深くブログを読ませていただきました。

違いを理解すること、言い換えると自分や所属するコミュニティの常識を疑うこと、絶対というものが存在し得ないことを知ること。それがみんながハッピーでいるための条件だと思っております。
私は精神障害と身体障害で年金と生活保護を受給しており、幸い福祉によって生かされ、また幸いにして社会を俯瞰して見ることの出来る立ち位置におります。ネットもテレビも発信するものには必ず意図があって、どれもが偏っていて、そういうものです。
私はどちらでもないものを表現できればいいなと日々考えているのですが、主張が無く弱いものはストーリーが出来ないし、抽象的でわかりにくいものになってしまいます。「で、何が言いたいの?」という一言で片付けられてしまいます。
根っこにあるものが平和に対する強い思いがあっても、ブログで書かれていたアベンジャーズでは正義と正義が戦ってしまっている時点でアウトです。ISILもキリスト連合もどちらも正義ですから、それでは進化が足りません。別の方面で、個々人では無益な連鎖を止めたい人も居て、youtubeなどで発信していることを知れるのは進化の一端でもあります。
偏向報道や意図的な風化などで一方の情報が人の目に触れにくいものを目に見える形で提示することはとても大切なので、監督のようにリスクを背負って作品を創ること、そのエネルギーに恐れ入ります。

この国の閉塞感を打破する方策は幾つかあると思っているのですが実現するよりも泥船が沈んでいくまで行動しないのだとも感じています。
ですが、人類の歴史ってものは決して後退はしていないので希望を持って前を向いていたいですし、監督も希望を持って映画を撮っているのだと思います。DVDを買うことで微力ながらサポートさせていただきます。
長文失礼いたしました。

追伸、友人にも歯に衣をつけずにネット上で物言いをする人がおりますが、政情次第で最悪は政治犯とされる可能性もゼロではないので、亡命も頭の隅に入れておいてください。思考を放棄している人が多すぎるのか、その暇を与えて貰えないほど追い詰められている人ばかりなのかはわかりませんが、流されない人が非国民と呼ばれたのが戦中だったようですし、現代もその流れにある空気ですので、空気を読み続けて、やばいときは迷わず亡命するなりして逃げてください。
by 柿田龍丸 (2016-03-12 22:08) 

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